第一夜 魔法使いの名付け親

第3話

 見慣れた天井で目を覚ましたと思ったら、知らない人物が家の中にいた。

 そのことに可紗はぎょっとしたものの、額にタオルがあったことに気がついて自分は介抱されたのだと彼女は理解する。


 だが、正直状況が飲み込めずに動揺するばかりだった。

 

「おはよう、寝ぼすけさん」

 

「あのっ……」

 

 質問を投げかけようとして、なにも浮かばない。

 だけれど、なにかを言わなくてはならないと可紗が必死になって言葉を紡ごうとしたところで、彼女の唇が指先で押さえ込まれた。

 

「はい、落ち着いて。昨日は大変だったねえ、痛いところはないかしら?」

 

「え、あ、え……? は、はい。痛いところは、ない、です……」

 

「そう、それは良かった」

 

 銀の髪に、エメラルドグリーンの瞳。優雅に微笑む美しいその人は、年齢で言えば可紗の祖母と名乗っても支障がない雰囲気であったが、近づきがたい美しさを持っていた。

 

「アタシの名前はジルニトラ、お前さんの名付け親さ。気軽にジルと呼んでおくれ」

 

 優雅に自分が名付け親だと名乗った美しい老婦人は、ぱちりとウィンクをする。

 

 茶目っ気たっぷりなジルニトラのその仕草に呆気にとられた可紗だったが、今の状況がなに一つ飲み込めないために意を決して問おうと口を開いたところで台所の方から人が現れたことに気がつき、視線を上げた。

 

 そこには見たこともないような美貌を持つ、燕尾服を着た人物がいるではないか。


 彼女たちの前にティーセットを持って現れたその人物は、可紗の顔を見てにこりと微笑む。

 思わずぽかんとした彼女を気にする様子もなく、手早くお茶の準備を済ませたかと思うと、湯気の立つティーカップを差し出していた。

 

「驚かせたようだな、すまない。紅茶は好きか? マドモアゼル」

 

「えっ、いえ……あ、ありがとうございます」

 

「ごめんなさいね、キッチンを使わせてもらったわ。この男はヴィクターといって、アタシの執事みたいなものよ。お茶を淹れるのだけは上手いから、安心して飲んでちょうだい」

 

「どうぞよろしく」

 

「えっ、あっ、ありがとう、ございます……?」

 

 ヴィクターは鮮やかな紫色の瞳が印象的な、それこそまさに絵画の中の人物かと言いたくなるほどの美貌を持っていて、声を耳にしなかったら女性かと錯覚するような風貌だ。

 すらりとした長身に、美しい金の髪を後ろで一つに束ねている姿はなんとも優雅で、そこだけきらめいて見えるから不思議だ。

 

 思わず見惚れてしまった可紗は別になにも悪くないのだが、なんとはなしに気恥ずかしくなって彼女は手元の紅茶に視線を落とした。

 

 古ぼけたアパートに似つかわしくない二人の存在に、ただただ圧倒されるばかりで何もわからないままだが、可紗は再び意を決する。


「……えっと、あの、ジルニトラ、さん。助けていただいて、ありがとうございました。お礼を言うのが遅くなって、すみません」

 

「いいのよ。むしろアタシの方が謝らなくちゃ。もっと早くに来てやれなくて、悪かったね」

 

「そのことなんですけど、あの、どうしてここに……? やっぱり、母の訃報を耳にしてですか……?」

 

「まあ、そうだねえ。お前さん、アタシのことはどれくらい聞いているかしら」

 

 困ったように微笑んだジルニトラに、可紗は少しだけ言葉に詰まった。

 

 だが、誤魔化してもしょうがないだろうと素直に話すことにした可紗は、それでもなんとなく複雑な気持ちがあって顔が上げられない。

 

「……実を言うと、何も。ロシアの魔法使いが名付け親だって、母はそれだけしか……」

 

「そうかい」

 

 ジルニトラは呆れる様子もなく、可紗の言葉に頷いた。

 

 そして、ゆっくりとした口調で語り始めた。昨晩現れた男は、確かに可紗の実父であるということ。男の暴力がきっかけで、可紗の母とジルニトラは出会ったのだという話を聞かせてくれた。

 

「あれは、真冬の出来事で……すごく、雪が降っていた夜だったわ」

 

 たまたま友人に会いに東欧の地から日本に来ていたジルニトラが、見るに見かねて声をかけたのが出会いだったのだという。

 

「当時、貴女の母親はコートも着ないで、裸足で雪の中を歩いていたのよ」

 

「そんな……」

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