第10話

 ヴィクターが呼び止める声がしたが、それに振り向かず可紗は店の裏口から入る。

 

 中はもう既に消灯したのだろう、酷く暗くて可紗は少しだけ躊躇った。

 だが、普段から通い慣れている店内だけに照明のスイッチの場所だって勝手知ったる物だ。


 とはいえ慣れない暗さに四苦八苦していると、別の部屋に明かりがついているのが見える。

 それは従業員用の休憩室として解放されているところで、オーナーはまだ帰っていないのだとほっとして可紗は明かりのスイッチを入れてそちらに向かった。

 

「オーナーすみません、ロッカーにスマホを忘れちゃった……みたい、で……」

 

 目に飛び込んできた光景に、可紗は血の気が引くのを感じた。

 

 そこにいたのは、老齢のオーナーが頭から血を流して倒れる姿と、その傍らに膝をつく男の姿。

 強盗。

 その言葉が思いついたものの、顔を上げた男に可紗は思わず「ひっ」と引きつった悲鳴が出た。

 

「……ありさ……」

 

 それは、忘れようもない男の姿であった。

 あの夜、彼女を恐怖に陥れた――実父だったのだから。

 

「な、んで、オーナー、オーナーになにをしたの……!」

 

「お前の、住所を素直に教えれば……大体、あのわけのわからんババアさえ現れなければ……そもそも、お前の母親が俺から逃げ出さなければ良かったんだ!! あのクソ女が大人しく謝って尽くしてりゃ、こんなことには……!!」

 

 男の目は血走っていて、可紗は逃げようとして足が震えて動けないでいた。

 がくがくと震える足を叱咤すれば、情けなく尻餅をついてしまった。

 

(ちゃんと、ヴィクターさんの言うこと、聞いていれば)

 

 なにもない穏やかな生活に気が緩んで、ほんの少しの距離だから大丈夫だと言い切ってしまった数分前の自分を殴ってやりたい。そう可紗は思った。

 

 しかしそんなことを言っている場合でもなく、地べたに座り込む形になってしまった彼女の目にはゆらりと体を奇妙に揺らしながら立ち上がり、歩み寄ってくる男の姿が見える。精一杯後ずさるものの、膝が笑ってしまって立てない可紗と男の距離はあっという間に縮まってしまった。

 

 ふー、ふー……と鼻息も荒く見下ろす男の姿は、もはや正気とは思えなかった。

 そもそも妻に暴力を振るい、接近禁止命令を出されるような男な上に、可紗の居所を知るためだけに店に押し入って従業員を殴り飛ばす段階でまともではない。

 

(もうだめ)

 

 あの日のように掴まれて、今度こそ逃げられないかもしれない。

 ヴィクターが裏口にまだいるだろうが、外に逃げることが出来たなら助かるかもしれない。

 

 大声を出せばいいのだろうが、可紗は恐怖で動けなかった。

 以前の反省は勿論あったが、それでもそれを凌駕するだけの恐怖の方が彼女を支配していたのだ。

 

「あっ!?」

 

 手が伸ばされて、思わず顔の前で腕を十字にするような形で防御姿勢をとった可紗だったが掴まれたのは彼女の髪だった。

 容赦のないその行動によって彼女は強制的に立たされたかと思うと再び放り投げられる。


 強すぎる痛みと恐怖のせいで声も碌に出せない可紗の視界に、自分の髪が散らばるのが見えた。

 涙でぼやける視界に、男の手に握られた緑色のリボンが映る。

 

「あっ……そ、れは……やだ、返して!」

 

 それがなんだか理解したときに、可紗は男に飛びかかっていた。


 緑色のリボン。

 可紗の母親が、彼女のためにと刺繍をしてくれた世界でたった一つの、大切な思い出の宝物。


 それが奪われたと気づいたときには、考えるよりも体が先に動いていた。

 

「うるせえ!」

 

「きゃあ!」

 

 取り返そうと駆け寄る可紗を、男は蹴り飛ばした。

 

 瞬間、可紗は背中にぬくもりを感じてゆるゆると顔を上げる。そこには、端正な顔を無表情にしたヴィクターの姿があった。

 

「ヴィクター、さん……」

 

「すまない。やはり一緒に行くべきだった。これはおれの落ち度だ」

 

「ちが、違うの、私が悪いの。リボン、りぼんが……オーナーが怪我、どうし、どうしよ、どうしたら」

 

「落ち着け、可紗」

 

 ヴィクターにしがみつくようにして可紗が訴える。

 そんな彼女の声に落ち着かせるために優しくヴィクターが背をさすってくれることに、可紗は安心して涙が零れた。

 

「このリボンがそんなに大事か? そうか、アイツの持ち物だな? こんなものがあるから、アイツが悪いんだ……!」

 

 対する男はヴィクターの登場が目に入っていないのか、いつの間にか取り出した安物のライターを点火してリボンに火をつけたのだ。

 目を見開いて手を伸ばす可紗の傍を離れたヴィクターがあっという間に男を蹴り飛ばしたかと思うと、端の焦げたリボンを掴み恐ろしく低い声を発した。

 

「貴様は、万死に値する……!」

 

 それは耳にしたもの全てが震えあがるような、そんな声だった。

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