第2話

『貴女が辛いときは、あのひとがロシアから必ず助けに来てくれるわ。それまでに私たちも、胸を張って会えるよう頑張ろうね!』

 

 今思えば、ドイツが舞台の童話なのに、なぜロシアになっているのかも謎だった。

 そういえばロシア語を覚えてみないかなんて言われたこともあったなと可紗は思う。


 憧れでもあるのかと思って、可紗は母親をいつかは連れて行ってあげたい……そんな風に考えていた。だがそれも、もう叶うことはない。


 その事実に、可紗はポロリとまた涙を零す。


 独りぼっちになってからは、全部が空っぽのような気分だ。


 幸いにも可紗の母親は、近所付き合いの他、会社でも良い人間関係を築いていたらしい。

 おかげで可紗を気にかけてくれる人は多く、それはとてもありがたいことであった。


 しかし残念ながら、血縁らしい血縁がいない以上、未成年である彼女は一旦、施設に行くのが妥当だろう。

 そう役所や担任から言われれば、可紗もそれ以上なにかを言うこともできない。

 アルバイトだけで生計と学業を成り立たせることは、今の彼女では実質不可能なのだ。

 当面の生活費は母親が残した貯金があるのでなんとかなるだろうが、これからのことを考えれば仕方のない話でもあった。


 決断を迫られて、荷物をまとめ始めたある日の夜。

 土日を利用して荷物をまとめなければと可紗はせっせと荷造りをしていた。そうやって作業に没頭していれば、その間は悲しいことに目を向けないで済むというのも理由だった。

 しかし、ふと聞こえてきた玄関チャイムの音に、作業を中断して顔を上げた可紗は首を傾げる。

 

(誰だろう、こんな時間に……。またお母さんにお別れを言いに来た人かな)


 時計を見れば、もう既に二十二時をとっくに回っているではないか。


 残業かなにかの後だろうかなどと可紗は暢気に考えて、のろのろとした動作で立ち上がる。

 母親が勤めていた会社の人々もなにくれとなく気を遣ってくれて、会社帰りに様子を見に来てくれることもあったので可紗は特に疑問に思わなかった。

 普段そのような弔問客は二十時以降訪れることはなかったのだが、可紗はぼんやりと〝社会人ならきっと残業でもあれば、そのくらいになるのは当たり前なのだろう〟くらいの感覚でドアの鍵を開けてしまったのだ。


 外にいる人物が誰か確認しないなんて、普段の彼女ならばあり得ない。


 防犯については女の二人暮らしだったのだ、母親に口を酸っぱくして教えられていた。

 それだというのにそんなことが頭からすっぽ抜けて、ごく自然にドアを開けてしまったのだ。そのくらい、今の可紗は普通ではなかった。

 疲れて切っていてなにも考えられず、ただぼんやりとドアを開け、そして顔を上げる。


(……あれ?)


 そこには、可紗の知らない男性が一人、立っていた。


 年の頃は五十歳か、それ以上か。

 よれよれの服を着て、頭髪はボサボサで、無精髭を生やしている。彼女の姿を見るなりにやりと笑みを浮かべた男に、彼女は顔をしかめる。


 その人物に心当たりがなく、ここに至ってようやく不審者の可能性を思い浮かべた可紗だったが、扉を閉めようとして阻まれる。

 

「可紗だろう? 大きくなったなあ……父さんが会いに来てやったぞ、嬉しいだろう」

 

 慌てて大声を出そうとした瞬間、衝撃的なことを告げられて思わずぎょっとした。

 なんと男は、可紗の実の父親だと発言したではないか。

 今まで存在を知らなかった父親の登場に驚く彼女を無視して、男は可紗を頭のてっぺんからつま先まで見て、下卑た笑いを深める。

 

「まあまあ、いい女に育ったじゃないか」


 その様子に、彼女はぞっとした。そんな可紗の様子を気に留めるでもなく、男は言葉を続ける。


「みなしごになっちまったんだ、これからは父さんのところで暮らせるぞ。嬉しいだろう? 今通ってる学校は辞めて、働いて、親孝行してもらおうな」

 

 力比べに負けて、男がドアを大きく開ける。

 いくら気丈に振る舞おうとも、可紗はまだ高校生なのだ。体つきは大人と遜色なかったし、将来のことだって考えられる年齢だ。

 しかし彼女は、まだ大人に庇護されるべき子どもでもあったのだ。

 

「いやっ……」

 

「さあ、来るんだ!」

 

 必死に抵抗しようとも、恐怖で動かない体はたやすく捕まってしまった。

 これまでテレビで聞こえてきたニュースに気をつけなければと思っていても、いざ自分の身に起きた出来事に対して、可紗は動けずにいた。

 

(いやだ、怖い)

 

 自分は大丈夫だなんて言っては母親に呆れられていたことを思い出して、可紗は泣きそうになった。

 父親について聞いたことはなかった。会えないとだけ教えてもらった。

 想像の中で、名付け親というのは本当は父親で、事情があって別れてしまって、もしかしたらロシアにいるのかも……なんて想像を、彼女だって何度もしたことがある。

 

 だが、現実はどうだろう。

 あまりにも、非情ではないか。母を失ったばかりの彼女に現れた父親が暴漢だなんて、今の可紗にとって受け入れがたい事態であった。

 

(助けて……!)

 

 いつもなら可紗を助けてくれる母親の姿は、ない。

 彼女だって、母親が遅れて現れることなどないとわかっている。


 必死に抵抗する以外、道はなかった。

 しかし、ドタバタと暴れ回っても、誰かが様子を見に来ることもない。


 それが可紗の絶望を、より深くした。

 

(助けて、助けて、助けて! 私を、助けて!)

 

 そこで初めて彼女は、〝名付け親〟に願った。

 

 頼りであった母がいなくなった可紗にとって、それは唯一残された、希望だった。

 たとえそれが空想だと誰かに笑われたとしても、縋るものはもうそれしかなかったのだ。少なくとも、その時の彼女にとっては。

 

 引きずられるように外に連れ出された瞬間だった。

 

「その汚い手を離しな」


 凜とした声が、その場に響く。

 慌てた様子で声の方向を見た男につられて、可紗も緩慢な動作でそちらを見た。


 カツン、と廊下に音がする。

 

「その子は、お前のような男が触れていい子じゃあないんだよ」


 それは、とても穏やかな声だった。

 だが、有無を言わせぬ強さを持っていた。

 

 月を背負うようにして現れたその人物は、逆光で姿がよく見えない。

 普段ならアパートの廊下で明かりが点いているはずなのに消えていて、可紗にわかるのはその人物が女性らしいということくらいだった。


 シルエット状の人物の、エメラルド色に光る目がやけに印象的で、何故かその目を見た瞬間に可紗は安堵から全身の力が抜けた。

 

 男がなにかを喚いて、可紗を掴む腕を放して叫ぶ。

 それが、どこか遠くの世界の物事のように思えた。これは悪い夢に違いない、可紗はそう考える。

 まぶたが急激に重くなり、意識が泥濘に沈むような感覚を覚えて『いけない』と思うのに、体はいうことをまったくきかない。

 

 けれど、彼女はもう怖くなかった。

 どうしてだとか、そんな理屈はわからない。直感的に思っただけだ、助かったと彼女はそう感じたのだ。ただそれだけだ。

 

「よく頑張ったねえ」

 

 覚えているのは、声の主が可紗の傍らにしゃがみ込み優しく頬を撫でてくれたこと。

 そして、その優しい声に、彼女は心から安心して意識を手放したのだった。

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