2.2章 MK3A変更要求

 帰りの列車内で、未来の知識をもとに金星の性能向上対策について考えていた。未来の私の記憶によると、金星40型は1,000馬力を少し超える程度だが50型になると1,300馬力になって、最終型の60型では1,500馬力になるはずだ。金星は九九式艦爆や零式水偵、瑞雲に使用された。それよりも、飛燕の液冷エンジンを金星60型に相当する陸軍のエンジンに交換して評価の高い五式戦に生まれ変わったことが有名だ。また、零戦のエンジンとしては、終戦間際まで使用できず、堀越技師が『我、あやまてり』と言ったのもよく知られている。


 しかし、私が知っている歴史よりももっと早い時期に、金星60型に相当する1,500馬力の性能は実現可能なはずだ。あらかじめ性能向上を実現できる対策がわかっていて、それを目指して効率的に開発すれば短期間で実現可能となるだろう。零戦のエンジンについては、サイズも重量もあまり変わらないエンジンで、1,000馬力級が1,500馬力級となるならば、必ず選ばれるはずだ。


 私自身にとっても、担当するエンジンが主力戦闘機に使用されないのでは技術者としても全く面白くない。ここで私は、未来の知識も生かしてとにかく高性能のエンジンを早く作ることを決心した。この世界と前の世界の二つの知識を総動員して、高性能化のための変更点をメモしてゆく。結局、帰りの夜行列車では一睡もすることなく自宅へと帰ってきた。


 すぐに着替えて、発動機部に出勤して、部長に三菱との会議の結果を口頭で報告した。今日は報告書よりも時間が優先したい。部長が私の顔色を見ながら質問する。


「うむ、三菱が考えていることの概要はわかった。それで君の意見は何かあるのか? このまま三菱の言うとおりに開発を進めてよいのか。今回は三菱が自主的に開発したA8cと違って海軍が開発要求をすることになるから、こちらの開発要望を示すことが可能なのだが、変更してほしい事項は何かあるかね?」


「性能目標をもう少し高くしたいと思っています。これから開発するのであれば、1,500馬力を超えるエンジンとして完成させるべきだと考えます。A8cは、14気筒で1,000馬力級発動機として制式化されるでしょう。米国のライト社やP&W社のR-1820やR-1830がライバルになりますが、これらのエンジンは既に1,000馬力以上の性能を発揮しています。加えて次期エンジンとして、ライト社とP&W社の双方が、1,500馬力から2,000馬力の高馬力のエンジンを開発しているという情報もアメリカから入ってきています。このエンジンは今から1年か2年後に完成するのですから、1,500馬力くらいを目指さないと、アメリカとは勝負になりません」


 P&W社のR-1830は、Twin Waspと呼ばれ、当初は800馬力程度だったが、昭和11年のこの時点で2段過給器を備えて、1,000馬力に性能を向上させていた。このエンジンは、あの名旅客機のDC-3に搭載されて飛行している。その後はすぐに1,200馬力となって、零戦のライバルであるグラマンF4Fに搭載されるはずだ。米国ライト社のR-1820も1,000馬力超のエンジンとなって戦闘機や爆撃機に広く使用される。ライト社のR-2600は1,500馬力を超えてくるし、P&W社はR-2180で1,400馬力を実現した後に、有名な2,000馬力級のR-2800の開発に着手するはずだ。ライト社もほぼ同時にR-3350の開発をするはずだ。1,500馬力で出遅れれば、2,000馬力でも競争に負けることを意味している。


「1,500馬力を目標とすることに異論は唱えないが、それは金星の延長で実現可能なんだろうね。具体的な変更内容について、すぐにも検討を始めてくれ。短期間で1,500馬力が実現できるならば、価値は大きいからね」


 さすがに、金星60型が完成すれば、1,500馬力は実現できると史実が示しているとは言えないので、私の考えた改善項目の概略を説明した。


 説明が終わってから、遠地出張の許可をもらっておいた。

「すぐにでも検討を開始します。これからはしばしば、三菱を訪問して佐々木技師と打ち合わせしたいと思います。それはよろしいですね?」


「無論、出張はかまわない。結果を出すためなら、しばらく名古屋に泊まり込んでもいいぞ」


 それからは、私が列車内で構想した変更案について、一週間全力で資料をまとめることになった。時間が経過すれば三菱側の検討も進んで後戻りが発生する。今のうちならば、まだどのような開発をするのか基本検討のはずだ。要求提示が遅れれば、検討が進んで三菱側も変更を受け入れ難くなるだろう。


 ……


 名古屋訪問の10日後、花島部長の招集で、発動機部でエンジン開発に関係する数名の技師が集まって、A8c高性能化の会議が開催された。三菱と検討を進める前に航空廠内で一度内容を確認しようということだ。もちろん、同期の親友である川田も出席している。次期金星エンジンに対して、私の考えた改善点について説明した。


 要求事項として以下の項目をまとめた。

・目標馬力を1,500馬力超とする。

・基本構成は14気筒で筒径は140mm、行程は150mmとして、現行の金星から変更しない。

・高高度性能の改善のために、過給機は1段2速過給器を新たに開発する。


・エンジン前面に集中していた前列と後列の双方の吸気弁と排気弁を動作させるプッシュロッドに対して、後列気筒に対するプッシュロッドは後方に移動する。じゃまな前面プッシュロッドがなくなるので、気筒への空気流が改善され、冷却性能の向上が期待できる。


・後列気筒のプッシュロッドの配置替えにより、前列と後列の間隔が広げられるので、最低10mm以上、前後の間隔を増加させる。列間の増加にともない、クランク軸中央軸受けの幅を増加させて、玉軸受けを構造の増加分を生かしたコロ軸受けに変更する。これにより、中央軸受けにかかる荷重を分散化させて、軸受けを含むクランク主軸システム全体の剛性を増加させ、共振周波数を増加させる。


・高馬力化のために、ブーストを増加させる。これにともなって、三菱社内で開発が進んでいる燃料噴射機構を採用することにより、高ブーストでの燃焼を安定させる。

・圧縮比と回転数も現行の金星から増加させるが、最終的にはA8cの限界試験で決める。


 更に、今後の研究課題として、私が重要と考える技術項目を記載しておいた。

・米国で既に開発が進んでいる2段式過給機の実現。機械駆動の2段過給機と初段を排気タービンとした2種類の2段過給機が候補となるが、まずは機構が簡単で寸法もあまり大きくならない機械式の2段2速式過給機の開発を優先すべきである。

・米国において研究が先行している、エンジンの振動抑制のためのダイナミックダンパー機構の開発に取り組む。


 説明が終わると、川田が援護の発言をしてくれる。

「私は、鈴木技師の変更案に賛成です。我々は米国のエンジンに性能で負けるわけにはいきません。そのためには彼の提案した変更案は必要であると考えます」


 続いて、発動機部の主任である伴内少佐が発言した。

「エンジンの性能について、1,500馬力超の要求をすることには反対しないが、プッシュロッドや軸受けの構成などの具体的な構造の変更を要求するのはいかがなものか。本来は、エンジンの構造をどのようにするかはメーカーとしての裁量の範囲内ではないか」


 主任は私の変更案のうちの半分には賛成してくれた。メーカー裁量の部分は海軍とメーカーの役割分担を考えれば、もっともだが今後の性能向上まで考えれば、最初から発展の余地のある基本構造としておきたい。日本の開戦時期を知る私にとって、時間の猶予はあまりない。


 更に別の技師から懸念が表明された。

「プッシュロッドや軸受けなどの構成を具体的に指定した前例を聞いたことがない。これらの施策が成功しなかった場合、誰が責任を取るのか」


 私の主張がだんだん劣勢になってきた。

「我々が責任を取ればいいのではないか!」


 大きな声の方向を見ると、永野大尉だ。私の1年後輩ではあるが、東京帝大を優秀な成績で卒業して、当初から武官として入廠している。未来の私の記憶が『この男は将来の大物で日本のジェットエンジンを背負って立つ男だ』と脳内で言っている。


「私は、鈴木技師の変更案は必要だと思う。三菱さんも彼の主張が正論であれば、それに従うだろう。要は形式ではなく内容次第だ。そして私は、彼の示した案は優れた発動機を実現するために間違ってはいないと思う」


 花島部長も私の案に興味を持ったらしい。

「そうだな。鈴木技師の案を一度ぶつけてみるのもいいだろう。特に、プッシュロッドの変更案をこちらから言わなければ、三菱さんは変更しないだろう。鈴木君、変更案の説明資料とは別に、変更をお願いする書類を一枚作ってくれ。私が署名して捺印しよう。具体的な構成変更については、三菱から更に良い構成案が出るならばそれに従えばよい。そのことも文書に記載してくれ。伴内少佐と永野大尉、君たちは鈴木技師に同行して名古屋に行ってくれ。三菱との打ち合わせでは、海軍軍人として、我々の要望を深尾さんにお願いしてくるのだ」


 永野大尉が敬礼すると、経験の長い軍人にしかできないスマートなしぐさで、花島少将が答礼する。そのやり取りを見ていた伴内少佐もニヤリとして敬礼する。


 最後に部長が締めてくれた。

「今回、鈴木技師が追加項目として説明してくれた課題は、発動機部として継続して研究することとする。2段過給機や内部振動抑制の機構など、当部が積極的に研究開発に取り組んで、その成果を各社に提供すべきだろう。ここは優れたエンジンをいかに短期に完成させるかの結果を重視しようじゃないか」


 会議が終わると早速、永野大尉が私のところにやってくる。立ち上がって、私から先ほどのお礼をする。

「永野大尉の応援発言、助かりました。ありがとうございます」


「鈴木さん、入廠時期は私が後輩なのですから永野でお願いします。それにしても思い切ったことを考えましたね。私も金星の前面にたくさんのプッシュロッドが配置されたあの形は、最近の海外エンジンと比べると、ちょっと時代遅れで進歩の余地が少ないと思っていたので賛成したのです」


「これから三菱に打診して、検討会の予定を決めますので、当日はよろしくお願いします」

「私の方こそよろしくお願いします」


 永野大尉との会話が終わると、待っていましたとばかり川田が近寄ってくる。

「お前のあの案は、本当に実現可能なのだろうな。米国とドイツの発動機は進んでいるので、それに近づける変更ならば間違いないだろうと思って、プッシュロッド配置の変更と燃料噴射に賛成したんだ」


「かなり成算があると思っているよ。金星はまだ性能向上の余地がある。それを絞りだせば1500馬力は実現できる」


 ……


 昭和11年6月になって、私と永野大尉、伴内少佐は三菱に赴き、次期金星の会議に出席していた。三菱側の技師として、佐々木技師、西沢技師以下の7名が出席していた。まず、深尾部長と伴内少佐があいさつする。


 追加項目に関する部分を除いて、発動機部で花島部長に説明した資料を若干修正した内容で説明を行う。伴内少佐と永野大尉は第一種軍装を着ての出席である。二人とも腕組みして、怖い顔で座っているが、私はこれが演技だと知っている。


 あらかじめ、概要を聞かされているのだろう。私の説明は、誰にも邪魔されることなく淡々と進んでいった。


 説明後の最初の発言者は、佐々木技師だった。

「プッシュロッドの構造の変更については、次期金星は、既に実績のあるA8cの基本構造をもとにしており、それをわざわざ変更する必然性はないと考えます。実績のある構造を変えてしまえば、かえって危険な変更になりかねません。ブーストや回転数、圧縮比は我々が考えていることと相違がないので賛成します。1段2速過給器についても今回の大きな開発目標の一つなので、同じ意見です。燃料噴射については、確かにわが社で開発中の機構があります。まずは、開発済みの仕組みを使って、燃料噴射の動作確認をしたいと考えます」


「今後の性能向上を考えると、この変更案は、どこかで対策をしていかなければ、諸外国のエンジン、とりわけ米国のエンジンから遅れをとる可能性があります。現時点で変更を実施して、将来でも性能向上が可能なエンジンとするか、変更を先送りして遠からず行き詰まるか、どちらを選択しますか?」


 深尾部長が発言した。

「海軍さんからの依頼なので、できる限り意向に沿うようにしたいと思います。変更項目のそれぞれについては、技術的に悪くなる方向ではありません。しかし、これを採用すると我々が想定していた時期にエンジンを完成させることはできないでしょう。完成の遅れが海軍さんに迷惑をかけるでしょうが、それでいいのですか? 我々としては、遅れを理由に、採用できないといわれるのがもっとも困る」


 沈黙していた伴内少佐が口を開く。

「我々が説明した変更点により当初の計画が遅れるならば、我々航空廠が遅延への対策について相談させていただく。その上で、今回の変更を折り込んだ日程で合意するつもりです。合意した日程で軍内部からは異論が出ないように、航空廠が責任を持って関連部門と調整します。また、開発時には航空廠としてできる作業は開発加速のための協力は惜しまないつもりです」


 深尾部長は考え込んだ。

「うむ、そうは言っても、いつまでも完成しなければ採用されないことも考えられますからね」


 午前の会議は、結論が出ないまま休憩となった。


 休憩時間中に私は思い切って、深尾部長に小声で話かけた。私の未来の知識をちりばめて話すことにした。


「中島飛行機が1,000馬力級のエンジンを検討しています。14気筒でA8cよりも小型で軽量のエンジンとなるでしょう。一方、来年になれば、海軍から次期艦戦の開発要求が出る見込みです。私はA8が小型で1000馬力の中島のエンジンに勝つためには、1,000馬力をかなり超えることが必要だと思います。金星の大きさと重量で1,500馬力の性能があれば多くの機体に採用されるエンジンとなるように思います」


 部長は目をつぶって、考えこんだ。眉毛がぴくぴくと動いている。


 午後の会議が始まった。三菱の技師の方に顔を向けると、いきなり部長が話し出した。

「まず、三菱側の諸君に対してだが、私は今回の提案を受け入れようと思う。海外にも、日本にもライバルが存在する。まずは、それに負けないためには、この変更を受け入れて競争相手に負けないエンジンとする必要がある。航空廠さんからの提案は我々のエンジンが遅れている点の指摘でもある。我々も指摘を受け入れて前進しなければならない」


 一息ついて、体の向きを我々の方に変えた。

「伴内少佐、海軍の提案に従います。決めた以上は、すぐにでも変更案の検討に着手したい。早速ですが、午後の打ち合わせでは、変更点の技術内容をうちの佐々木が航空廠さんと詰めさせていただきます。よろしいですね?」


 伴内少佐が、顔を緩めて答える。

「我々の要求にご理解をいただき感謝します。技術内容は佐々木さんとは、当方の鈴木技師が調整させてもらいます」


 ……


 私の変更案を三菱側に受け入れてもらい、次期金星開発が本格化した。三菱との間で合意された内容を航空廠に報告すると、海軍航空本部は直ちに審議を行い、計画を了承した。航空本部は試作名称としてMK3Aを付与して、三菱に開発要求を行った。


 正式なMK3Aの開発計画要求書は、昭和11年8月になって三菱に発出された。MK3Aの目標とする性能は、離昇1,400馬力を要求、可能なれば1,550馬力と記載された。


 基本構造の変更により、設計項目が増加したが、航空廠の技師や工員が協力することを前提として、初期計画から4カ月遅れで1号機を完成させることを新たな目標と定めた。また航空廠からは、試作エンジンとして6基の試作機が発注された。三菱は、自社内向けの試作機として2基を追加して、初期評価用としては異例の8基のエンジンを作成することになった。


 私の変更要望により、後列気筒のプッシュロッドを前面から背面に移動したことにより、シリンダヘッドの吸気弁と排気弁のV字型のはさみ角が、後列の吸排気弁を駆動するロッドを前列気筒間に通すために、やむを得ず鋭角(吸気弁と排気弁のはさみ角が50度)となっていたが、理想に近い緩やかな角度(弁のはさみ角を65度に変更)とすることができた。V字型が開くことにより、気筒頭部の空気の流れが改善するとともに、吸排気弁のはさみ角の変更は燃焼室の形状が理想的な半球形に近づいて、燃焼が安定化するという効果をもたらした。


 更に、期待した通り前方のロッドを後方に移動することにより、冷却空気の流れが改善した。前列気筒と後列の前後の間隔を若干拡大する予定としていたが、三菱側で検討した結果、組み立ての容易化、クランク軸の中央軸受けの強化、吸排気管の取り回しの観点から30mm広げることとなった。


 MK3Aの内部構造の変更に先だって、金星4型の高回転、高圧縮比についてそれぞれ限界試験を行い、問題点を洗い出すこととなっていた。私の知る金星の最終型である60型は、1,500馬力の実現に当たり、水メタノール噴射を併用したはずだが、今回は全開高度が低下してしまう水メタノール噴射は後回しにして、ドライで素のエンジンの性能向上を目指したい。


 花島部長と伴内主任のはからいで、私にも二人の若手技術者をつけてもらった。一人目は私の2年後輩の松崎技師だ。もともと航空機に搭載された金星3型エンジンで発生したトラブル対応を第一線で解決してきており、ばりばりの現場技術者だ。


 もう一人は、1年後輩の菊地技師だ。彼は松崎技師とは異なり、理論的な検討を得意としており、これまでは中島製エンジンの審査をしていた。私を含めて3人がチームとなって、これからMK3Aの開発を行っていく。もちろん構造計算を担当する川田などのように特定分野の専門家の応援をその都度得ながら開発を進めてゆくのだ。


 松崎技師と菊地技師は航空廠の工場内の実験台で金星4型の限界試験を行っていた。金星4型自身の審査ではエンジンが壊れることを恐れて、限界値は確認したが、短時間で終了していた。今回はエンジンの破損も覚悟して仕様上限をはるかに超えたところの試験を実施している。


 数日後、MK3A開発班は集まって限界試験の結果を確認していた。菊地技師が最初に説明を行う。

「回転数は、明らかに2,900rpmは無理ですね。エンジンが壊れる一歩手前です。現実的に運転可能なのは2800回転以下になろうかと思います。それでも振動はかなり発生していますので、振動対策は絶対に必要です。ブースト圧の増加については+500mmHgでも異常燃焼にならないケースもありました。但し、こちらはガソリンの質で好不調の差が大きいので、少し余裕を見ると+300mmHgから+400mmHgあたりでしょうか。気筒の位置によってばらつきがありますので、燃料噴射で気筒ごとの燃焼のばらつきがなくなれば、もう少し増加しても問題ないと思います。シリンダ内やピストンの摩耗については、これから分解調査します」


 菊池技師が示した回転数とブーストの数値については、私も全面的に賛成だ。


 高回転時の振動対策については、その分野の専門家を呼んで分析が必要だ。飛行機部に操縦翼などのフラッター解析をしている技師がいたはずだ。とにかく振動と名がつけばその技師が分析してくれるということを私も聞いていた。航空廠飛行機部の松平精技師という。実験機の振動を確認してもらった。


 松平技師の測定と振動解析の結果、判明したことは以下の通りだ。

「振動の周波数測定をした結果、5100ヘルツ当たりと8700ヘルツ当たりの周波数で、エンジンの運転状態のより周波数に変動があります。更にもっと高周波の振動も観測されているが相対的には前2者に比べて振幅は小さくなっています」


「これは明らかに発動機の1次振動と2次振動と3.5次振動ですね。振動の大きさからは、2次振動と3.5次振動が問題になるはずです。エンジン内部にはバランサーがあるのに、1次振動と2次振動がこれだけ残っているとは意外です。バランサーの改善が必要かもしれません。3.5次振動については、それほど大きな振幅ではないですが、もう少し抑制する必要があるでしょう。これは論文などで、理論上、14気筒エンジンに発生すると記述されている振動ですね。こちらは論文などでもう少し調べてみます。この問題はちゃんとした分析の報告書が必要ですよね」


 元々、ダイナミックダンパーの適用について、将来検討するとしていたが、1,500馬力を超えるところを狙おうとすると、どうやら振動を抑制するために考慮しないといけないようだ。金星60型での実績を考えると、クランク軸受けの強化とケルメットの改善で1,500馬力までは何とかなるが、それ以上は追加対策が必要に思える。私としては、18気筒化も含めて、もっと高性能化を狙うつもりだったので、振動対策はこの時点で入れておきたい。中島が栄を18気筒化して誉を開発した時に、前列と後列の間隔を開けてクランク軸の強化に追加して、ダイナミックダンパーを対策として適用したことを、以前本で読んだことも頭をよぎっている。


 燃焼の分析については、発動機部の同期に専門家がいる。彼は中田技師という。大学では物理を専攻して、学生時代から理系科目については優秀な成績だった。発動機部に入った後は、もっぱらエンジン内部の燃焼について研究してきた。簡単なあいさつの後、中田技師にも実験機の状況を見てもらい、試験を繰り返してみる。


 実験後、中田技師に説明してもらう。

「やはり、事前に話を聞いた時に想定した現象ですね。ご存じとは思いますが、エンジンの過給機から供給される空気量に対して、燃料の濃度が一定の範囲に収まっていないとシリンダ内で異常燃焼が発生します。燃料が濃すぎる場合は空気が足りないので不完全燃焼になって黒煙と不規則な燃焼による振動が発生します。これはシリンダごとの燃焼のばらつきを燃料噴射で調整できれば改善すると思います。シリンダへの燃料噴射をするならば、シリンダヘッドの内部形状を修正して、渦を発生させるように噴射すると、更に燃焼が改善するはずです。この燃焼室形状の変更と燃料噴射による改善については、私の方でも実験してみますよ。金星3型の審査の時に内部が観測できる実験用の単体シリンダを作成していますので、それを改造すれば実験ができるでしょう」


 私の未来の知識が燃料噴射による渦の話に反応した。

「シリンダ内でスワールを発生させて、混合気を均一化することは、燃焼の均一化と燃焼速度を速める効果がありそうに思う。これが実現できれば、エンジンの出力を増やすことができる。加えて、燃料の少ない希薄な混合気のノッキングも防ぐ効果がありそうだ。これはエンジンの燃料消費率の改善にもつながるだろう。ぜひ、よろしくお願いします」


 菊地技師からもう一つ問題提起があった。

「出力を増加させてゆくと、異常燃焼でなくてもシリンダの温度がもう限界になっています。燃焼するガソリンの量が増加したことにより、シリンダ温度が増加するという根本的な問題です。シリンダの空冷性能をもっと改善しなければ、エンジンの出力も上限に達するでしょう。特に高空に行くと冷却性能は下がりますから、その観点でも冷却性能の向上が必須ですね」


 高度の上昇で冷却性能が低下するのは、気温の低下に比べ空気の密度の低下の方が大きいため、高高度ほどエンジンから空気が奪い去ることのできる熱エネルギーが減少するためだ。エンジンの空冷フィンを改善して薄い空気でも十分冷えるようにしないと、高空で高出力は発揮できない。日本のエンジンは高空性能の改善がなかなかできなかったが、その理由は排気タービンの開発失敗だと言われる。しかし、実際はこの空冷性能の改善のような基本的なところで劣っていたことが、高空性能の足を引っ張ったと思える。


「空冷性能の向上については、川田技師から意見を聞いてみよう。もともと気筒の加工法も含めて空冷フィンの検討をしていたからね。空冷性能向上は、空冷エンジンの永遠のテーマみたいなものだから、我々も継続検討としよう」


 川田技師を呼んで、説明を聞いてみる。

「指摘の通り、空冷エンジンの冷却性能の向上は、最重要な課題として、どのメーカーも空冷用のフィンの改善は続けてきているよ。今回の金星エンジンでも三菱は限界に近い細かなピッチのフィンとしているはずだ。軽合金の鋳造法では、冷却フィンの厚さとフィンの間隔は、限界に近づいているというのが私の見解だ。これは製造方法の課題なので、工場での生産ラインを根本的に変えるくらいの覚悟がないと、飛躍的な改善は難しいと思う」


「今の製造法でやれるところまでやって、それ以上はもう少し時間をかけて根本的に改善するということか」


「その通りだ。油砂による軽合金鋳造のシリンダヘッドの製造の限界まで、もう少し頑張る。それ以降は、精密鋳造法については、論文でいくつかアイデアの発表があるが、シリンダヘッドに使えるものか研究が必要だ。薄い板をヘッドと気筒に埋め込んでゆく方法も考えられているが、これも生産法の研究をしなければならない。鋳造とは全く違う方法となるが、そのような製造法とするならば工作機械の開発もする必要がある」

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