1-4
誰かを巻き込むべきではない。天界は平和で安定した世界だ。ガブリエルは,なんとか地上に行く方法はないかを一人で調べることにした。
地上について知っている天使は数えるほどであろう。ミカエル,そしてラファエル。だが二人は絶対に教えてくれないだろう。自分と同程度,または位の高い天使はもはやこの二体しかいない。かつてはウリエル,リュシフェルがいたが,どちらも地上の混沌へと消えた。
知識のあるところといえば。
「やはり,古代資料館だろう……閉架書庫か,秘密書庫。」
幸運にも,ミカエルは数日後に迫った地方視察の準備で忙しい。もう一度,古代資料館にやってきたガブリエル。その手には,閉架書庫の鍵が握られている。四大天使のみが持ち出せる鍵だ。
自分でも自由に出入りできる資料室に,知らない知識が眠っているとは思えなかった。知らないことが分かるとすれば,秘密書庫だろう。ガブリエルはそう思っていた。
「とりあえず,知ることのできるぎりぎりまで調べ尽そう……。」
蓄えた天使の力で灯された光が,空間をぼんやりと照らす。地下にある閉架書庫は二メートルを超える棚が十列並んでいる。今やミカエル,ラファエル,ガブリエルしか手に取ることのできない書物だ。貴重で重要なものばかり。
「天界の住人の記録……。全天使のリストか……。」
この千年,一度も興味をもって見たことのなかったリストだ。現在天界で生きている天使は三万体を超す。四大天使とミカエルは長寿だが,平凡な天使の寿命は五百年程度。過去生きていた天使の記録もあった。ガブリエルは,記録を千年前にさかのぼる。だがウリエルの記録はなかった。五百年前に,リュシフェルの記録もない。
ガブリエルは自分の記録を探す。一万年前までさかのぼっても,見つけることができなかった。
「……え。」
一万年前,ミカエルと共に天界に来たはずなのに。ラファエルの記録もない。四大天使だからだろうか。そして,自分の記憶も曖昧なのだ。
(もしかすると,俺は……何も知らないのかも。天界のこと……。)
――――――― カタン。
その時,閉架書庫のどこかで物が落ちた。金属のような乾いた音が響いた。
誰かが自分を追ってきたのか。
初めて,そんなことを思った。なぜか天界のすべてが不気味に感じた。
音のする方向へと歩みを進める。閉架書庫は天界でも珍しく,仄暗い空間だ。灯りがゆらゆらと揺れている。
床に,古びた羅針盤が落ちていた。
「……。」
手に取るガブリエル。羅針盤は,不思議なほどに軽かった。重力を感じない。そして,手に取った瞬間様々な色に輝き始めた。ガブリエルは見たこともない色だ。白…青……紫,緑,黄色,赤……次々と違う色で輝く羅針盤。その蓋を開けると,黄金色に輝く針が忙しく回っていた。
足音がした。
「……!」
とっさに羅針盤を隠すガブリエル。現れたのはラファエルだった。
「何をしている。」
冷たい声色だ。
「……調べものをしていた。」
「地上のことか。」
「俺を追ってきたのか。」
「お前は絶対に何かすると思った。何か知りたいなら古代資料館に行くだろうと思った。そして,閉架書庫の鍵が無いのに気付いた。何を調べていた?」
「……別に。それに,閉架書庫には特別な記録はないだろ。お前も,俺もいつでも見ることのできる記録ばかりだ。」
「……。」
それは,そうだ。
ガブリエルはいい機会だと思い,疑問をぶつけた。
「ラファエル,お前は天界に来た一万年前の記憶があるか?」
「……何をいきなり。」
「地上で悪魔と戦い,安全な天界にミカエル様とやってきた記憶。」
「……そんな過去のこと,憶えていない。」
「おかしいと思わないか?確かに遠い昔だが,そんな大きな出来事を忘れるか?当時の感覚,感情……何も覚えていないなんていうこと……あるのか?おかしくないか?」
「……何が言いたい。」
「俺達の知っている記憶と,真実は違うのかもしれない……。」
「ミカエル様がおっしゃっていることに……偽りがあると?」
ラファエルは,その美しい顔を怒りでゆがませている。
「そう言いたいわけじゃない。だけど,真実は別なのかもしれないって……。」
「……お前,ミカエル様に逆らう気か。」
「違う!それは絶対に無い!」
「……とにかくここから出ていけ。コソコソと調べものをするな!ミカエル様に反逆していると捉えられてもおかしくないことを……お前は今,している。もう一度問う,ミカエル様に逆らうつもりか?」
ラファエルが神妙な表情を浮かべている。ミカエルに反逆するなど,口にするのもおぞましい。ラファエルは,ガブリエルの返答次第では行動を起こさねばならない。覚悟を決めているようだ。
「……。」
今,自由を奪われたくない。地上にエリアを助けに行きたいというのに,天界をも自由に行動できなくなるなど絶対に困る。
ガブリエルは深呼吸をして,話し始める。
「……わかった。エリアが消えたことで,不安になっていた。」
「不安?」
「ああ。この天界での平和な暮らしが……脅かされるんじゃないかと。」
「何を言っている。ミカエル様がいる限り,そんなことは起こるはずがない。」
「……そうだな。俺は動揺して混乱していた。」
「ああ。」
ラファエルは,満足そうな表情を浮かべている。
「……ミカエル様にも,明日謝りに行く。今回のことで,気を悪くされただろう。」
「ああ,そうするといい。鍵をこちらに。」
ガブリエルとラファエルは,閉架書庫を後にする。
***
「……なんだろう,この羅針盤。」
深夜。
ガブリエルは,自身の部屋で羅針盤を見つめる。今は輝きを失っている,古びた羅針盤。
「途中でラファエルが来たから……とっさに持ってきたけど……。」
ラファエルが現れた時には,輝きを失い,ただの銀色の羅針盤となった。初めて手に取った時は黄金に輝いていた針も,ただの金属。
エリアは,元気でいるだろうか。
地上がどんなところかは分からないが,おそらく天界よりは危険な場所だろう。
(何も,力になれなかったな……。)
他の天使に危険が及んでいないとは限らない。エリアのようにガブリエルに打ち明けないだけで,今も聞こえてくる声に不安を感じている天使がいるかもしれない。
ガブリエルは深夜の居住区へと向かった。
天界の夜。
遥かかなたの銀河の輝きが広がる空。ミカエルの意向で,天界の夜は晴天と荒天が月に半分ずつ巡ってくる。
今日は晴天の日。月の無い星空が広がっている。
自身の居住区を出て,部下の天使たちの居住区へと進むガブリエル。所々にある橙色の灯りが,居住区を照らしている。
――――― その時。
手に持っていた羅針盤が光り始めた。
「え……。」
慌ててふたを開けると,中の針が黄金に輝いている。そして,針はどこかをさして止まっている。
「……。」
ガブリエルは息を呑んだ。
(これ。多分……なにかを示している。)
ガブリエルは,その針の指す方へと進んでいく。多少歩いて,気付く。
(すぐそばを示しているとは限らないか……。)
ガブリエルは静かに翼を広げる。
一対の大きな,白い翼。そして訓練で十年に一度しか使わない天使の力を解放し,翼を動かした。地上にいた頃は,人類に力を与えたり,悪魔と戦ったりするために使っていた天使の力。この一万年は,力を失ってしまわないように,訓練で解放するだけの力となっている。
夜の風を頬に感じる。針はまだどこかを指している。
(どこに向かっているんだろう……。)
羅針盤は,白く輝き,薄っすらと色が変わる。そして,針は未だに太陽のように黄金に輝いている。
空を飛び,風に乗って天界を見ると,普段は感じない地球の丸さを感じる。天界の狭い居住区にいるだけでは分からないことだ。
天界の果てはどうなっているのだろう。地上はどうなっているのだろう。
(俺って……何も知らないんだな,世界のこと。)
羅針盤の針が動き始めた。不規則に回り始める。
「……この辺り,ということか?」
今ガブリエルがいるのは,ガブリエルの居住地から離れた森の上空だ。近づいたことのない森だ。禁忌の森というわけではない。だが,特に用事もなく,足の踏み入れたことのない森である。
森に降り立つガブリエル。暗い森だ。
羅針盤の輝きが頼りだ。針はまた一定の方向を指している。周囲を見渡しながら,進む。すると,古い建物が見えて来た。
神殿だ。大きな太い柱に支えられ,入り口の階段を登ると奥に祭壇が見えた。ガブリエルの居住区にある神殿と形がよく似ているが,古く,朽ち果てている。
(こんなところに,神殿が……?)
天界にある神殿の所在地は把握している。だが,こんな森にある朽ちた神殿は知らない。
祭壇の前に誰かいる。
こちらを見ている。
「……え。」
自分だ。こちらを見ているのは。だが,髪の毛は短く,見たことのない服装をしている。じっとこちらを見ている。羅針盤の針は,まっすぐ祭壇の前の自分を指している。
祭壇の自分は,こちらを見て,そしてこちらへ手を差し出している。無表情だ。
「……。」
羅針盤の光は,さらに輝きをしているように感じる。ここに,導かれたのか。
(導かれた……?いったい誰に……?)
目の前の,自分によく似た青年か。
地上への手がかりがなく,打つ手が無かった。試せるものは,試してみるべきだろう。
その時。
背後に気配がした。
「その手を取るのか,ガブリエル。」
今,一番聞きたくない声だ。
「ミカエル様……。」
少し,思った。天使の力を使う時,おそらくミカエルが気づくだろうと。その後の行動は予測できなかったが,ガブリエルの行動を不信に思っていたのなら,様子を見に来るかもしれない。
(来た……。)
すぐに来た。つまり,この場所は天界の重大な秘密なのだろう。こんな,森の中の朽ち果てた神殿が。
「次元の行き来は,お前にはできない。そのお前を導くのは,高次元の存在だ。」
「高次元?」
「すべての次元,時空を行き来できる存在。一万年前,我々が地上を追われることとなった元凶。それが,今お前を導いている。そこに,存在を感じる。」
どうやらミカエルにも,青年が見えているようだが,それ以外の何かを感じているようだ。忌々しいものを見るように,睨みつけている。
「本当の姿を,私は見たことは無い。我々には見ることは出来ない。今現れているその姿は,彼らではなく……彼らが選んだ,導く者だ。お前は,その手を取るのか?」
「……。」
「天界を去ったものは,反逆者として二度と天界には戻れない。戻ることを,私は許さない。それでも,行くのか。」
ガブリエルの脳裏に,不安そうにしているエリアの表情が浮かぶ。
そして,こちらに手を伸ばす自分とよく似た青年の顔を見る。まっすぐこちらを見据えているその青年は,自分と瓜二つだが,揺るがない強い意志を感じさせるまなざしをしている。
(俺ではないな……よく似ているけれど。)
その青年を通して,ガブリエルを呼んでいる。
エリアを助ける手段を見つけられず,途方に暮れていた。エリアがどこへ行ったかも,この差し出された手がどこへ行くのかも分からない。
だが,ミカエルの物言いからして……エリアの行先も,導かれている先も地上だろう。その確信は,ガブリエルにとって嬉しいことであった。
「天界の平穏を捨て……行くのか。行先が安全だという保障は全くないのだぞ。」
ミカエルの言葉を聞き,ふと手の中にある羅針盤を見る。変わらず,針は手を差し伸べている青年を指している。深呼吸をして,答える。
「……はい。」
ミカエルは何も答えず,動き始める。説得が無駄だと感じたミカエルは,ガブリエルを無理やり拘束するつもりだ。ガブリエルは,急いで青年に手を伸ばす。
そして羅針盤が,更にまばゆく光った。ミカエルはあまりの光に目を伏せる。
針の黄金の輝き,そして白銀と様々な色が移り変わり,周囲は昼のように明るくなった。
ガブリエルが最後に見た天界の景色は,その輝きだった。
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