つややかに光る
oxygendes
第1話
私の到着により、
辿り着いたその木は満開の花を咲かせていました。私は胸を撫でおろします。春の精として、一本だけ開花が遅れるなんてみっともない事はできません。その時、
「どうです、見事な花でしょう」
背後からの声に動転しました。振り向くと、そこに立っていたのはこの山の
「これだけの桜は都にも無いと思います」
周りの桜を見回した顔がすっと私に向けられました。
「失礼ながら、お見かけしたことのないお顔ですね。どちらからお越しになられたのですか?」
「私は……」
桜守は私を真っすぐに見つめていました。私の姿が見えていることに間違いありません。どうして春の精である私の姿が見えるのか……、
「もしかして新任の山奉行の相葉様のお嬢さまですか? 山歩きがお好きな方とお聞きしております」
「そ、そうじゃ」
私の正体を気づかれてはなりません。私はとっさに同調しました。
「そうでございますか。初めてお目にかかります。私は桜守の研作と申します」
深々と頭を下げてきます。
「どうぞよろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ」
もう、話を合わせていくしかありません。
「みな綺麗に花開いております。開花が遅れそうな木もあったのですが、何とか遅れを取り戻してくれました」
それが
「それは
「はい、世話を続けてきたかいがありました」
桜守は
「私はこれから桜茶、桜の花の塩漬けにするための花を摘んで回ります。いずれかの桜のそばにおりますので、御用がありましたら何なりとお申し付けください」
桜守は目の前の桜の幹に一本梯子を立てかけました。打ち付けられた桟に足を掛け、すたすたと登って行きます。最上段にたどり着くと、桟に足を掛け、花が咲き誇る枝々の中に身を置きました。
その体勢から辺りを見回し、一つ一つ見定めながら花を摘んでいきます。右手の握り鋏で花柄の根元を切り、左手に収めていくのです。手の平に一杯になると、背中の籠に移します。手際よく作業が続けられました。
桜守は新たな枝を求めて、体の向きを変え左手を伸ばします。その時、足元の梯子がずるりと動きました。桜守は体勢を崩し、腕を振り回します。梯子は桜守の足元を離れ、ゆっくりと倒れていきました。足場を失った桜守は……、
あぶないっ! 私は木の下に駆け寄りました。落ちてくる彼を受け止めようと、両手を広げ、地面を踏みしめます。
けれど、私の上に落ちてくるものはありませんでした。見上げると、桜守は両手両足で木にしがみついていました。落ちることはどうにか免れたのです。桜守は体勢を立て直し、するすると木から下りてきました。
私は胸がつぶれる思いでした。桜守は背中の籠から摘み取った花を取り出して私に見せます。
「ご覧ください。花びらが綺麗に揃っているでしょう。桜茶はお湯に入れると
桜守は転落しかけたことなど忘れたようににこやかに説明してきました。でも、その言葉が私の胸に滲み入ることはありませんでした。
桜守は木から木へと巡って花を摘んで回り、私はその後をついて行きました。桜守を一人にしておいてはいけないという気がしたのです。
昼過ぎになり、次の作業は番小屋のそばで行うと言うことで、私もそちらへ向かいました。番小屋の横が草を刈り、平らに均した作業場になっていました
桜守は作業場に
「半日、天日干しをして、その後で塩漬けにします」
桜守が説明してくれました。
「並行して、桜のしずく飴を作っていきます」
「しずく飴?」
「はい。桜の花一輪ずつを透明な飴に封じ込めたものです。これは飴作りから始めます」
桜守は番小屋から、木の幹のような物の束を持って来ました。それは腕ほどの太さのある根っこでした。
「これは葛の根です。冬の間に掘り上げました。ここから葛粉を作って飴の材料にします」
桜守は作業場に座り込み、鉈を使って葛の根を細く割りました。そして、平たい石の上に置き、金槌で叩き始めました。
「根をつぶして、葛粉を取り出せるようにします」
桜守は叩き続け、根がぐずぐずの繊維の塊りになると、横に置いた水を張った木桶に放り込みます。そうして次の根を手に取り、叩き始めました。単調な作業の繰り返しのようです。
見ているうちに手持ち無沙汰なのがつまらなくなりました。
「私もやってみてよいだろうか?」
桜守は手を止めて私を見上げました。
「単調な仕事ですよ」
「かまいません」
「それでは」
桜守は番小屋から、別の石の板と金槌を持ってきて私に渡しました。
「金槌の重さを使うと楽に潰せます。端から少しずつ潰していくのがコツです」
私は叩き始めました。難しいものではなく、私の手はすぐに作業に馴染んでいきました。
私は地道に作業を続けました。桜守も傍らで作業を続けます。やがて桜守が話しかけてきました。
「この葛根は、冬の間ここで暮らした小さな少女と一緒に掘り出しました。不思議な娘でした」
桜守が話しているのは、私の前任者である冬の精のことでした。
「ある日ふらりとこの山に現れたのです。頭を強く打ったらしく、自分の名前も思い出せないようでした」
どうやら、何かの事故があったようでした。
「暫く経つと日常の会話はできるようになりましたが、相変わらず自分の名前は思い出せないままでした。それでここの仕事を手伝ってもらうことにしました。力仕事は不得手でしたが、勘のいい娘でした。この葛根を掘るときも、雪に覆われた
滋養を貯め込んだ葛根は冬の恵みです。冬の精である彼女にとっては容易いことだったでしょう。しかし、季節の精はそもそも人間に姿を見せてはならないものです。まして一緒に暮らしていたなど。
私はこの山に到着した時、彼女の不始末に気付き、厳しく叱責しました。絶対に行ってはならぬことであり、神界に戻ったら記憶を消し去られるであろうと。
腹立たしさが顔に出たのかもしれません。桜守が気まずそうな顔で私を見ました。
「もしかして私が彼女に、その……、不埒な振る舞いをしたのでないかとお疑いですか? 私も男の端くれですが、自分が誰かを思い出せない娘に意に沿わない関係を強いるようなことは……」
「それは当然であろう!」
思わず声を荒げてしまいました。人間が季節の精に手出しをしてはならない。そんな当然のことをさも高潔そうに話す桜守が無性に腹立たしく思えました。
「その娘が突然いなくなってしまったのですよ」
桜守の口調が消沈したものになりました。
「娘が使っていた道具はきちんと元の場所に戻してありましたから、自らの意思で出て行ったものと思います。記憶を取り戻して自分の家に戻ったのならいいのですが、それなら一言、話をしてもらえれば……」
冬の精は任を終え神界に帰ったのです。私が彼女の後任ですが、そのことを人間に話す訳にはいきません。
そして、全ての葛根を潰し終わりました。
「それでは汁を搾り出してまいります」
桜守は大きな
「今日の作業はここまでです。一晩放置して葛粉を沈殿させます」
桜守の言葉を聞き、私は番小屋を後にしました。
次の日、番小屋を訪れると、桜守は天日干しした桜の花を集め、塩漬けにしているところでした。
番小屋内部の右側は土間になっていて
桜守は土間の奥から出した
「これで仕込みができました。二三日置くと水気が出てきますのでそれを捨て、更に塩を入れます。これを繰り返して水気が完全に抜けたら完成です」
桜守は立ち上がり、葛粉を沈殿させた盥に向かいました。見ると盥の水は茶色がかった透き通った水になり、その底に白いものが沈んでいました。
「底に沈んでいるのが葛粉です。上の水をそっと捨てます」
桜守は盥をゆっくり傾けていきました。水は流れましたが、沈殿は形を保ったままです。水を完全に捨てても沈殿はそのまま残りました。
桜守は盥に水を加え、杓子でかき混ぜました。沈殿が浮き上がり、白く濁った水になります。
「また一晩おいて沈殿させ、上部の水を捨てます。これを七回繰り返して水が完全に透明になったら完成です」
桜守は番小屋に移動しました。水の中に籾が沈んでいる木桶を持って来ます。
「これは小麦の
番小屋の土間に筵を広げ、その上に布を敷きました。
「籾は数日で麦芽になります。それを潰してお湯に溶かした葛粉に混ぜて保温することで水あめができます。それを煮詰めて飴にします」
飴作りは多くの手間がかかるものでした。
その後も時々様子を見に番小屋に行きました。いつ行っても桜守はこまごまと働いていました。数日後、葛粉が仕上がり麦芽も出来ました。水あめ作りが始まります。
桜守は前日に水を捨て乾燥させていた葛粉の盥を逆さまにして叩き、塊となっていた葛粉を取り出しました。そして、底の部分にわずかにあった茶色い部分を削って、番小屋に運びました。
土間の竈には鉄鍋がかけられ、お湯が沸かされていました。桜守は鉄鍋に少しずつ葛粉を入れてはかき混ぜることを繰り返します。そして、全ての葛粉が投入されました。お湯は透明で少しとろりとした感じです。桜守は竈の火をほとんど落としました。わずかな火種が灰の中に残っている程度です。
そして、細かく砕いた麦芽を鍋に入れ杓子でかき混ぜました。細かな粒がお湯の中で浮かんでいます。
桜守は木の匙でお湯を少し掬い、私に差し出します。
「嘗めてみてください」
私は匙の液体を嘗め、首を傾げました。粉っぽいだけで全然甘くありませんでした。
「これを一日、暖かく保つと甘くなるのです」
桜守はお湯をかき混ぜながら語りました。
次の日、一日置いた液体の見た目は変わっていませんでした。
「では、もう一度お味見を」
私は桜守の差し出す匙を受け取り、口に含みます。奥行きのある甘さが口の中に広がりました。
「葛粉と麦芽が合わさって甘味を生み出すのです。これを煮詰めて飴を作ります」
桜守は鉄鍋の液体を布袋で濾し、麦芽の粒を取り除きました。再び鉄鍋に入れ、竈にかけて煮詰めていきます。やがて液体は半分ほどの量に減り、底からぷつぷつと小さな泡が立ち始めました。桜守は杓子で鍋の底をこそぐようにしてかき混ぜます。そして沸騰し大きな泡が一斉に立ったところで火から下ろしました。
「これを冷やせば固まります」
桜守は鉄鍋を座敷に運びました。平らな胴の板を持ってきて鍋の横に置きます。また、たくさんの桜の花と水が入った大きな椀を持って来ました。
「今年の塩漬けはまだできていないので、去年のものを使います。一晩、ぬるま湯で塩抜きしたものです」
桜の花は水の中で優雅に花弁を広げていました。桜守は花を椀から取り出し、
「溶けた飴をかけて、花を包み込みます」
桜守は柄杓で掬った飴を花の上から垂らします。花を包み込むだけかけたら、次の花へ。そして、銅板の上の全ての花が透明の飴で丸く包み込まれました。
「冷えて固まったら出来上がりです」
小半時ほどで飴は固まりました。桜守は小さな
「お嬢さま、どうぞお召し上がりください」
桜守から渡された飴はつややかに光っていました。透明な飴の中で一輪の桜が花開いています。まるで生きた花のように見えました。
口に含むととろりとした甘さが広がりました。そして桜の香り、ほのかな塩味が溶け出してきました。その味わいには記憶を刺激するものがありました。前にこれを食べたことがある……。私は記憶をまさぐりました。
最初に気付いたのは記憶の欠落でした。私は春が来るたびにこの山を訪れてきました。それは何千回にも及びます。けれど、去年の春の記憶が全く無いのです。どうして……、
その時、無数の光景が脳裏に浮かび、記憶の花吹雪となって飛び込んできました。桜に満ちた美鞍山、木から落ちる桜守、飛び込む私、折り重なって倒れる二人、呻く桜守、痛みで捗らない仕事、たびたび様子を見に行く私、桜守の様々な仕事、傍らで手伝う私、そして……、
気が付くと、研作が私の目を覗きこんでいました。
「記憶が戻ったんだね」
「はい」
「おかえり、
「ただいま、あなた」
神界で記憶を消されることを怖れた私は、自らの記憶を加工する桜の花に封じ込めたのでした。そしてその花を研作に託しました。次の春、訪れた私に食べさせてほしいとお願いして。それはどうやらうまくいきました。
「帰ってこられてよかった」
「ええ、春の間は一緒に暮らせます。でも、これで二回目の不始末になります。次の季節が来たら罰として人間界に堕とされるかも」
「その時はここで暮らせばいいさ」
「はい」
先のことは分かりません。けれど今の暮らしを大切にしていこう。私はそう決めました。
終わり
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