鉄塔のカンパネルラ「ガブリエルと姿なき神の民」

菜藤そまつ

1-1

 ―――――― カタン。

 その時,地面に落ちた銀色の羅針盤。

 それは,何者かの意のままに,誰かをどこかへ導くもの。

 ここではない場所,過去,未来,どこへでも移動できる。


 次元をさまよう羅針盤は,鐘の音とともに導くものを探している。

 あらゆる次元を自由に行き来し,過去にも未来にも現れるその存在。


 存在を感じる事すらできないその存在。

 星を追われた古い民は,彼らのことを『姿なき神』と呼んだ。



***


「異常なし。」

「はい,異常なし。了解。」

 部下の報告を受け取り,紙に記録する。手が滑り,金色の筆を地面に落とす。ガブリエルは天を仰いだ。

「不器用って……,またラファエルに笑われるなあ。いやだなあ。」

 部下はガブリエルの言葉に笑顔を浮かべる。ガブリエルにとっては笑い事ではないのだが。

頭上には,白い雲と青い空が広がる。ここは天界と呼ばれる場所。いくつもの居住区があり,居住区の白い建物は金色の通路で接続されている。居住区の周りには草原や畑が広がり,その奥には森が広がる。

森の奥にも居住区がある。居住区も緑豊かで,美しく整備された花壇が連なり,そこでは地上では咲かないと言われている白い花が咲いている。


「不思議だよなあ……。」

 ガブリエルは突然呟く。周囲の天使は,あまりに唐突な発言に戸惑っている。周囲にいる天使は三人。すべてガブリエルの部下だ。ガブリエルは百七十センチほどで,痩身,そして白い肌に金色の長髪をなびかせている。

『お前は,私の奇跡。』

大天使ミカエルが,ガブリエルを気に入っているのは有名な話だ。


「この花は地上で咲かない花と言うけれど,誰が見てきた?少なくとも,俺はこの目で見ていない。見る予定もない。」

「私も同じですよ?」

「私も同じです。」

「私も……。」

 部下の天使たちが言う。

「わかった,わかった。もういい。」

 ガブリエルは髪をかきむしる。

「それに……どんな異常が起きるんだよ,この天界で。こんな見回り必要なのか。」

「先日は鳩の亡骸が放置されていましたよ。」

「先日は手すりにフンが……。」

「はいはい。」


 大天使ミカエルはすべての天使の師だ。どの天使も,すべての知識をミカエルから与えられている。穢れのない美しい世界で,自律し,安定を守り,常に笑顔で生きる生き物。それが天使。それが天界の暮らし。

 ガブリエルの背中には,一対の大きく純白の翼が備わっている。そして,腕には四大天使の身分を示す金のアンクレットを装着している。高貴な身分は,覚えてもいないほどの昔から未来永劫約束されているものだ。無条件に周囲の天使を従えている。

そんなガブリエルの一番古い記憶は,天使ウリエルが消えてミカエルが嘆いていたことだ。千年くらい前だろうか。そして次の記憶は,天使リュシフェルが消えた時のミカエルの怒りの表情。こちらは最近の出来事だから,ガブリエルは正確に覚えている。五百年前の出来事だ。

 ガブリエルは,ミカエルが笑顔を失っている時のことを鮮明に覚えている。いつもは穏やかな自然がまれに牙をむくように,ミカエルの笑顔が消えることは,周囲の天使に不安と恐怖をもたらす。


 ミカエルは優しい笑みで,いつもガブリエルに言うことがある。

「天界の未来を,一緒に支えましょう。」

 覚えていられないくらい昔から,ずっと平和だが。ミカエルは常にそう言う。

 ガブリエルは,「はい」と答えるのみ。


「よし。では東の居住区に戻ろう。」

 ガブリエルは歩き始める。天使たちは後ろからついていく。

「異常といえば……ガブリエル様……。」

 先ほどから黙っている一人の天使が,声を出した。

「最近,おかしなことがあるのです。」

「おかしなこと?」

 ガブリエルがその天使を見ると,不安そうな表情を浮かべているのが見えた。ガブリエルは歩みを止めた。

「はい。夜になると,耳元で私を呼ぶ声がするのです。」

「え……。」

「あなたを待っている,エリア,今すぐに我らのもとへ……と。」

「……名前呼ばれているな。」

 エリアとは,この天使の名前だ。ガブリエルの部下として百二十年働いている。気が弱いが,優しく,相手の気持ちに共感し,出来る限り力になろうとする天使だとガブリエルは認識していた。天界ではめったにいさかいは起こらないが,無いわけではない。エリアはいさかいに心を痛めることのできる優しい天使だ。ラファエルに嫌なことを言われたり,好戦的に天使に喧嘩を売られたりした時には,エリアの優しさに救われていたガブリエル。そのエリアがどうやら悩んでいるようだ。

「はい。続きがなかなか聞き取れなかったのですが,日に日に聞き取れるようになってきているのです。最初は何か声が聞こえるというくらいだったのですが,だんだんと明瞭に……。」

「……いつくらいから?」

「一週間前です。」

 うーん。考え込むガブリエル。だが,そんな経験は自身にもないし,聞いたこともなかった。

「そんな話聞いたことないな……。ミカエル様に相談したほうがよいのでは。俺にはわからない。」

「ありがとうございます。すべての言葉が聞き取れたら……どうなってしまうのか,不安です。そして,何やら風景も見えるのです。森の中に,大きな白い建物が…そして,大勢の人間がいる。」

「……。」

 エリアは銀色の短髪,身長百六十センチメートル,やや小柄な天使だ。ガブリエルに打ち明けてもなお,不安な表情を浮かべている。だいたい毎日ともに行動しているが,こんな表情見たことがない。思えばここ数日浮かない表情をしていた。声をかければよかった。ガブリエルはやや反省しながら,エリアを勇気づけなければと思った。

「よし。……今日は,俺が部屋の警備をする!」

「え!そんな……!ガブリエル様に警備など……っ。」

「不安だろう?その様子だと,何日も眠れていないのだろう?近くにいればすぐ対応できる。ミカエル様は反対側の区画に今行っている。今日は相談できない。だが,今晩だって…心配だろう。俺が部屋の前にいる。」

「……ガブリエル様。」

「私もいる。」

「私も!」

「……みんな。思い切って,打ち明けてよかった……。そんなことあるはずないでしょうと言われるかと思った。」

 違和感。だが,ガブリエルはその違和感の正体がわからなかった。天使は顔を見合わせてエリアの発言に驚き,口々に言う。

「そんなこと言わないわ。」

「言うはずがない。」


 そうだ。

 疑うなど,そんなことがあるか。

 天使はそんなものは知らない。

 天界にそんなものはない。


「なんでエリアは……そんなこと,感じたのかな。」


 ガブリエルは,空を見上げる。そして,ふと遠い昔聞いた言葉を思い出した。

『なんか変だと思ったら,必ず理由がある。自分の感覚を死なせるなよ。そして,俺はな…この天界全体にもっているんだ,違和感を。』

 逃亡という荒業で,ミハエルを怒らせた天使…リュシフェルの言葉だ。リュシフェルの力強いまなざしと,心に響く声。

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