第51話
それから、幾日か経ったある日のこと。
可紗はスケッチブックをテーブルの上に置き、ジルニトラの前に座っていた。
「なるほどねえ」
常と変わらず、穏やかに微笑み紅茶を飲んでいたジルニトラは可紗のスケッチブックを手に取り、ぺらりぺらりと捲っていった。
それはあの日、女の子に見せた物語。
未だに完結までの物語は思いつかない。
それでも、できればこの物語を完成させたいと彼女は日に日に強く感じるようになっていた。
そして、あの日、あの女の子が見せてくれたように、多くの人を同じように笑顔にしたいと思ったのだ。
「一度は、諦めた夢です。今更もう一回なんて、都合が良すぎるかなって何度も思いました」
「…………」
「それでも、やっぱり私は絵本作家になりたい」
きっとあの女の子に出会わなければ、気づかなかっただろう。
一度は心の中にあるゴミ箱に捨ててしまった夢を拾い上げていなかったことにするなんて、みっともなくて格好悪いと言われるかもしれない。
自分がそう思ったのくらいだ、他人の目にどう映るのか考えると怖くなる。
それでも、諦められなかった。
本当に願っていた夢は、変わってなどいなかったのだ。
「大変な道だと思います。どこかの大学に入って児童文学を学んで、その間もチャレンジしていこうと思ってます。奨学金制度とかももっと具体的に調べるし、バイトもするつもりです。できたらこの家から通いたいと思ってます!」
一息で自分の意見を述べ、必死に訴える様子を見せる可紗に向かってジルニトラは指を一本ぴしりと突きつけた。
思わず勢い込んで前のめりになっていた姿勢が戻って、可紗は椅子に座り直す。
「……いいじゃないか。夢ってのは大事だよ。それにかまけて、甘えて、誰かに迷惑をかけるようになったらだめだけど、今のお前さんなら大丈夫だろうさ」
「じゃ、じゃあ!」
「奨学金についてはもう少しお互い話し合おうかねえ、そこはアタシも保護者として承服しかねるっていうか、どうせ使ってない財産があるんだから使わせてほしいのだけれど」
困ったように小首を傾げるジルニトラに、可紗はなんとも言えず乾いた笑いを浮かべる。
人によっては一生縁がなさそうな台詞をさらっと言ってしまうのだから、一体ジルニトラの総資産とやらはどれほどあるのかと思うと怖くなるくらいだ。
あれからヴィクターは宣言通り変わらない態度で接してくれている。
どうしたらいいのか、挙動不審になるのは可紗だけだ。
だが、彼がそうしてくれている優しさに、いつまでも可紗が足踏みしていてはヴィクターにも、汀にも失礼だと少しずつ前を向き始めていた。
「このスケッチブックの物語」
「え? はい!」
「最後まで書けたら、アタシにも見せてくれるかい」
「……はい!!」
ジルニトラが、スケッチブックを可紗に手渡す。
その期待してくれる言葉は、賛辞と同じだ。
可紗は胸がいっぱいになってスケッチブックを抱きしめた。
部屋に戻って、進路調査票に進学希望と殴り書きをして、可紗はアプリをタップして汀にメッセージを送る。
【進学することに決めたよ!】
それは至ってシンプルなメッセージ。
続けて可愛らしいキャラクターのスタンプを押して、可紗はベッドに寝転がった。
既読の文字がメッセージの横についたかと思うと、ポンという軽快な音と共に汀からの返信が送られてくる。
「はや!」
思わず笑ってしまったが、今日ジルニトラに進学したい旨を伝えることを事前に彼には相談してあったのだ。
きっと結果を気にして待っていてくれたのかもしれないと思うと胸が温かくなった。
絵本作家になりたかったんだ。
そう言った可紗を、汀も否定しなかった。
大変だろうけれど、いい夢だと思うと言ってくれた。そしてただ賛同するだけではなく、いくつもの大学を調べて提示までしてくれたのだ。
この大学は有名な児童文学の研究者がいる、この大学は臨時講師で現役の絵本作家が講義しに来てくれる、あの大学は図書館が充実しているなど次々示されて、可紗が目を白黒させてしまったものだ。
【一緒の大学に通えたら、嬉しい】
ぽん、といくつかのメッセージの後に入ってきたその言葉に可紗は息をのんだ。
汀は経済学部志望で、可紗は文学部志望になるだろう。
同じ大学でとなれば、校内でもトップクラスの彼が狙うべき大学は可紗にとっては厳しいということだ。
可紗に合わせてもらえばいいだけだろうが、それは彼女の望むところではなかった。
【今度、時間ある時でイイから勉強教えてほしいな】
思わず反射的に送った返事はあまりにも可愛げがなくて可紗は自分でも驚きだった。
可愛く思われたいならこういうときは【嬉しい!私も!】くらいしてみせろよ自分と嘆きつつ、それでも少しでも足手まといなんて言われないように努力しようと気合いを入れ直す。
ベッドから上半身を起こして気合いを入れ直した可紗は、ふと視線を机の上に向けた。
そこには先ほどジルニトラに見せたスケッチブックがある。
(……あの子。どうしてるだろう)
あれから神社の境内を覗いてみても、あの女の子に出会うことはなかった。
今すぐは書けそうにないことを伝えて、謝罪をしたいと思っていたのに。
(そういえば、名前も知らない)
ひまわりのワンピースを着た女の子。
可紗は、あの子についてそれだけしか、知らない。
ぺらりと捲った最後のページ、そのスケッチブックの中の女の子は、四季の森で手に入れた花を抱えて途方に暮れながら前を歩いている。
気がつけば、可紗は机に向かっていた。
これだというなにかが思いついたわけではなかったし、本当に気がついたら書き始めていた。
無心に色鉛筆をとって、ペンを走らせて、視界の隅でスマートフォンがちかちかと光っているのも気づいていたが、目の前にあるスケッチブック以外、気にならなかった。
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