第9話 涙雨

 起きると、涙が枕を濡らしていた。

 笹はとうとう自分の気持ちがどういうものか、気づいてしまった。


「おら、いつの間にか恋をしてたんだ」


 呆然とひそやかに、呟いていた。


 はじめは詩野が笛を持っていてくれるだけでうれしかった。

 ただ笛をあげただけの笹に、また会おうと約束さえしてくれて、思い返すだけで元気が出た。


 なのに毎晩のように詩野が笹の笛を吹くのを見ているうちに、欲がわいてしまっていたのだ。


 夢ではなく、詩野に会いたい。また音の無い声で呼んでほしい、と。


 あまりにも思い上がった浅はかなこの気持ちに、申し訳なさでいっぱいになった。

 笹の笛を大切に吹いてくれるから、勘違いをしてしまっていた。

 詩野が大切にしてくれているのは笹ではなく、笹の笛なのに。


 浮ついた心を引きもどしたのは、奥にいた美しい姫君だった。

 なよやかで、指の先まで白く神々しい姫君の隣にいた詩野は、明らかにあちら側の人で。

 改めて、笹とは別の世界に住む人なのだと突きつけられた気がした。

 畑仕事や水仕事や、漆を扱うことで荒れた手で触れることすらおこがましいと思った。

 しかも笹はもう嫁入りをしているのだ。そんなことを思うことすら許されない。


 あの夜が特別だったのだ。

 もうすぐ約束の季節がくる。本当に会いに来てくれるかどうかはわからないけれど、せめて、笹にできる最高の笛を作ることで、この気持ちには区切りをつけよう。

 朝日が昇るまで笹は恋い焦がれる心を持て余し、虚ろに涙を流していた。



 *



 雨の季節に入っていた。


 笹はため息をついて手が止まったりすることが多くなり、出来上がるまで時間がかかっていたが、笛を作る手は止めなかった。


 笛を作っている間は何もかも忘れられるというのもあるが、詩野の役に立てることならば何でもしたいと思ったのだ。

 途中で投げ出したりはしたくなかった。


 笹は仕事のない間、納戸にこもり、鬼気迫る様相で一心不乱に笛を作っていた。

 少しでも良い笛を、良い音をと、それ以外は考えない。

 皮肉にも、笹が悲しみながら作る笛は、哀愁を帯びた美しい音を響かせた。


 降る雨はやみ難く、外に笛を吹きに行くことができる日は少なかったが、やんだ頃を見計らって吹きにいった。その翌朝には、やはり笛の代わりにいろんなものが置いてあり、笹の心はかき乱された。


 そんな笹の変化に姑らは何となく気づいていた。

 仕事もきちんとしてはいるが、どこか虚ろで、生気がない。

 明るい笑みは鳴りを潜めふさぎ込む笹に周囲は心配していたが、それは最近寛二郎が家に居つかないから寂しいのだろうと思った。雨季ということもあり仕事も少ないのでそっとしておいた。


 寛二郎がたびたび部屋をあけることに、笹はほっとしていた。

 顔を見るたびに自分が他人を想っていることががますます罪のように思えて、笹に重くのしかかる。

 申し訳なさでいっぱいなのに、笹は自分の気持ちをどう終わらせればいいかわからない。

 それも最後の笛を作り終えるまでと、じくじくと痛む心を振り切って竹を削る。

 出来上がらなければいいのにと思う自分が、卑怯者のようで厭わしかった。



 *


 

 そんな笹の様子を、鏡越しに見るものがあった。

 豪奢な唐衣に身を包んだ、美しい女だった。


「身の程の違いがよく分かったようなのに、なぜ作る手を止めないのかしら?」


 鏡から外界の景色を消した女は、いらだたしさを紛らわせるようにぎりっと、親指の爪を噛んでいる。


「まだ未練があるというのなら、それを断ち切ってやりましょう。あの木霊は私のものなのだから」


 ふわりと衣を翻すと濃厚な花の香りを残し、鏡の前から女は消えた。




 **********


 


 雨季に入って半ば頃だった。

 空は相変わらずどんよりと曇り、しとしとと雨を降らせている。


 たびたび出かけるようになった寛二郎は、今回は町へは行かず、村近くの森の中にいた。

 うっそうと生い茂る枝葉が雫を受け止めるから、降っているかわからないくらいの雨ならば気にならなかった。


 今日は町へ行った帰りに会った女と待ち合わせていたのだ。

 あの日、女は寛二郎に妖は笹をあきらめていないことを告げ、妖から身を守るためと称して匂い袋を授けてきた。

 明らかに怪しい女になぜか寛二郎は味方だと思い、飛び上がるように喜んで持って帰ったのだ。

 そうしてその成果を伝えるためにこうしているのだが。


 果たして、ふわりと森の陰からしみだすように現れたのは壺装束の女だった。

 虫垂れ衣のついた市女笠をかぶっていて、顔だちはわからないが、匂い立つような甘い香りが辺りに広がった。

 寛二郎は女の現れ方にびくりと肩を揺らして抗議しようとしたが、甘い香りをかいだ途端、当たり前のことだと思うようになった。


「いったいどうなってんだ。妖から身を守るために匂い袋を渡したっていうのに、むしろ今のほうが憑りつかれちまっているみたいじゃないか」

「それでよいのです」


 寛二郎はいらだたしげに言ったが、女の気配はそよりとも揺れない。

 その反応の無さに寛二郎は声を荒げかけたが、その息を削ぐように女はあるものを差し出してきた。


「なんでえこれは」

「これで娘と床盃を交わしなさい。そうすれば妖の呪いは解け、娘と夫婦になれましょう」


 その言葉に寛二郎は欲にまみれた醜悪な笑みを浮かべた。

 そこに女の言葉を疑う気持ちは微塵もない。


「それはありがたい。いい加減生殺しの状況に飽き飽きしてたところだ。今日はせいぜい可愛がってやるとするか」


 女から陶器の入れ物を受け取ると、好色に笑いながら寛二郎は帰っていく。

 女はその後姿を、ひどく愉快げに唇をゆがめて眺めていた。


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