1-3
「変な声に呼ばれていると,悩んでいたのです。」
翌日居住区に戻った大天使ミカエル。エリアが消えたことを報告するためにやって来たガブリエルは,そう話す。ミカエルは,どの天使よりも大きく白い翼を持っている。金色の長い髪を下ろしている。なぜなのか,髪はきらきらと輝いている。百九十センチほどの長身だが,纏っている空気から華奢で美しい女性のように見える。
そのミカエルは,ガブリエルの言葉にため息をこぼす。
「それだけではわからない。ほかに何か手掛かりはないのですか。」
ミカエルの声はすべての存在に安らぎを荒げる与える声だ。しっとりとしていて,さっぱりしている。明るくて,騒がしくない。その時,聞いている相手が安心のために欲しい要素をすべて併せ持っているかのような声,そして話し方である。それでもガブリエルは少しの安心も感じていなかった。
「毎日,夜,声がすると……。」
「……。」
ガブリエルは,エリアが消えた夜のことをゆっくり思い出す。思い出すのは,あの不安そうな顔だ。本当に怖かったのだろう。それを,勇気を出してガブリエルに打ち明けて相談してくれたのだ。力になりたい。
「他には何も。消えた日の夜,ずっと廊下にいました。そして二時ごろ声をかけようと部屋をのぞいたら,もぬけの殻だったのです。」
「……物音は何もしなかったのですか?」
「はい。」
「おかしいですね。」
「おかしいです!」
「……わかりました。こちらで調査を進めます。」
「ありがとうございます。」
ミカエルの部屋から出たガブリエルは周囲を見渡す。大天使ミカエルは天界の要人だ。天界の最高責任者。一番豪華な建物から出ると,金色の手すりのついた天空の連絡通路が続く。青い空,白い雲に映える金色。美しい世界だ。安全で,安定した世界。
部下のエリアが消えても,誰も何も変わらない。
なぜガブリエルだけがこんなに動揺しているか。それは,とある天使の言葉を聞いたからだ。
それは,五百年も昔の記憶だが鮮明に残っている。何の記憶に残らない毎日の中で,鮮やかに残っている記憶だ。
天界から消えた天使リュシフェルの言葉。
ガブリエルはリュシフェルとのやり取りを思い出す。
リュシフェルは,強いまなざしがよく似合う切れ長の黒い瞳。銀色の短髪,ミカエルと同じくらいの背丈であるが,まとっている空気は全く違う。平和で安定しているこの天界にはふさわしくない,常に戦場に立っているような,そんな武の雰囲気を感じさせる。
ガブリエルはそんなリュシフェルが気に入っていたが,ミカエルはなんとなくリュシフェルと仲が良くない様子だったので,あまり公に一緒に過ごすのは控えていた。
ミカエルが他の区画に出張に出ているときなどに,リュシフェルと話すのが,とても楽しみであった。リュシフェルの話はいつも新しい。ガブリエルの知らないことをたくさん教えてくれる。そしてリュシフェル自身が興味関心のある事柄を離してくれるからだろう,話が面白くてとても引き込まれる。
「地上には,俺たちの理解の及ばない力を持つ者がいる。」
「……理解の及ばない?」
「ああ,そうだ。」
「地上には,人類がいるのだろう。」
「人類だけではない。」
「……ああ,昔天使と戦っていたという悪魔か?」
「悪魔でもない。」
「え?」
「理解の及ばない存在。いくつもの次元を行き来することができて,この星を支配する者。」
「……訳が分からない。」
「今地上を支配する人類は,その存在の加護を受けている。」
「……加護。」
「だから,俺達や悪魔は地上を追われた。」
「どうしてそんなことを知っている。」
「俺は,お前より長い間生きているんだぜ。天界のことも,地上のこともお前より知っているんだ。お前にこの話をしたこと,ミカエルに絶対言うなよ。」
「……言えないよ。」
仲良くリュシフェルと話したことだって,知られるべきではない。
「ミカエルに嫌われている俺から,お前にアドバイス。」
「……なんだ?」
「なんか変だと思ったら,必ず理由がある。自分の感覚を死なせるなよ。そして,俺はな…この天界全体にもっているんだ,違和感を。」
リュシフェルはその後,姿を消した。ガブリエルは,確証があるわけではないが,リュシフェルは地上に行ったのだと思った。自分の興味に従って,欲望のままに。リュシフェルはほかのどんな天使とも違った。最初から。
地上には,人類だけではない存在がいる。次元を行き来できる人類以外の存在。
「……。」
エリアは,地上にいる。ガブリエルはそう確信していた。
***
「ミカエル様。エリアは地上に行ったのではないですか?」
翌日,ガブリエルは,再びミカエルの元へと足を運んだ。ガブリエルが姿を見せると,執務の手を休め笑顔を浮かべたミカエルだったが,話が始まると表情を凍らせた。
ガブリエルは,本能で察する。この話題はやめたほうがいい。
だが……どうにか,エリアを捜してほしかった。そして,自分では探すことができない地上も,探してほしかった。地上が混沌の世界ならば,不安で繊細なエリアは怖がっているだろう。心配だ。
「地上に行った……。なぜ,そう思うのです?」
ミカエルは落ち着いた口調で,ガブリエルに聞く。
「エリアは声の他に,人間を見たとも言っていました。地上に呼ばれたのではないでしょうか。」
「人間が天使を呼ぶなど,そんな話は聞いたことがない。人間にそんな力など無い。」
「……地上には,人間しかいないのですか?」
「ええ。非力で愚かな人間と,意思疎通の出来ない生物たちだけがいる。」
「……他には,なにもいないのですか?」
「何が言いたい?」
ガブリエルの問いに,ミカエルは怪訝な顔をする。ガブリエルは核心をついたと感じた。
「天界と地上を行き来できるものが……いるのではないですか?地上には……。」
「そんなものはいない。」
「だけどリュシフェルが……,」
「リュシフェルが何だ。」
いつもは優しく話を受け止めるミカエルが,珍しく冷たく厳しい物言いだ。ガブリエルは驚いた。
「あ,いえ……。」
リュシフェルはもういない。だが,約束は守るべきだろう。地上にいる,理解の及ばない存在のことは話すべきではない。
「リュシフェルが……呼んでいたり……したりするかもなんて,思いまして……。」
苦しい。ごまかし方が苦しい。
だがリュシフェルの話自体を好まないミカエルは,「馬鹿馬鹿しい」と言って,すぐに話を切り上げた。
「天界から逃げたあの天使の,いや,天使と呼ぶのはふさわしくない。あの者,リュシフェルの存在など忘れなさい。もう多くの天使が,あの者のことは忘れました。」
そうなのだ。
天界では,もうほとんどリュシフェルのことを覚えている者はいない。
「なぜ,エリアが呼ばれていると言っていたことや人間の姿を見たことを,私にすぐ話さなかった?」
ミカエルの言葉は冷たい。静かな怒りがあふれている。これほど感情を表しているのは珍しい。
つまり,真実に近いのだろう。
「……お話するほどの内容ではないと,勝手に判断しました。申し訳ありません。」
ガブリエルは首を垂れる。今日,これ以上進むのは危険だ。
「地上への興味など捨てなさい。」
「興味など……。」
「リュシフェルの言葉を信じるということは,地上に興味を抱いていることと等しい。地上のことなど,あなたが語るべき内容はなにもありません。」
「……はい。」
「ではもう行きなさい。」
「エリアのことは探してくださいますか?」
「もちろんです。あの者も大切な天界の住人。行方は天界をあげて探します。」
「……はい。」
ガブリエルは,リュシフェルが逃亡した日のことを少ししか覚えていない。その日,とんでもなくミカエルが激怒していた。その怒りの様子は鮮明に覚えている。恐怖を感じたからだ。四大天使であるガブリエルでさえ,近寄ることを躊躇したほどだ。その時,ミカエルを支えたのは,ガブリエルがとても苦手にしている天使。
その天使が,ミカエルの執務室から出たガブリエルを待ち受けていた。
「お前,地上,そしてリュシフェルという言葉はミカエル様の前で禁句であると忘れたか。愚か者が。」
「ラファエル……。」
リュシフェル逃亡の際に,怒り,そして傷心していたミカエルを支えたのがラファエルだった。銀色の長髪をなびかせる,立ち姿の美しい,これまた百九十センチほどの長身の天使だ。ミカエルに忠誠を誓う身であるのは天界の天使全員だが,特に厚い忠誠を誓っている。そしてミカエルもラファエルを腹心として傍に置いている。
「エリアは地上にいるのではないだろうか。」
「ミカエル様は天使と地上の接触を嫌う。地上に逃亡したあのとんでもない愚か者のせいだ。」
「……なぜそれほどに地上を。」
「地上は穢れていて,天使はすぐにその毒にあてられるのだとおっしゃっていた。天使の強い力ははからずとも,穢れ,破壊のために利用され悲劇を生むと。それを何よりも避けたいと思ってらっしゃるのだ。」
「地上はそれほどに恐ろしいところなのか。」
「混沌とした地上は天使にとって害悪だ。リュシフェルだって地上でどのような存在になっているのか……。」
ラファエルはそう言いながら天を仰ぐ。青い空に,白い雲。風が優しく頬を撫でる。
「それなら,なおさらエリアを助けなければ。」
「エリアは本当に地上にいるのか?天界のどこかにいるかもしれないだろう。」
ラファエルが問う。地上に関わる話をやめさせたい,そんな意図を感じる。ガブリエルはやめない。
「地上にいる可能性は高いと思っている。」
ガブリエルはそう言うと,意を決したようにラファエルの目をはっきり見据えて言葉を続けた。
「ラファエル,地上のことを詳しく教えてくれないか?」
「……何を言っている?」
「地上のことを知りたい。そもそも,どうして天界の天使は……地上のことを知らないんだ?昔は地上にいたんだろう?」
ラファエルは怪訝な顔をする。
「……地上のことなど何も知らなくていいと,ミカエル様がおっしゃっているだろう。俺は職務上多少の知識はあるが,他言しないようミカエル様に言われている。」
「……教えてくれ。地上のことを。」
「……ミカエル様の許可がない限りは,地上についてのことは話せない。たとえお前にも。」
「……そうか。」
ラファエルは厳格だ。例外はない。ここでいくら懇願したところで考えを変える見込みはない。ガブリエルはその場を後にした。だが,エリアを諦めるつもりはない。地上が危険なところなら,なおさら。
ガブリエルは,ミカエルとラファエルの様子を見て一つ覚悟を決めた。
エリアは,地上にいるのだろう。リュシフェルの言葉のほうが,ガブリエルには信頼できる響きをしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます