023 母

 一通りのメニューが終わりました。

 オレは目隠しを外され、ベッドの上でぐったりしていました。一応、ペットボトルの水を一口飲ませてもらえました。ガキの世話はしてくれるんですからね、当然です。熱中症になったら大変でしょう?

 しばらくオレがそのままでいると、伯父のスマホに着信があったようです。画面を見た伯父は、喋らずそこで大人しく待ってろと言い、部屋を出て、ドアの鍵を閉めました。時計を見ました。もうすぐ夕方の六時半になるところでした。

 伯父は廊下で、電話を始めたようでした。伯父の声だけは、よく聞こえたので、父からの電話だと察しはつきました。


「絵理子に視られた?」


 伯父は確かに、そう言いました。


「まあ、それならそれで丁度いいわ。絵理子にさー、持ってきて欲しいものあるし。横にいるんだろ? ちょっと代わって?」


 それから伯父は、廊下を歩き、リビングの方へと行ってしまったようでした。

そうすると、この部屋からは、伯父が電話で話していることは聞こえても、内容までは聞き取れなくなってしまいました。

 絵理子に視られた。それはつまり、母が父の記憶を、既に知ってしまっているということでした。

 母は頑固な性格です。それは兄である伯父も、言っていたとおりです。他人との約束を守ろうとするのが父なら、自分との約束を守ろうとするのが母でした。

 自分から、過去視を封印すると言い始めたというのは、後になってから本人にも聞きました。父や伯父に強制されて、封印したわけではないと、母はそのことだけは強く主張しました。

 ほどなくして、伯父が部屋に戻ってきました。


「今からお前のママが、着替えとか持ってきてくれるって。夕飯、カレーだったらしいぜ? 容器に詰めて二人分持ってくるって。晩飯、どうしようかなーって迷ってたんだ。丁度良かったわ」

「母さん? 母さんが、父さんの記憶、視たってこと?」

「おう。さすがになー、貴斗がお前のこと殴ったっていうのは、無理があったらしいわ。胸騒ぎがしたんだろうな、絵理子も……」


 母が来る。


「さすがに俺も、可愛い妹にこんなもの見せたくないから、お片付けするな」

「母さん、この部屋に、通すの?」

「当たり前だろ? 息子の元気な姿、一目でいいから見せてやらなくちゃな。お前のママが知らねぇババアだったら話は別だが、俺の妹だからさ。お前も妹たちのこと、大切だろ?」


 そうでした。オレも伯父も、兄だったのです。


「あとこれは、俺からの一方的な約束。俺は、恵瑠と璃愛だけは絶対に巻き込まない。何も知らせたりしない。仮にあいつらの片方でも、俺のこと男として見てても、俺は絶対に抱かない。伯父と姪の関係は、崩さない。絶対に。約束する」


 妹たちのことを、ここで初めて思い出しました。


「あのさー、この際ハッキリ言っとくけど、俺さすがに血縁は抵抗あんのよ? お前の気持ちは否定しないけど、受けとるかどうかは別って言ったろ? なあ、お前さ、そもそも俺のこと曲げれるの? 自信あんの? 耐えられるの?」


 オレは何も答えられませんでしたが、別にその質問に回答する必要はありませんでした。伯父は続けました。


「絵理子のことは、まあ、気にするな。オレと貴斗のこと知ってて結婚した女だからな。お前が俺のこと本気で好きになったって知っても、あいつバカだから、息子ったら、父親と同じ人を好きになっちゃったのねーとか思ってるよ。絵理子はな、愛情深いんだよ、とっても」


 母のことなら、自分よりも伯父の方が知っている、とオレは思いました。だって、このときの兄妹は、親子よりも付き合いが長いんですから。


「ま、あいつが視たのって、貴斗の記憶だから、全部はわかってないだろう。お前が俺に本気だってこととさ、お前がさ、自分から、調教されたいって言ったこととかさ。あいつには、俺とお前の記憶は視えねぇからな。もし、もう俺のこと諦めるっていうんなら、黙っておいてやるよ? 約束する」

「えっ……」


 諦める、というフレーズは、何よりも言いたくないし、聞きたくないものでした。


「どうする? 俺のこと諦める? そしたら俺も絵理子に、俺もエロガキ懲らしめて気が済んだから連れて帰れって言うよ。絵理子とは、貴斗より付き合い長いんだからな。俺のことはあいつよりよく知ってるよ。今なら、お兄ちゃんの例の変態趣味に、息子が無理やり巻き込まれただけで済むぞ」


 伯父はスマホの画面を確認しました。


「あと二十分くらいで来るってさ。インターホンが合図だ。鳴ったら、諦めるのか諦めないのか、もう一回聞くぞ?」


 二十分なんて、あっという間に過ぎました。インターホンが鳴りました。だけどオレは、決めていましたから。


「諦める? 諦めない?」

「絶対に諦めない……」


 その言葉を聞いた伯父は、下唇を舌で舐めました。




***




「おう、悪いな絵理子」

「お兄ちゃん、あの、その」

「優貴の顔、見たいんだろ? まあ、ちょっとだけ会わせてやるから。別に元気だよ、心配すんな」


 母の声は上ずっていました。無理もありません。さらに、伯父が指定した荷物を、車の中に置き忘れたと説明していました。


「いつものコインパーキング?」

「うん」

「じゃあさ、俺、取って来るから。その間、二人で話したらいい。車の鍵ちょうだい」


 そうして伯父は、本当に玄関から外に出て行ってしまったのです。

 母との対面には、伯父や父とはまた別の、緊張感がありました。息子としての、羞恥心もありました。

 まあ、ナオさんのご家庭の話は、ちょこっとだけ伺ってるので……羞恥心については、家庭により様々ですね、という無難な感想でよろしいでしょうか。

 さて、うちの家庭は、「息子が母に、男しか愛せないことを知られたくない」家庭でしたから。それを知られたということは、その時のオレが、どんなに恥ずかしかったか。

 ナオさんには想像がつかないと思います。想像しなくていいです。どうせ分かってもらえないんですから。ちょっとこの時の事を思い返すと、苦しいんですよ、恥ずかしくて恥ずかしくて。

 ドアが開き、母がおずおずと顔を覗かせました。


「優貴くん……?」

「ごめん、母さん、オレ……」


 母も、息子の羞恥心くらい、とっくに理解していたんでしょう。オレに、何も聞くことはありませんでした。

 一つだけ、聞いたとすれば、いいかどうか、です。


「ねえ、優貴くん。ぎゅーしていい?」

「うん……」


 オレは母に、優しく抱きしめられました。まるで、さっきの言い方は、妹たちが小さい頃のやつみたいだな、なんて思いましたが。そうじゃないですよね。最初にそうやって、聞かれていたのは、オレのはず。オレは、彼女の、最初の子供なのだから。


「車に荷物置いてきたの、わざとなんだ」


 そう言った彼女の声は、まさしく彼の妹としての、精一杯の抵抗を意味していました。

母は、オレの身体についたアザを、黙って見つめたまま、一つ一つに触れていました。癒そうと、してくれたのでしょう。


「痛かった、よね」

「でも、オレのせいだから」


 オレは、母にだけは、罪悪感を与えるわけにはいきませんでした。


「優貴くんは悪くない。ご飯は、ちゃんと食べさせてもらってるんだよね?」

「うん。お昼はチャーハン、作ってもらった。美味しかった」


 そう言うと、母の顔がパッと明るくなりました。子供に、美味しかった、と言われて、反射的に嬉しくなってしまったのでしょう。彼女は、三児の母ですから。

 こんな話を聞かせてくれました。


「そうだ。伯父さんが、なんで料理の練習するようになったか、知ってる?」

「オレのため?」

「残念でした。元はね、父さんのためなんだよ。あなたには、説明したことあるよね。父さん、大学生のとき、突然一人ぼっちになっちゃったって」


 あの、事故のことでした。それは、父の口から、聞かされたことがありました。しかし、それからのことは、全く誰からも、教えられていません。そのとき母が、初めて教えてくれたことです。


「あんな広い家に一人だと気が滅入るだろって、しばらく泊めてたんだって」


 そろそろ時間がないことに、オレも母も気付いていました。だから母は、説明を省きました。それでも、息子はちゃんと、分かってくれると信じてのことだったのでしょう。


「だからね、母さんは、父さんと伯父さんと三人で、これから新しい家族を作りたいって思って、あなたたちを産んだんだよ」


 これが、オレの母です。愛情深く、暖かい、自慢の母親です。


「……お兄ちゃん。多分、母さんがわざと忘れたって、気付いてたのかな。駐車場の往復、こんなに時間かかるはずないもん」


 あの伯父の妹が、兄の優しさに気付き、照れてしまった瞬間を、オレは見てしまいました。


「ねえ、約束して。帰ったら、あなたも妹たちに、優しくしてあげてね?」

「うん、約束する」


 だからオレは、約束したのです。彼女の一番上の子として。あいつらの兄さんして。

 ドアと、ドアの鍵は、母が自ら閉めました。


「お兄ちゃん、遅かったね、何かあったの?」

「あー、ついでに外でタバコ吸ってただけ」


 そういった会話が聞こえてきます。それが、彼ら兄妹の絆なんでしょう。


「おい、クソガキ。ちょっと、兄妹で話してくるわ。絵理子もいいだろ?」


 このとき伯父は、確かに「きょうだい」と発音しました。今でもよく、覚えているんです。絵理子と話する、こいつと話する。そういった表現もあったはずです。

 おいクソガキ、わかるかな? 勝手に伯父の声が頭の中に響きました。オレが勝手に受け止めて、勝手に作った伯父の声です。

 オレも、兄ですから。妹たちについて、しっかり考えろという意味だと捉えました。

 母を先にリビングに行かせ、伯父はドア越しにオレにこう言いました。


「お前のママと話して、お見送りしたら、カレーあっためて、持ってきてやるな。えーと、遅くとも八時にはこっち戻るから」


 母の手料理が食べられる監禁調教生活って、貴重ですよね? その時は当たり前のこととして、深く受け止めることはなかったですけど。


「なんか最後にそいつに言っとくことある?」

「……母さんは、優貴くんの味方だよ。家で、待ってるからね」

「良い子だろ、俺の妹。良かったな、絵理子がお前の母親で」

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