第52話

 どのくらい、そうしていただろうか。

 気がつけば、時計は午前三時を示しているではないか。

 

「やば……!!」

 

 可紗は時計を見てぎょっとする。

 道理で体中痛いし、疲労も酷いわけだと椅子に座ったままのびをすればあちこちからバキバキ音がして彼女は苦笑した。

 

「…………」

 

 視線を落とせば、そこには〝おしまい〟の文字と、ひまわりの花束が描かれたページがある。

 

 そう、可紗は書き切ったのだ。

 なにも頭に浮かんだわけではないのに、まるで最初から決まっていたかのように手が勝手に動き始めた。そう可紗には思えた。

 

 それはまるで、魔法のように。不思議な感覚だった。


 だが、夢中で書いた。なにをやっているのかもわからないほどに、本当に夢中だったのだ。

 そして、書き終えた後なんとも言えない多幸感が可紗を包んでいる。

 

(書き切った)

 

 今の自分が、書きたいものをきちんと書けた。

 描き出したかった景色を、色を、このスケッチブックは受け止めてくれた。

 

(……寝なきゃ)

 

 嬉しくて、体が震えている。

 手が疲れているだけかもしれないが、可紗にはそう感じられた。


 このスケッチブックを持ち歩き、毎日あの神社に足を運ぼう。

 そして、あの女の子に見てもらいたい。終わりまで書き切れたのは、あの子のおかげだ。

 あの子がいなければ、可紗は夢を忘れたままだった。


 思い出して、悩むこともできなかった。

 悩んだことは辛かったけれど、しかしこうして書き上げてみて思うのだ。

 

 きっと、きっかけがなければ……いつかどこかで思い出して後悔していたに違いない。

 あの子に出会って、悩んで、悩みながらだけれど光が見えて進路を定めることができた。


 そして、書き切れたのだ。

 

(もう、大丈夫)

 

 これからだって悩むことは多くあるに違いない。


 上達しなかったら、絵本作家になれなかったら、物語を思いつかなくなったら。

 だが、たられば言っていても始まらないのだ。


 そもそも可紗は自身がそこまで頭が良いとは思っていないし、そんな頭で考えるよりもできることから手を伸ばして、少しずつ自分のものにしていけばいいと思っている人間だった。

 

『あんたは本当に、無駄に悩むくらいならやってみて失敗すればいいのよ。お母さん、いつだって失敗して泣くんだったら慰めてあげるから』

 

「そうだね、お母さん」

 

『元気が取り柄でしょ? 笑いなさい。あんたの笑顔、お母さん大好きよ』

 

「そうだね……お母さん」

 

 ぽたりと涙が落ちる。

 いつだって、いつだって。

 

 母は、可紗のことを可紗よりも知っていた。

 

「本当にそうだよ、お母さん」

 

 可紗はごしごしと、涙を乱暴に拭ってベッドに飛び込んだ。


 スマホを覗き、新着メッセージの半数が汀であることに反省しつつ目を閉じる。

 興奮して興奮して眠れそうにはなかったが、メッセージを返す気にもなれないしただこの静けさに身を委ねたかった。

 

(ああそうだ、明日は小テストがあるんだっけ。バイトは……ウルリカ誘おうかな。新作ケーキ食べてもらいたいってオーナー言ってたもんね)

 

 じわりと、今まで失われていたなにか・・・、そんな部分が満たされる。

 それは、空腹が満たされたときのような感覚にも似ていたし、二度寝の心地良さにも似ていた。


 だが、どれも違うようでもあり、ただ可紗にとって心地良かった。

 ぼんやりと、その心地良さに身を委ねて眠りについたのだった。

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