2.6章 中島の巻き返し
時を少し巻き戻そう。昭和11年10月の初旬、私と永野大尉は部長に呼ばれた。何事かと思い会議室に入ってゆく。室内には、花島部長と伴内主任に加えて、見慣れない人物がいる。階級を見ると大佐だ。予想外の人物がいるおかげで、少し緊張して着席する。我々に少し遅れて川田技師が部屋に入ってくる。
見知らぬ人物が説明を始める。
「航空本部技術部長の和田操だ。半年前に欧州から帰ったばかりなので、君たちにはなじみが薄いかもしれないね。今日は依頼事項があってここに来た。実はあの人から、わが社のエンジンもよろしくと航空本部にお願いが来ているのだ」
未来に生きていた私のミリタリーオタクの知識でも知っている人物の名前だ。心の中で叫ぶ。
「えっ、和田大佐って零戦に搭載されたエリコン20mm機銃の導入のために駆けずりまわったり、中島飛行機で開発中の誉が傑作エンジンだと言って官民で開発を推進した人だよね」
私があれこれ考えている間に、永野大尉から当然の質問が出る。
「あの人とは誰ですか? 我々のエンジン開発に関して、そんなお願いを海軍に対してできる人なのですか?」
和田大佐が自ら回答する。
「中島社長だ。知久平さんだよ。三菱が開発しているMK3Aだが、情報通の中島社長の耳にも開発状況が入っている。一方、中島は昔から戦闘機向けエンジンを優先して開発してきている。それで三菱だけじゃなく、わが社の発動機もよろしくというわけだ。戦闘機に最適なエンジンを開発するから、よろしく頼むよということだ」
花島部長が手元の書類を見ながら続ける。
「中島では、2、3年前から開発を開始した14気筒の小型エンジンがある。海軍から十試空冷として試作指示を受けて、昭和11年6月に600馬力の発動機として審査に合格した。どうやらこのエンジンを発展させて、性能向上したいと考えているようだ。航空廠としては、十試空冷を1,000馬力以上の発動機に発展させることを、これから開発要望として発出することになる。それを実現するためには、我々からの支援ももちろん行うことになる」
伴内主任が補足した。
「十試空冷というと、筒径130mm、行程150mmで、エンジンとしての外径が1.1m程度だったはずです。これで馬力を向上させるとなると、どうしても回転数をもっと上げることが必要になります。回転数の増加だけでは、MK3Aの性能には届かないと思います。君達はこのエンジンの性能向上についてなにか意見はあるかね?」
十試空冷の高性能化というと、いよいよ中島飛行機の栄エンジンの登場ということだ。栄と言えば零戦に搭載されたことで有名だ。更に、このエンジンの陸軍版は一式戦隼にも搭載された。大戦前半の日本の戦闘機を支えたエンジンと言ってよい。
永野大尉はまず自分の意見を言いたいようだ。
「MK3Aは1,500馬力以上を目標にしているので、十試空冷でどこまで性能向上が可能か判然としませんが、1,000馬力を少し超えるくらいではMK3Aには勝てないですよ。但し、すみ分けることを考えるならば、このエンジンはMK3Aよりも小型なので、別の適用範囲があるように思います。小型機にはちょうどいいエンジンになると思います。大馬力が必要な戦闘機などの機体には採用されない可能性がありますが、そうなると中島社長の意向には沿わないですね。エンジンとしての開発目標を達成したのに、戦闘機には採用されませんでした、じゃ話になりません」
栄について私の知っていることを彼らに全て話してしまうと、この時点の知識としては明らかに不自然だ。私からは可能性の話として説明することにする。
「筒径130mm、行程150mmとすると排気量はMK3Aよりも小さいことになります。伴内主任がおっしゃったように、MK3Aと同程度の1,500馬力以上を目指すならば、排気量から考えて、ブースト圧も上げて、かなり高回転型のエンジンとしても、それでも無理があると私も思います。不可能と断定はできませんが、非常に難度が高いと思われます。シリンダのサイズを変えて、MK3Aと同レベルのおよそ32リットルの排気量に増やすことができれば、可能性は高まります。但し、排気量を増やす変更は、実質的に別のシリンダになるので、設計やり直しの部分も増えて完成までの期間が長くなります。これは、痛しかゆしですね」
花島部長がまとめる。
「この会議の前から、中島に十試空冷改良の開発要求を発出することは決めていたことだ。開発要求の内容については、中島が目標とする1,000馬力以上としよう。我々にとっても、1,000馬力の小型エンジンは必要だ。他の要求項目もそれに準ずる内容とする。それから、開発要求の説明も兼ねて中島の技術者と君たちとの打ち合わせを早急に設定する。そこでは実現方法に関する我々としての意見や、MK3Aの状況も説明することとしよう。それを聞いて彼らがどのようなエンジンとしてまとめるかは、彼らに任せよう」
和田大佐も賛成する。
「その方針でお願いします。開発要求についてはとにかく早く出したい。航空本部内の説明については私がしておきますので、航空廠は技術打ち合わせを優先して早くやってください。そこまでできれば、海軍側のアクションについて、中島社長の耳に入るよう私の方で情報を流しますよ」
最後に花島部長からの指示があった。
「中島への開発要求については、発動機部長名の書類として、川田技師が大至急作成してくれ。それと合わせて、川田君から中島側の技師に連絡して説明の打ち合わせを実施してくれ。こちらの出席者は、伴内主任と川田技師、永野大尉とする」
永野大尉が質問する。
「開発要求の説明となると、中島さんとの打ち合わせでは、MK3Aの開発状況についても直接または間接に聞かれると思います。細かな部分は言いませんが、概略のところは話しても良いですね」
「うむ、発動機部としての打ち合わせだから、我々が三菱に要求している条件については日程も含めて説明をする。実現方法については、我々から要望として出したことは話して良いだろう。三菱自身が考えて工夫した内容については実現方法までは話さない。三菱が考案した内容については話せないと説明すれば良い」
以下は、私が川田技師から事後に聞いた話だ。和田大佐との会議の翌週には中島の技術者との打ち合わせが行われた。中島からは、十試空冷の主任技師である小谷技師及び、各種の発動機開発を中島で行ってきた佐久間技師と新山技師が参加した。事前に開発要求書の内容は伝えられていたため、その内容についてはあまり議論にならなかったようだ。
しかし、MK3Aが1,550馬力以上を目標としていることについては、大きさも含めて十試空冷とは別の領域のエンジンであると説明した。川田技師からは、1,500馬力超えを目指すのであれば、動作の安定性や開発期間の短縮の観点から、排気量の増加を推奨するとの発言があったようだ。我々の想定通り三菱で開発中のMK3Aについて、状況を教えてほしいとの要望があり、後列気筒のプッシュロッドの位置を後方に移動したこと、燃料噴射機構を採用したこと、1段2速過給器を使用することを話したとのことだ。
加えて、翌週になって、川田技師が中島飛行機の荻久保工場を訪問して、十試空冷を改修して1,500馬力化することを目標とするとの報告を中島側から受けた。
彼らの開発していたNAM(十試空冷の中島社内の呼び名)のシリンダサイズについては気筒径を130mmから136mmへと拡大、気筒行程150mmを155mmに延長して、全体の排気量を約31.5リッターに増加する。シリンダサイズ変更の功罪を考慮して、小谷技師自らが最終的に決断したとのことだ。
元のボアサイズの130mmは瓦斯電の空冷9気筒のエンジン等で採用されてきたサイズだが、中島の発動機として多用してきたサイズではないので、この気筒についてのこだわりはないのだろう。説明としては、この程度のシリンダサイズの変更であれば、あまり大きな影響はないはずでありNAMの成果が全て無駄になることはないとのこと。中島では変更後のエンジンに全力で開発に取り組むと花島部長にも連絡があった。海軍側は中島の計画を了承して、NK4Aの開発名称を与えた。
NK4Aの航空廠側の担当は川田技師が引き続き行うことになった。昭和12年2月には、中島社内で136mm×155mmの単シリンダの燃焼試験機による試験を実施して実験データを取得した。試作1号機は、昭和12年8月に組み立てが完了した。中島は三菱のMK3Aに対する遅れを巻き返すために、12基の試験機を前期、後期の2段階に分けて制作した。複数の試験機で一気に試験して、手間のかかる改修は後期のエンジンのみ集中して改修してから交換することにより、海軍の審査に対応した。
すなわち、前期に制作したエンジンは試験の進展とともに、改修が必要となれば、時間と工数をかけての改修はせずに廃棄するということだ。そのおかげもあり、昭和13年1月には、九六式艦上攻撃機に搭載して、飛行試験を行い、昭和13年2月には海軍の第二次審査を終了した。海軍の栄10型としての正式化は昭和13年6月にずれ込んだが、実質の開発は2月末に完了している。金星からの遅れを数ヶ月にまで縮めた中島の底力を侮るべきではない。
栄10型 昭和13年6月正式化
・海軍試作名称:NK4A
・構成:複列14気筒、気筒経:136mm、気筒行程:155mm
・気筒容積:31.5L、重量:620kg
・発動機直径:1,200mm、全長:1,355mm
・過給器:1段2速、1速高度:2,700m、2速高度:6,200m
・離昇出力:1,400hp 回転数 2,700rpm ブースト +360mmHg
・公称出力:1,300hp(1速:2,700m)回転数 2,600 rpm +260 mmHg
・公称出力:1,100hp(2速:6,200m)回転数 2,600 rpm +210 mmHg
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