1-2

「人間が見える……ということは,地上かな。」

 ガブリエルは居住区で,警備の記録を整理しながら言う。

「……わかりません。風景が昼の時もあれば,夜の時もあるのです。夜は…見たこともない,漆黒の闇で怖いのです。」

「地上の夜は,天界の夜とは違うのかもしれないな。分からないけど……。」

「……はい。ガブリエル様は地上のこと,どのくらいご存じなのですか?」

「え。ほとんど知らないよ。」

「そうですか。ガブリエル様ほど高貴な方もご存じないのですか。」

「うん。ミカエル様はいろいろ知っているみたいだけど,恐ろしいところだから天使は生きていけないって言っていた。」

「そんなに恐ろしいところなのですね。」

「うん。地上にいるのは人間だけでなくて……,」

 そこまで話すと,ガブリエルは口を閉ざした。不思議に思ったエリアが振り返ると,部屋の入り口にエリアはめったに見ることのできない天使が立っていた。長身で,灰色の長髪,そして透明かと見紛うほどの美しい白い肌。白い大きな一対の羽。四大天使の証である金の腕輪。

「……ラファエル様。」

 エリアが思わず呟く。ガブリエルは心底嫌そうな顔を浮かべた。そのガブリエルの表情に,ラファエルもまた不満そうだ。

「どうして話をやめる?続けなさい。」

「……ラファエル様に聞いていただくような話じゃないので。」

「そうかしら。地上の話でしょう。地上に興味はないが,お前達がどうしてそんな話に花を咲かせているのかは興味がある。」

「……暇なのですか?」

「お前達の何倍も暇だよ。私の居住区では,何も起きない。」

「それは,羨ましい。」

(早くこの部屋からいなくなってくれないかな。)

 ガブリエルはラファエルに背を向ける。

「どうして地上の話などをしている?」

「世間話ですよ。どんなところなのだろうかと。」

 エリアの不安をラファエルに話すつもりは無かった。ガブリエルの言動からエリアも察し,ラファエルには何も話さないことを決めた。

「世間話なの?そこの……天使,名前は?」

「エリアです。」

「そう,エリア。ガブリエルとどんな話をしていたのかしら。」

「……世間話です。」

「へえ。」

 ラファエルは笑みを浮かべる。

「地上への関心は捨てた方が賢明よ。ミカエル様が何よりも不快に感じるのが,地上。」

「……。」

 ガブリエルは無言だが,心の中では激しく頷いている。

(そう。ミカエル様は地上の話を何よりも嫌がる。顔は笑っていても,空気が沈む。周囲の空間がひずんでいるのではないかと思うほどに。)

「私たちが触れるべきではない大きな秘密が,地上と天界の間にはある。軽々しく地上という言葉を口にしないことだ。」

 ラファエルはそう言うと,その場を後にした。


「……ラファエル様は,怖いです。」

「俺もだ。怖いし,苦手だし,嫌だ。」

「……そんな明け透けに言って良いのですか?ラファエル様はミカエル様の腹心。天界の二番目の権力者ではないですか。」

「……苦手なものは苦手だからな。この態度で何百年も生きながらえてきているから,多分大丈夫だ。」「そうですか。そんな昔から。私がラファエル様を見たのは五十年ぶりです……。」

「俺も久しぶりに会った。地上の話は,本当にタブーなのだな。どこかでかぎつけ,調べに来たんだろう。」

「私の話は,危険ですね。」

「……地上がからんでいることなら,ミカエル様が重く受け止めてくださる。今夜何かあっても,なくても,ミカエル様に報告して指示を仰ごう。」

「はい。」

「残務処理をしたら,君の居住区まで行く。それまでゆっくりしていてくれ。」



***



 エリアの元へと行く前に,ガブリエルは古代資料館へと立ち寄った。四大天使のみが立ち入れる資料館だ。ミカエルの許可が下りている書物を読むことができる。一万年の天界の歴史が記録されている資料館。だが,地上に関しての資料は皆無だ。改めて見返しても,地上について書かれているのは天界に降り立った経緯が書かれた資料のみ。

 音を立てて,書物を閉じたガブリエル。ため息とともに。


 ガブリエルが地上について知っていることは,少ない。

 地上は混沌の地であり,そこで悪魔と戦っていた。そして,天使はミカエルに導かれ,平和を求めて天界にやってきた。ただ,それだけ。資料を見てわかるのも,ただそれだけ。


 千年前から記憶の始まるガブリエルには,地上の存在を感じた経験が二度ある。

 一度目は,天使ウリエルが地上に行くと言って消えた……千年前。ガブリエルの一番古い記憶だ。地上に行く道などない。そう,ミカエルに教えられていたのに。

 次に地上の存在を感じたのは,五百年前。リュシフェルが地上へと消えた日。


 彼らは,どうやって……そして何故,地上に消えたのだろう。混沌の地上へ。

 古代資料館の書物には,何も書かれていない。


「……確実にある地上。でも,どこにあるんだろう。」

 すぐ耳元でリュシフェルの声がするようだった。

『自分の感覚を死なせるなよ。』



***



「明日は休みとした。今日は眠らない。明日,今日の分も眠る。」

 ガブリエルはエリアのもとへ到着するなり,そう言った。

「……本当に来てくれたのですね。」

「もちろん。」

 エリアの表情が穏やかになる。本当に,毎晩不安だったことが伝わってくる。

 居住区の廊下は広い。壁は基本的に白く,地面は茶色。大きな照明が所々にあり,昼間のように明るい。エリアの部屋の入り口で,ガブリエルとエリアは話している。ほかの天使二人もやってきた。エリアはさらにほっとした表情になった。

「とりあえず,何が起きているか知りたい。エリアはいつも通り眠りについて。我々がいることは極力忘れて,一人でいるかのように。」

「はい。」

「扉も閉めて。」

「……ええと……。」

 エリアは返事をしそうになって,考え込んで話し始めた。

「……本当に廊下で……お過ごしになるのですか?」

「当然。周囲の部屋の天使には何も話していない,迷惑はかけない。」

 エリアは笑顔を浮かべる。

「……そうですね。この周辺の部屋の天使が,廊下にガブリエル様がいらっしゃると知ったら,眠れなくなります……。」

 ガブリエルは天界に四人しかいない大天使。尊い身分なのだ。


「もう一度,聞こえてくる言葉を教えてほしい。」

「はい……。あなたを待っている,エリア,今すぐ我らのもとへ,我ら……の続きが聞き取れません。」

「続きは長いのか?」

「いいえ。最後の文のようです。そこだけ聞こえず,その言葉がずっと聞こえてくるのです。」

「男の声?」

「いいえ。女の声です。でもたまに声色が変わり,つぶれたような声になります。」

「……不気味だな。」

「はい。」

「そんな話聞いたことがない。不安だったろう。もう大丈夫。私がついている。」

「ガブリエル様……。」


「私もついています!」

「私も!」

 二人の天使も続く。エリアの表情が少し明るくなった。

「ありがとう。もう寝ることにします。」

「ああ。異変を感じたり,声が聞こえたりしたらすぐに合図を。」

「はい。」


 天使の居住区は五人が一区画。

 他の天使たちは異変に気付いていない。

 ガブリエルは別の居住地に一人で暮らしている。大量の配下とともに。四大天使として特別扱いを受けているのだ。だが,今夜は居住地にはいない。信頼できる部下にだけ話し,抜け出してきたのだ。

 そもそも。天界に危険な場所などないので,抜け出したからどうということはない。事故を起こして怪我をしない限りは配下に迷惑はかけないだろうというガブリエルの判断である。


 それよりもエリアに聞こえる声が気になる。

 そして,エリアのちょっとした変化も気になる。

 天使は他を疑うことなどない。エリアの思考が気になる。どうして自分の経験や不安が受け入れられないと思ったのだろう。

 エリアを呼ぶ声が,エリアに何かの変化を与えているのだろうか。

 気になる。


 現在夜の十時。

 まだまだ待つ体力はある。


 だがその日。

 まったく寝ずに廊下にいたにも関わらず,何も音を立てずにエリアは消えた。忽然と。

 

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