第五夜 魔法使いの弟子

第44話

 教室の中は、夏休みを前にすっかり浮かれた空気が漂っていた。

 

 高校三年生の夏ともなれば、これから進学する学生たちにとってどれだけ努力をするかで道が分かれるところではある。

 だがそれと同時に、高校生活最後の夏休みでもあるのだ。

 

 夏期講習などに出て努力を重ねるのは当然のことながら、夏祭りの約束をしたり一緒に勉強を約束したり、部活動をしている生徒たちは最後の大会があったり、やはりそういった面で浮き足立つのはしょうがないと言えた。

 

 しかし、可紗はそんな級友たちと笑って話して約束をして、別れた後にため息を吐く。


 彼女にとっては今も進路なんてものは、まだ遠い話にしか思えないでいる。

 ただ、時間だけが無為に過ぎていくことに、着実に来ている選択に、焦りは隠せない。

 

(……この期に及んで、まだ進路が決められないなんて……お母さんが生きてたらなんて言ったろう)

 

 それこそもう、何度目かもわからないため息ばかり。


 恋にも、将来にも、なにも自分のことなのにはっきりと〝これだ!〟と自信を持って前面に出せるものが可紗には見つからない。

 漠然と、こうだったらいいな……だとか、こうしたいのかも……くらいの感覚しかないことが、可紗には不安でたまらなかったのだ。

 

 他の友人たちに聞いても同じように『なんとなく、人気が高いから』とか『就職より進学のほうがいいかなって』という曖昧な答えが多かったのに、彼女たちは不安よりも未来への期待のほうが大きそうで羨ましかった。

 

(はーあ……やんなっちゃう)

 

 未来に対する不安はどこから来るのだろう、可紗はそこから考えてみた。

 といっても思い当たるモノを一つずつ潰していくくらいしか、今の彼女にはできなかった。

 

(金銭問題?)

 

 確かに奨学金を借りるとなると、借りれない可能性も考えて不安はあるが、元々母子家庭で裕福でもなかったから十分計画はしていた。

 だからその点についてはもう気持ちの整理がついている。

 

(保護者の問題?)

 

 人間かどうかはともかく、ジルニトラは正式な書類も存在する保護者だ。

 なんの問題もないだろう。

 

(将来的なもの?)

 

 それはあるだろうけれど、誰だって未来のことなんてわからない。

 不安に思うのが当たり前で、今感じている不安はそういうものではない気がする。


 だが、それがなんだか可紗にはわからない。

 

(あーあ! ほんと、わっっっかんないなーあ!!)

 

 自分のことながら、まったくもって理解ができない。

 

 可紗はバスに乗って帰る途中、あの神社に立ち寄ってぼんやりとベンチに座る。

 夕暮れとはいえ夏の日差しはまだ高く、ジーワジーワと鳴く蝉の声があちこちから聞こえてきてそっと彼女は目を閉じた。

 

 住宅街の夕方だ、生活音があちこちから聞こえた。

 車の走る音、自転車の音、挨拶をしている人の声、駆け回る子どもの笑い声。

 目を閉じていると、まるで世界から切り離されたかのように錯覚してそれらが遠くに聞こえた。


 蝉の声のほうが近く、そしてそれすらも遠く。

 ぽたり、と。こめかみから汗がひとしずく、顎を伝って垂れる。

 

「……はーあ」

 

 そっと目を開けて、ため息をまた一つ。


 いつまでもこうしているわけにはいかない。

 だが、この一人でいる静かな時間は可紗に少しの余裕を取り戻させてくれる。

 

「やっぱ、ジルさんに相談が確実かな」

 

 どんな道でも、可紗が選んだ道ならば応援してくれるだろう。

 迷いがあるならば、それを晴らすための助言もくれるに違いない。


 それでも、ここに至って迷いがあるということを明かしたくなくてこうして悪あがきをしている自分が格好悪くて、可紗はため息を吐くのだ。

 しかし、まだ時間があると悩んでいてもなにも解決はしなかった。

 

 ウルリカの恋は、可紗が知る限り静かに彼女の中で一つの結論を迎えている。

 汀は、進学をより確実なものとしている。

 

 可紗だけが、中途半端で取り残されているような気分だった。

 

(こうしててもしょうがないか……)

 

 必要なのは、覚悟だけ。


 グズグズしていたって仕方がない、頭ではわかっているのだが行動に移せない。

 だが、いつまでもこうしていられるわけもない。

 

「……でも、もうちょっとだけ」

 

 ふと顔を上げたときに夕焼けが綺麗だった。


 なんとなく、美術の授業で使っているスケッチブックを取り出してそれを絵に描き始める。


 幼い頃、夢見た世界を描くその衝動に似ていた。神社の社殿の屋根を照らす赤い光を、木々を茜色に染めるその光景に、なにを溶かし込んだら素晴らしい物語ができるだろう。

 鉛筆を走らせながらそこまで考えて、可紗はピタリと動きを止めた。

 

(ああ、私、やっぱり)

 

 夢を、夢のままで終わらせていた、なんだかんだと理由をつけて。


 だけれど、こうして悩んだときにしたこの行動が、全てを物語っているようで可紗はじわりと目元が熱くなる。

 ツンとした痛みを鼻の奥で覚えて、それらを否定するようにフルリと首を振った。

 

(だめ、ちがう。そうじゃないの、私は……だって、夢だけじゃ食べていけない。お母さんに親孝行するって決めたじゃない!)

 

 そうだ、絵本作家の道は食っていくのに厳しいと中学時代に教師に言われ、今まで苦労をかけた分、母親の助けになりたいと、夢よりももっと現実的な、手に職をつける方向で進んでいこうと計画していた。


 いずれは資格を取って、就職して、奨学金を返しながら少しずつ親孝行をしようと、そこまで考えていたのだ。

 

 だが、その母親がいなくなってしまった。

 可紗の目的は、そこで消えてしまったのだ。

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