第50話

「私、汀くんが好きです」

 

「えっ」

 

「一年生の頃から、ずっと好きでした。図書室の古い本を、丁寧に補修して、できあがったときに優しく笑う姿を見て、きっと優しい人なんだろうなって思ったの」

 

 それは、可紗が恋をした瞬間だった。

 今のような夕暮れ時に、茜色に染まる図書室の中で汀が作業しているところを偶然見かけた一瞬だった。


 その頃の可紗はまだ理由もなく、誰も手を挙げなかったからと図書委員になっただけだったけれど、このときはとても幸運だったと……今でもそう、思っている。

 

「他の人と仲良くしている感じでもなかったけど、頼まれたら断らないところとか、新しい本が入ると一番初めに借りていくところとか」

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 急に生き生きとし始めた可紗に、汀のほうが戸惑いを隠せない。

 それどころか、彼女から熱烈なまでの告白をされたことに彼の顔は真っ赤になっていた。

 

「きみ、今、なにを言って……どうして、いや! 嬉しいけど!」

 

「えっと……うん、あの。なんていうか……勢い……?」

 

 止められれば、それまで勢いのままに気持ちを語っていた事実が理性に追いついて、可紗も羞恥に頬を染めた。


 素直な気持ちをようやく吐露できたとはいえ、勢いで相手のことも考えずにとにかく伝えなければ!という思いだったのだ。

 

 とはいえ、冷静になってみればとんでもないことをしてしまったと思う。

 ただ、ちらりと可紗が汀を見れば彼は顔を真っ赤にしていたが嫌悪の表情はない。

 嫌われてはいないとわかっていたというズルさはあったものの、それでもその反応に可紗は喜びを覚えてまた顔を赤らめた。


「……ぼくから、言うつもりだったのに」

 

「ご、ごめん……え? 今なんて?」

 

「ぼくもきみが好きだ。だから、お付き合いしてください」

 

 汀がどこかふてくされたように、だけれどすぐにおかしそうに笑ってぎゅっと可紗の手を握った。

 それを握り返すようにして、可紗も頷く。

 言葉は、上手く出てこなかった。

 

「……色々、不安なこととかあるならぼくも相談に乗るよ。これからは、……可紗のカレシになったんだから、頼ってほしい」

 

「でも、私……三ツ地家には相応しいカノジョとはいえないけど、いいのかな」

 

「そんなの別に気にしないでいいよ。うちの父さんなんて駅前のゲーセンでバイトしてるときに母さんに一目惚れされて、そこからなし崩しに婿入りさせられてたんだから……」

 

「ええ……」

 

 それは知りたくなかった。


 思わずそう言いそうになったが可紗はなんとか飲み込む。

 汀の両親は恋愛結婚で逆玉の輿とは聞いていたが、まさかそんな顛末だとは。

 

 その後、可紗と汀はベンチに座って他愛ない話をした。

 進路に悩んでいたこと、幼い頃の夢、母親の話。殆ど可紗が話しているようなものだったが、汀は真剣な表情で聞いてくれた。

 

「……暗くなってきたね。送っていくよ」

 

「うん、ありがとう」

 

 来たときと同じように、手を繋いで歩き出す。

 

 日が落ちる、鮮やかな茜から青、そして夜の藍へと限られた時間だけ見えるグラデーションが空を彩っているのを見上げて、可紗は目を細めた。


 先ほどまでの寂寥感は、もうどこにもない。

 一人ではない、だけれど迷子だった。

 

 それがとてつもなく不安だった可紗の手を、今は汀が繋いでくれている。

 ただそれだけのことが、彼女の心にこれ以上ないほどまでの安心感を与えてくれた。

 

(ああ、私って単純だ!)

 

 考えすぎて、怯えすぎて、たった一歩大した変化もないその前へ進むことをしなかったのは、自分だけだったのだ。

 他の人が前へ進む中、自分だけが踏み出せない。


 それが、だめだとわかっていても変わることが怖くて踏み出せない。

 

 一人だけ、取り残されてなお、どうしていいかわからなかった。

 誰かに手を引いてもらいたかった。

 前に進む方向を、誰かに教えてほしかった。今までは〝母親孝行する〟という道が見えていたから、迷わずに行けただけ。

 母親に、手を引いてもらっていただけなのだ。

 

 気づいてしまえば単純な話だった。

 

「ありがとう、汀くん」

 

「うん? 送るくらい大したことじゃないよ」

 

「そうじゃないけど、うん。でもありがとう!」

 

 くすくす笑う可紗に、汀は首を傾げていたが彼女が満足そうなので気にしないことにしたらしい。

 ゆっくりとした足取りで家に着けば、玄関の前にヴィクターが立っていて可紗はぎくりと体を竦ませた。

 

「……あ」

 

 忘れていたわけではない。

 それでも、幸せいっぱいになっていた彼女の頭から、すっぽ抜けたのは事実だ。

 

(どうしよう)

 

 ヴィクターを、落胆させる。

 しかし心が揺れたのは事実だけれど、可紗が『好きだ』と思ったのは、汀だった。


 ぎゅっと思わず繋いだ手に力を入れれば、汀が首を傾げて可紗のほうを見て、それからヴィクターへと視線を向けた。

 

「遅くなりました」

 

「いや。可紗を送ってくれて感謝する。ジルニトラも待っているぞ」

 

「……うん」

 

「仲睦まじいことはいいことだが、今後はあまり遅くならないように気をつけてくれるとありがたい。それか、事前に連絡をくれるか」

 

(あれ?)

 

 ヴィクターの言葉は、柔らかい。

 普通に年頃の子どもたちを諭す、年長者のそれだ。


 否定するでもなく、なにが悪いのか、それを改善してほしいと頼むその言葉に可紗は顔を上げてヴィクターを見つめた。

 

 いつもと変わらぬ、無表情に近い美貌がそこにはある。

 汀に向けていくつか注意の言葉を告げて、可紗の背に手を添えるようにエスコート。


 いつも通りの紳士な振る舞いなのに、それはいつもと同じでいつもと違った。

 

(そうだ、目が合わないんだ)

 

 俯いていたからというのもあるが、その後も視線が合わない。

 これは偶然だろうか。


 可紗は汀に手を振って家に入り、玄関の鍵を閉めるヴィクターを見上げた。

 

「さあ、手を洗って荷物を片付けてくるといい。おれはその間に食事の支度をしておこう」

 

「うん……」

 

「あの少年と恋仲になったのか。そうと知っていれば祝いの皿を用意してやったのに」


「ヴィクターさん」

 

「なに、気にするな。おれはお前よりもずっと年長者だ。祝福するくらいの矜持は持ち合わせている。可紗を煩わせるような愚かしい振る舞いはしない」

 

「…………」

 

「これからは、家族として可紗を支えると誓おう。お前が望むならば、別だがな」

 

「ヴィクターさん……」

 

 それは、年長者の優しさなのか、それともヴィクターだからこその優しさなのか。

 まだ可紗にはわからない。


 だからなんと言葉をかけるべきか、彼女には皆目見当がつかなかった。

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