塔の中で暮らしたい

尾八原ジュージ

きっと塔の中は静かだ

 突然ぱらぱら、さぁっという音が始まった。窓の外を見ると雨が降っている。夕立だ。頭がおかしくなりそうなくらい熱せられた夏の空気が、驟雨のおかげで少しだけ冷たくなる。

 塔が見えた。この学習塾から歩いて二十分ほどかかる公民館より、もっと遠くにあるらしい。真っ白い、灯台をもっと細くしたようなシルエットの塔は、この田舎町にあるどの建物よりも高い。

 あの塔が見えるのは、ぼくが知る限り、ぼくと浅野さんだけだ。浅野さんはいなくなってしまったから、ぼくに「また塔が見えるね」って話しかけてくる人は、もう誰もいない。


 浅野さんに初めて会ったのは去年の夏。塾の夏期講習でのことだった。夏期講習の時期は別の中学校からも生徒がくるので、知らない顔が増える。ぼくが夕立をぼんやり見ていると、突然肩を叩かれた。

「きみ、塔が見えるでしょ」

 振り返ると、女の子が立っていた。長い髪を低い位置でひとつに結んだ、リスっぽい可愛い顔立ちをした女の子は、左目を眼帯で隠していた。突然話しかけられたことにも驚いたけど、それ以上に彼女が塔のことを言い当てたので、ぼくはその子と初対面だってことも忘れて心臓が熱くなった。

 塔が見えるひとに会ったのは初めてだった。

 その塔は実在しないものだってことに気づいたのは、ぼくがまだ小さい頃だった。あんなに目立つ建物なのにぼく以外誰も見たことがないっていうし、それに建っている位置が日によってまちまちなのだ。海の近くに見えることもあれば、葬儀場の煙突と並んでいたこともある。第一それは、雨の日にしか現れないのだった。晴れの日にも曇りの日にも、あの白い塔を見たことは一度もない。「あれはそういうものなんだ」と気づいてから、ぼくは親に「あの塔にのぼってみたい」とせがまなくなった。ただ、雨降りが好きな少し変わった子供になった。

 ぼくが答えに詰まっていると、女の子はもう一度「塔が見えるでしょ」と問いかけてきた。ぼくはあわてて「うん」と答えた。もしも返事をしそこねて、この貴重な仲間を逃してしまったら、一生後悔すると思った。

 彼女は「わたしも」と言って、嬉しそうににっと笑った。それが浅野さんだった。


 それから、ぼくたちは塾で顔をあわせるたびに話すようになった。話題は決まっていた。今日も雨降るかな。夕立くるといいね。あの塔は一体何なんだろうね。そればっかりだった。

「蜃気楼みたいなものじゃないかなぁ」

「わたしはあれ、雨の間だけ本当にあるんじゃないかなって思ってる」

 浅野さんはそう言った。その日は右頬にガーゼを当てていた。彼女はいつもどこかしらを怪我していた。

 浅野さんのことをよく知らなくても、噂だけは耳に入ってきた。彼女の家では今お兄さんがひどく荒れていて、よく暴れるのだという。両親はもうとっくにそれを諦めていて、浅野さんがお兄さんをなだめる係みたいになっているらしい。その噂が本当なのか嘘なのか、ぼくはあえて彼女に確認しようとはしなかった。そういう話はしてほしくなさそうだったし、第一ぼくたちは塔の話をするのに忙しかった。

 ぼくは中学生になってもキッズ携帯しか持たされておらず、おまけに誰と連絡をとったか、両親に逐一チェックされていた。他校の女の子の連絡先など見つかった日には、何が起こるかわからなかった。塾の行き帰りも母が車を出すと決まっていたので、ぼくたちが雑談できる時間は限られていた。


 浅野さんはどんなに顔を腫らしていても、夏期講習にはかならずやってきた。泣き言ひとつ、涙ひとつこぼしたことがなかった。

 彼女の成績はかなりよかった。勉強して県外の、寮がある大学に行くんだと言っていた。

「親が文句言えないように、偏差値高いとこに入らなきゃだから」

 一度だけ浅野さんがそう言ったのを覚えている。ぼくたちにとって数少ない、塔以外のことを話した思い出だ。その日も夕立が降っていた。雑居ビルの五階の教室から、ぼくたちは塔を眺めていた。

「あんなところに住んでみたいなぁ」

 と、浅野さんは言った。「あれくらい高かったら、誰かが下で呼んでたって聞こえないよね」

 ぼくは「そうだね」と相槌を打った。確かに、あんなところで暮らせたらいいだろうなと思った。誰の手も届かなさそうなところで、一人きりで暮らしてみたかった。でも浅野さんなら、そのとき一緒にいてもいいなと思った。


 ぼくの住んでいた田舎町はびっくりするほどいやなところで、ある日浅野さんが隣町の産婦人科から出てきたっていう話が、あっというまにお兄さんとの間にできた子供を堕ろしたって噂に変わっていた。

 それでも浅野さんは夏期講習にやってきた。唇の端が切れて痣ができていた。

「調子どう?」

 ぼくがたずねると、浅野さんは短く「だいじょぶ」と答えた。

 よく晴れた暑い日だったけれど、四時を過ぎたころ、夕立が降り始めた。英語講師の下村先生が、「すごい雨だね」と言って外を見た。ぼくも顔を上げて窓の方を見た。

「あっ」

 思わず声が出た。

 窓のすぐ外に別の窓があった。漆喰を塗ったような白い壁が近くに聳え立っていた。

 学習塾の窓のすぐ外に、あの塔が出現していた。いつもは遠くに見えるだけの塔が、こんなに近くに見えたのは初めてだった。そのとき、

「浅野さんっ」

 先生の声が教室に響いた。

 突然立ち上がった浅野さんは、窓辺に駆け寄ると窓を開け放ち、だれかが引き留める暇もなく、そのまま空中に飛び出して、五階下の地面に転落した。みんなにはそう見えた。

 でもぼくには、窓から身を乗り出した浅野さんが、同じく開け放たれた塔の窓の中へと飛び移ったように見えた。

 飛ぶ瞬間、浅野さんはぼくの方をちらりと向いて笑った。その目の端に涙が浮かんでいたのを、ぼくは確かに見た、と思う。


 雨が降って塔が出ると、ぼくは今でも浅野さんのことを思い出す。あのとき、一緒に窓の外に飛び出してしまえばよかったかもしれない、と何度も考える。

 でも今、あの塔は遠い。どんなに塔がある方角に向かって走っても、虹の根元のようにたどり着くことができないということを、ぼくはもう経験から知っている。やっぱりあの塔は雨の日だけに現れる幻で、決して中に入ることはできないのかもしれない、と思う。

 でもやっぱりあの塔を見るたびに、ぼくには死んでしまったはずの浅野さんが、あの中で静かに暮らしている気がしてしかたないのだ。

 夕立はいつまでも続かない。授業が終わる頃には雨は上がってしまう。明るくなり始めた窓の外を見ると、コンクリートが濡れた駐車場の向こうに、母の車が停まっているのが見えた。

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