第10話 走り出す恋情

 

 とうとう笹は、詩野に贈ると心に決めた笛を完成させていた。

 もらった漆をいつも以上に丁寧に塗り重ねたから思ったよりも時間がかかったが、梅雨の湿気が味方したおかげでうまくいった。

 巻いた藤まで黒々とした笛はたぶん、笹が作り始めて一番の出来だ。

 それなのに作りきった達成感はなく、代わりにあるのはため息をつきそうなほど重い倦怠感だけだ。


 でも、もういい。


 人ではない詩野と恋仲になれるなんてはなから思っていないし、笹が生きていけるのは、この村にいて、寛二郎と夫婦になると決まっているからだ。

 どんなにつらかろうと笛を作れなかろうと、ここでしか生きられないと思っている。

 もどかしくても、悲しくても、これですべて終わりなのだ。

 約束通り、詩野と会って言葉を、交わして別れることが、笹が望める一番の幸福だ。


 でも、と笹はふと考えた。

 本当に、これだけしか道がないのだろうか。

 答えはどこからも帰ってこない。

 だが、ずっと胸にくすぶる何かがもぞりと動いた気がした。



 *



 時刻はもう日が沈もうかというところだった。

 疲れただけではない体の重さに気付かないふりをして夕餉を作っていると、寛二郎が帰ってきた。


 はじめのころはそうでもなかったが、ここひと月でだんだん不機嫌な日が多くなり、寛二郎が無言で向けてくるほの暗い視線が笹は少し苦手になっていた。

 笛を作っていると忘れてしまっていたが、近ごろでは目を合わせるだけでぞくりと背筋を這うようで、恐ろしささえ感じてしまっていたのだ。

 これで夫婦ができるのだろうかと笹は不安で仕方がなかった。



 だが、今の寛二郎は妙に機嫌がよさそうで、どこからかもらってきたのか酒を入れるための陶器の入れ物を片手にぶら下げていた。

 少し胸をなでおろした笹が箱膳に簡素なおかずや飯を並べ、夕餉になった。

 寛二郎はそれを食べつつ、笹に酌をさせながら大いに飲んだ。

 盃が進むごとに陽気になっていく寛二郎はこんなことを言い出した。


「おい、おまえ」


 ふと、この村で笹は名前を呼ばれることが少ないな、と気づいた。

 姑には嫁ご、とかあんた、とか、村人からも寛二郎さんとこの嫁さんとしか呼ばれない。

 それを頭の隅に追いやって笹ははいと返事をする。


「梅雨が終わったら都へ行くぞ」

「はい?」


 突拍子もない提案に笹が呆気にとられているうちに、寛二郎は話を続ける。


「最近俺が家を空けてたのは、お前の笛を都に出入りする商人に見せに行くためさ。その商人、作りにびっくらこいて高く買ってくれたぜ。お前の笛は都にも通用する。それならこんなとこで売るより都へ行っちまったほうが早い。お前が作っておれが売る。そうすればここよりもいい暮らしができるんだ」


 笹は寛二郎の言うことがにわかに信じられなかった。


 今まで作っていた笛が、仕事になる?

 村じゃなくても生きられるかもしれない?


 目からうろこが落ちるくらい衝撃的で、笹はそれがどういう意味なのか理解するためにかつてないほど頭を使っていた。

 だから、いかに都がいいところか熱弁する寛二郎の言葉など半分も耳に入らず笹は生返事を繰り返す。寛二郎が承諾したものと勘違いをしてにんまりとしているのにも気づかなかった。


 気が付くと皿の中身は空になっていて、笹は慌てて後片付けをした。

 寛二郎は見てわかるほど酔いが回り、何がおかしいのか時折大笑いをしながらまだ飲み続けていた。


 笹が、止めたほうがいいのか迷いながら皿洗いを済ませると、寛二郎がにやにやと笑い、こちらへ来いと手招きをする。

 笹が近くに座ると、寛二郎が盃になみなみと酒を注いだ。


「村で祝言をあげる前に出ていくからな。その前に盃事だけすんぞ。お前も飲め」


 寛二郎がグイッと仰ぎ、再度酒を注いだ盃を、笹に差し出す。

注がれた酒は、濁りもなく、底が見えるほど透明だ。

 反射的に受け取ろうとした笹は、どうしてか指先が凍り付いたようにうごかない。

 これを飲んでしまえば、もう戻れない。そんな気がしたのだ。


 だが、なかなか受取ろうとしない笹に焦れた寛二郎が無理やり腕を出させ、盃を渡す。


「ほら、とっとと飲め」


 笹は持たされた盃を、震える手で口に持っていった。

 これでいいのだ。寛二郎と夫婦になって、笹は生きていくのだから。

 何をためらうんだろう。

 だが、笹の胸の奥で誰かがささやく。




 本当に流されるままに夫婦になっていいの?

 こんな気持ちで、決めてしまっていいの?




 誰かは、自分だと気づいたその瞬間、ちりっと手首に熱が走った。


 はっと我に返って見ると、熱を持った手首には瑠璃の髪紐を巻いていた。

 不思議に思う前に、その向こうで寛二郎が猥雑な笑みを浮かべているのが目に入り、そのほの暗くねばりつくような視線にぞうっとした笹は盃を取り落してしまう。


 落ちた盃はパリンと音を立てて割れたが、寛二郎は見向きもせずに満足げな表情で立ち上がると、ゆっくり笹に近づいてきた。

 それに不穏な空気を感じ取った笹は、思わずじりっと後ずさりしていた。


「んじゃあ、行くぞ」

「行くってどこへ」


 笛を吹きに外へ出るのだろうかと淡い期待を抱いたが、寛二郎はあきれたように鼻を鳴らすと、下卑た笑いをもらした。


「もう盃を交わしたおれたちは夫婦だぜ? 夫婦になった男と女がすることなんざきまってんだろ」

「だ、だけど、笛を届け終えるまでは触れねえって」

「実はなあ、お前の笛を欲しがった輩は妖なんだって教えてくれた女がいてな。とっととやる事やっちまっておめえを取られねえようにしないといけねえんだと」

「そんな……!」


 寛二郎が妖、と断じているのは詩野かその仲間なのだ。

 まるで悪人のように吐き捨てた寛二郎に笹が反論しようとしたが、ぐっと無遠慮に手首をつかまれ無理やり立たされた。


「ほれ、いいから来い。俺好みに仕込んでやるよ。心配すんな、すぐによがって気持ちよくなるって」

「い、いやっ」


 思ってしまったのだ。

 笑いあい、言葉を交わし、夫婦のように触れ合うのは詩野じゃなきゃいやだと。

 気づいてしまったら、もう耐えられなかった。


「お前様とはどこにも行かねえ!!」


 汚らしい笑みを浮かべて舌なめずりをするように話す寛二郎に、笹は吐き気を催すようだった。

 つかまれたが鳥肌が立つようにおぞましく、笹は何もかも忘れて腕を取り返そうと抵抗した。

 そんな笹の明らかな拒否に寛二郎はあっという間に頭に血を登らせて逆上した。


「うるせえっ! お前はただ俺に黙って従えばいいんだよ!!」


 寛二郎が容赦なく手を振り上げたの見て、ぶたれると身をすくめた。

 すると捉えられていた手首に巻かれた瑠璃の髪紐が強い光を発し、めらめらと燃え出したのだ。


「あぢいいいっ!!」


 笹には不思議とほんのり暖かいだけだったのに対し、寛二郎は持っていられないほどの熱を感じたらしい。

 手首の拘束がなくなった笹は即座に逃げ出し、真っ暗な外へと飛び出した。


「ま、まて!!」


 光に目をやられていた寛二郎も、慌てて追いかけようとするが、急に酔いが回ってきて足がうまく動かない。

 いらだたしげに床をこぶしで殴るが、どうしようもない。

 無性に笹が憎らしかった。

 帰ってきたら誰が主人かわからせてやろう、うんとひどくしてやるのだと一人残忍に笑っていたのだが。


 とうとう笹は返ってこなかったのだ。

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