第9話

 しかし、そんな彼女の新しい生活はそう悪いものではなかった。

 むしろ誰が見ても快適で、幸福な状況だと言ってくれるに違いない。

 

 高校までの距離は幸いにもバスが近くを通っていたので、送迎生活が終了した後はそれを利用することで解決している。

 アルバイト先である駅前からはバスは自宅近くまでたくさん出ている。

 確かに以前住んでいたアパートに比べると遠くなった分、帰る時間は少し遅くなるが、ヴィクターがいつでも迎えに出ると言ってくれるので万が一のときはそれに甘えることにした。

 

 折角の厚意を、申し訳ないからと全て断るのは逆に失礼なのだと母親から聞いたことがあったので、自分でどうにもならないことは甘えて、その分はいつか恩返ししようと可紗は決めたのだった。

 

 少なくとも、新しい家と家族(?)に囲まれての生活はまだ数日ではあるものの、可紗は十二分に良くしてもらっていると自覚している程度には幸せだ。明日には放り出されるかもなんていう心配も、可紗の中から綺麗さっぱり消え去るくらいに今の生活はとても心地良いものだ。

 

(これでお母さんもいてくれたらよかったのに)

 

 ジルニトラとヴィクターは可紗にとても親切にしてくれる。

 おかげで母親を亡くした心の傷も、大分落ち着いてきた。

 癒えたとは、まだまだ癒えそうになかった。

 

 とはいっても、ここ数日はあれこれと慌ただしさのせいで泣く暇がなかっただけだと言われればその通りだと可紗も思う。

 だからなのか、少し落ち着いたかと思えば気持ちは不安定になり、夜に一人きりでいるのがいやになってリビングでうずくまって、泣きそうになるときも増えてきていた。

 

 そんなときは、いつの間にかジルニトラが傍にいてくれたり、ヴィクターが温かい紅茶を出してくれたりしてくれた。

 下手な慰めの言葉よりも、ただ寄り添ってくれる二人には感謝しかない。


 可紗がそう感じるまで、時間はかからなかった。

 

(……でも、いつまでこの送迎生活が続くんだろう)

 

 既に新しい家に越してから二週間が経過している。

 残念ながら安全が確保できていないとジルニトラに謝られつつ、日々は過ぎていく。

 

 すっかりイケメン執事に送迎される可紗という図は高校でも生徒たちの間で見慣れた光景となっていて、話題に上ることはなくなっていた。

 

「すみません、遅くなりました!」

 

「いいや、大丈夫だ。今週もお疲れ様、しかしこのカフェの飲み物はどれも素晴らしいな」

 

「今日はキャラメルマキアートですか? オーナーもいい常連さんができたって喜んでますよ」

 

 可紗のアルバイト先は駅前の喫茶店だ。

 

 といっても大手チェーンではなく、昔ながらの喫茶店なので若い客は時折やってくる可紗の友人たちくらいで、大抵はご近所のお馴染みさんだったり、知る人ぞ知るというような風情の喫茶店であった。

 

 元々は可紗の母親が見つけた喫茶店で、その雰囲気が好きで可紗もアルバイトを始めたのだがオーナーは大変優しいお爺さんで、彼女の母親の訃報に涙してくれた一人でもある。

 そしてジルニトラという保護者が現れたことにも喜んでくれたし、実父が無理矢理彼女を連れ去ろうとした事実を耳にして、我がことのように憤慨もしてくれ、ヴィクターが送迎のために車を駐車場に止めることもむしろ賛成してくれる頼りになるオーナーだ。

 

「……オーナーが、昼間に怪しい様子で喫茶店の中を窺う人がいたって言ってました。私が学校にいる時間帯なので、実父とは違うかもしれませんけど……」

 

「ありがとう、覚えておく。……そろそろ、狩りどきかもしれないな」

 

「え?」

 

「いや、ジルニトラが首を長くして待っているだろう。乗りたまえ」

 

「……ありがとうございます」

 

 スマートな所作で助手席にエスコートされることには今でも慣れない。

 というか、車に詳しくない可紗でも高級車なのだろうと思えるような車に乗るだけでもまだ慣れることはできない。

 毎回シートを傷つけたらどうしようとびくついているくらいだ。

 

 唯一この生活で不満をあげるならば、そういう価値観の違いだろうか。

 

 詳しくは教えてもらっていないが、ジルニトラは想像通りの資産家らしい。

 ヴィクターもヨーロッパの出身だという話だが、出自を聞いてみたところで「君が知る国の名ではないからなあ」なんて笑われて誤魔化されてしまったので、よくわからない。

 

(詳しくは知られたくないってことなのかな。……そりゃそうか、まだ一緒に暮らし始めてそんな経ってないし……私だって、距離感が掴めないし)

 

 車に乗ってシートベルトを締める。

 そして鞄にふと手を伸ばしたところで、目当ての物が見つけられずに可紗はしばらく中身を確認するように突っ込んだ手を動かすが、どうしても見つからない。

 

「どうかしたのか」

 

「あ、いえ……お店の中にスマホ忘れてきちゃったみたいで。ちょっと取りに戻っていいですか?」

 

 言うが早いか可紗はつけたばかりのシートベルトを外して、車の外に出る。

 

 従業員用のロッカーが据え付けられている部屋は、オーナーが帰る際には施錠されてしまう。

 明日は土曜日でバイトの予定がないため、単純に営業中にでも取りにいけばいいのだろうがなければないで不便を感じるものだ。

 もしかすれば友人から大切なメッセージなどがある可能性もないとは言い切れない。


 それならば、オーナーが帰宅する前に可紗は取りに戻ってしまいたかった。

 今ならばまだいるのは確実だったし、店の駐車場だからヴィクターについてきてもらう必要もないだろう。そう判断してのことだ。

 

「可紗、一人で行くんじゃない!」

 

「すぐ戻りますから!」


 可紗はヴィクターの制止する声を背に、喫茶店へと足を踏み入れたのだった。

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