第41話

 三ツ地の家から帰った可紗は、ぼんやりとしていた。

 

 あの後、話し合いを終えた汀の母が茶菓子をたくさん用意してくれて、最後は楽しくお茶会をして解散したのだ。

 とはいえ、可紗からすれば汀の行動に心がかき乱されっぱなしである。

 

(カノジョは、いなかった)

 

 友達になりたいと思っていた、そう言ってくれた汀を思い出す。

 そして、それと同時にまるで告白されているのではと思うような空気になった今日の出来事も思い出す。

 

(あれは、どういうことだったんだろう)

 

 もっと話したい、それは友達として?

 

 それとも、もし……もし、だ。汀が可紗のことを〝特別な〟存在だと思って告白をしてくれたなら。

 それにどう答えていたのだろう。

 

 嬉しいとは当然思う。

 可紗はずっと、汀のことを想っていたのだ。当然だ。

 だが、それと同時に恋人になることには躊躇いがある。


 これから受験を迎えてその先、進路で離ればなれになっても関係を上手く保たせるのは難しいなんて話をよく耳にする。

 

 可紗には、自信がなかった。

 

「どうしたんだ、可紗。そんな廊下で黄昏れて」

 

「ヴィクターさん……。いえ、こっから月がよく見えるなあと思って」

 

「ああ、ジルニトラはこの家を買うとき、この天窓が気に入ったのが決め手だったそうだ」

 

 二階の廊下から見上げてもまだ高い位置にある天窓の、更に向こう側で月が煌々と輝いている。

 ヴィクターは可紗の横に立ち、月を見上げて微笑む。それはまるで一枚の絵画のような光景で、思わず見惚れそうになるのを誤魔化すように可紗は俯いた。

 

「……あのボウヤとなにかあったのか?」

 

「えっ、な、なにもないよ?」

 

「嘘が下手だな、それではいつまで経っても立派な淑女にはなれないぞ?」

 

 大袈裟に呆れた仕草をしてみせるヴィクターが、ふっと柔らかく微笑んで可紗の頭をそっと撫でる。

 その手つきは優しく、思わず彼女はうっとりとしてしまった。

 

「真面目に生きるお前はとても尊いと思うが、人の子の一生は短い。恐れるばかりではなく、恋を楽しむことも大事だぞ」

 

「……でも、傷つくのは怖いじゃない? だって、物語を見ているといつも思うんだけど、恋に恋してて真実の愛に出会ったって展開とかよくあるし」

 

 恋に恋する、未熟な娘。

 別にそれは成長の過程で起こりうる失敗の一つに過ぎないのだが、できれば失敗はしたくないのが人間というものだろう。


 だがそういうものを含め〝恋〟というものなのだと可紗にだってわかっている。

 わかってはいても、割り切れず。かといって、恋をしたくないわけでもない。

 

「……わがままだとはわかってるんだけどね」

 

「素直なことだ」

 

 クッと喉を震わせるようにして笑うヴィクターに、可紗は思わず唇を尖らせて不満をあらわにした。

 それでも、反論できないのは相手が彼女よりもずっと年上で、大抵のことを許してくれる存在であると知っている安心感からだった。


 これが同年代だったなら、笑って誤魔化すか、馬鹿にされたと怒ったかもしれない。

 

「……しかし、怖いか。なるほど」

 

「ヴィクターさんだって初恋ってあったわけでしょ?」

 

「それはまあ、そうだが。……そうだな、ならおれと恋人になってみるか?」

 

「はあ!?」

 

「なんだその反応は。傷つくな」

 

 唐突な提案に、驚くなと言うほうが無理だろう。

 可紗がぱくぱくと上手く言葉が紡げず、まるで鯉のように口を開閉したが、ヴィクターはそれを笑うことなく真面目な顔で言葉を続けた。

 

「おれはこう見えて紳士だし、そこいらの若造に比べればエスコートとにも長けている。お前よりも年長者で、ジルニトラほどではないが蓄えだってある」

 

「な、な、な」

 

 アピールするかのように自分が恋人になるメリットを指折り語り始めたヴィクターに、可紗は思考がついていけない。

 だがそんな彼女を見つめながら、彼はにやりと笑っただけでプレゼンを止めようとはしなかった。

 

「まあ可紗も知っての通り、おれは人間ではなく吸血鬼だが……そこは些末なことだな。それに決まった相手がお互いいるわけでもない」

 

「そ、それは、そうかもだけど」

 

「それから、ジルニトラがどう思うかだが……ぽっと出の、どこの馬の骨ともわからん相手にお前が傷つくよりはおれのほうがマシだと言ってくれるんじゃあないか」

 

 確かに悪い点など一つもない。

 ただ、可紗は今までヴィクターをそんなふうに見たことがなかっただけで。


 とてつもなく美形で、鑑賞対象としては眼福であるが、恋人関係に……など考えたこともなかった。

 それに、彼から見て自分は赤ん坊のごとく幼いのだと可紗は思っていたからだ。

 だから、こんな提案をされて彼女は戸惑うしかなかった。

 

「ヴィクターさんに、メリット、ないじゃん……」

 

「……そう思うか?」

 

「えっ、あるの!?」

 

 思わず俯いてしまった可紗が、ヴィクターの言葉に勢いよく顔を上げた。

 その様子に苦笑を浮かべた彼は、呆れたように笑いつつそっと可紗の頬を撫でる。

 

「おれだって、人恋しいときくらいあるさ。誰でもいい訳じゃあ、ない。それはわかるな?」

 

「…………」

 

「お前なら、いいと思った。お前にとっても、いいと思った。それだけだ。だが、理由としては十分だろう」

 

 ヴィクターの手はどことなくひんやりとしており、可紗はくすぐったさに小さく身じろぎをする。

 その様子に、彼は愛しいもの見るような優しい眼差しを向けていた。


 そのことに気がついて可紗が困惑した視線を向けると、触れていた手がそっと外されてヴィクターが一歩下がる。

 

「さあ、もう夜も遅い。ここからは人は眠る時間だよ、マドモアゼル」

 

「……ヴィクターさん」

 

「おれを選びたくなったなら、いつでも来るといい。後悔はさせない」

 

 可紗は去って行くヴィクターをただ呆然と見送ってから、自分の部屋に戻った。

 どきどきと早鐘を打つ己の心臓を押さえ込むように胸に手を当て、ドアを背にずるずるとへたり込む。

 

(あれは、告白? 違う、ヴィクターさんは私に恋のなんたるかを教えようと、でも人恋しいときに一緒にいるのなら私がいいって)

 

 もしあの場で答えを求められたならば、答えられただろうか? 可紗は自問する。

 答えはきっと、出せなかっただろう。


 昼間の汀が言葉を重ねていたとしても、きっとそうだ。

 怖くて踏み出せない、喜びよりも不安が勝る。

 

 おそらくヴィクターはそんな彼女を見抜いて、いつでもいいと言ってくれたに違いない。

 そこに大人の余裕を見出して、可紗は悔しくなった。

 

(私だけが、足踏みしているみたい)

 

 ウルリカのように、自分も恋にむけて踏み出す勇気があればいいのにと可紗は心底思った。

 彼女のように暴走して他者に迷惑をかけるような真似はしたくないものの、あれほどパワフルに動けるほど自分は恋をしているだろうかと疑問に思ってしまったのだ。

 

 今まで汀に対して向けていた感情は、ウルリカのそれと比べてどうだろうか。

 あそこまで駆り立てられるような激情はなかったし、カノジョがいるという噂を聞いて納得もしてしまったし、悔しいというより寂しいという感情しか湧かなかったこれは恋ではなく憧れだったのではないか。

 

 では、汀から向けていたあの眼差しに動揺したこの気持ちは?

 ヴィクターに触れられて、早鐘を打つこの心臓は?

 

 可紗には明確な答えが必要だった。だけれども、その答えを出す肝心な本人が一番わけがわからなかったのだ。

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