第36話

 なんだろうと可紗が振り返ると、ヴィクターが小さく笑みを浮かべて、可紗にだけ聞こえる大きさで「あまり待たせるのも少年に悪いだろう?」と囁くものだから彼女は慌てて汀の手を取った。

 

 すれ違いざまにヴィクターは汀にも声をかけていたようだが、そちらは可紗には聞き取れない。

 ただ、からかったのかもしれない。汀がいやそうな表情を少しだけしていたから。

 

「それじゃあジルニトラ様、わたくしどもはこちらへ。精一杯おもてなしをさせていただきますわ」

 

「おや、嬉しいねえ」

 

 大人たちは大人たちで和気藹々わきあいあいとしている様子だ。

 可紗はそれを肩越しにそれを見ていた。

 だがヴィクターがその視線に気づいたらしく、ぱちりと視線が合った。


 するとヴィクターはふわりと微笑んで、口元に人差し指を与えて『シー』というジェスチャーとともにウィンクをして見せ、そのまま可紗たちに手を振って背を向ける。


 そんな彼の仕草に思わず赤面してしまった可紗を急かすように、汀が手を引いた。

 

「あっ、ご、ごめん。おまたせ!」

 

「……大丈夫、足元に気をつけて」

 

「う、うん」

 

 ゆっくりと誘われるままに、可紗は庭へと足を踏み入れる。

 

 三ツ地家の庭園は、見事なものだった。

 玉砂利で整えられた枯山水、色とりどりの花が咲き乱れる花壇。


 どれもこれも常に人の手が入っているのだろう、ゴミや雑草は一つも見られない。

 

「これぞ日本庭園って感じだね!」

 

「そう? 毎日見ているとあまり特別には感じないけど、そうなのかもしれないね」

 

「……汀くんが和服姿ってのもびっくりしたよ」

 

「ああ、そうか……私服で会うなんてないしね。普段からうちは着物が基本なんだ。……今時の高校生らしくないって自覚はあるから、変だって笑ってくれてもいいよ」

 

「そんなことないよ! すっごく似合ってる」

 

 可紗が力説するように言えば汀はそれに少し驚いた様子だったが、すぐに照れたように笑った。


 二人が庭を更に進むと、藤棚が見えた。

 それに池もある。


 まるでそれはこの庭にあって、別の存在のような、とにかく特別だと可紗が思うほどに美しい場所であった。

 その光景に、可紗はただただ感嘆のため息を漏らすばかりだ。

 

「綺麗だねえ……」

 

「そう? そう言ってくれると庭師も喜ぶよ。幸い、うちの藤は少し遅咲きなんだ。綺麗なときに見てもらえてきっと藤も喜んでいると思う」

 

 藤棚の近くに池があり、その畔には椅子と机が置いてある。

 おそらくここは、三ツ地家の人間にとって憩いの場なのだろうと可紗はうっとりとその光景を眺めた。

 

「……三ツ地の始まりは、あやかしに土地を守ってくれるよう、人々が願ったのが始まりだと言われているんだ」

 

「え?」

 

「当時、この地は水害が酷かったんだって。だから人々は神ではなく身近なあやかしを崇めることで、恩恵を得ようとしたらしい」

 

 唐突に語り始めた汀が、畔の椅子に歩み寄って可紗を座らせた。

 そして、汀も反対側の椅子に座り、藤を見上げる。つられるように、彼女も藤を見上げた。

 

 風に揺れる藤はゆらり、ゆらりと日の光を受けて艶やかにそよいでいてなんとも美しい。

 

「蛟っていうのは、水辺に住まうあやかしの一種でね、蛇とか竜とか……まあそんな感じだと思ってくれたらいい。それで、そこにいた蛟に『水害から守ってくれるなら、生贄いけにえを差し出す』と村人は言い出した」

 

「そんな……」

 

「だけど、当時の……つまり、初代っていえばいいのかな。とにかくその蛟は『生贄は要らない。嫁がほしい』と言ったんだそうだよ」

 

 ゆらり、ゆらりと揺れる藤の花を見上げながら汀はなんとも複雑そうな表情を見せている。

 それがどうしてか理解できなくて、可紗は上手く言葉が見つけられず口を閉ざした。

 

「それで嫁いできた女性が、ふじ・・という名前だったらしい。それ以来、我が家ではこの池を蛟、藤を嫁いできた女性と見立てて大切にしているんだ」

 

「そう、なんだね……」

 

 果たして、差し出された女性は幸せだったのだろうか。

 

 古来、あやかしと人の交わりは多く物語として残されてはいる。

 雪女が最たるものであろうし、海外にも妖精と人とで子をなしている物語だってある。

 いわゆる、異類婚姻譚いるいこんいんたんというやつだ。

 それは可紗も知っている。


 ただ、それらが全て〝幸せな結末〟を迎えているかと問われれば、それは難しい話でもあった。

 

「汀くんも……苦労したの? ええと、人じゃない部分とか……。あっ、言いにくいことだったら言わないでいいからね!」

 

「苦労か。したといえば、したかな」

 

「……そ、っか」

 

「年々、蛟の血は薄まりつつあって」

 

 汀は見上げていた視線を己の手に落とした。

 彼はじっと自分の手を見つめているようで、どこか遠くを見ているように可紗には見えた。

 

「ぼくは、久しぶりに男児で生まれたときからあやかしの性質を見せて生まれた子どもだった」

 

「そう、なんだ」

 

「とはいっても、明石さんやマオみたいに一目見てわかるような、大きく変化があるわけじゃないんだ。あの目と鱗。それだけ」

 

 どうして、話してくれているのだろう。

 可紗はただ汀を見つめることしかできない。

 確かに聞いたのは、可紗だ。


 だが、それは……汀が、話をしたがっているように思えたからだった。

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