第7話 春風
男衆が帰ってくる以前の夜。
笹は、夢を見ていた。
ぼんやりとした意識の中、声を聴く夢だ。
声、と断じられるほど明確なものではない。
だがそれはまるで心に手で直接触れたように、想いが伝わってきたのだ。
”会いに行けなくてごめん”
”泣いているのに涙をぬぐえなくてごめん”
”守ってあげられなくてごめんね”
その声は泣いていた。
己の無力さを悔い、嘆き、もどかしさに歯噛みをして、謝罪の言葉を繰り返していた。
声の主は見えないから、誰かもわからない。
だがその心があんまり悲しくて、切なくて、胸が痛いと思ったとたん、ほろりと笹の口から言葉があふれた。
そんなことはない、
あの時吹いてくれてうれしかった、喜んでくれて幸せだった。
十分助けになっているよ。
それ以上はいらないよ。
それにこれは当たり前のことなんだから。
村で暮らすには、しょうがないんだよ、と。
伝えた時に、ちくんと痛んだ胸に気付かないふりをした。
なのに、声は鮮やかな激情をあらわにした。
”それでは君が君で無くなってしまう!!”
雷鳴がとどろいたようだった。
燃え立つような激しい感情に、笹は最初こそひるんだ。
けれどその芯にあるのは、笹に対する強い想いだった。
”それがあたりまえというのなら”
”そこでは明るい笑顔も意味がなく、美しい笛を作り出すその腕すら価値がないというのなら”
”私がその笛を
強い意志を秘めたその声は、声の平静さにかえって抑えようとした熱を感じさせ、それが移ったように笹の胸は熱くなった。
痛みはどこかへ消えていた。
”必ず、―――――”
最後の言葉はうまく聞えなかったが、笹は心に温かく澄みきった風が通って行くような心地がした。
そしてこれ以上ないほど幸福に包まれて目覚めたが、はらりと涙が落ちた途端、その夢は曖昧になってしまいひどく残念だった。
*
寛二郎はこのことを他に話すのを嫌がったので、笹は仕事の合間に作業場にした納戸に籠って作ることになった。
笛が仕上がると、夜に寛二郎に連れられ丘に出かけて行って吹く。
突然始まった奇妙な習慣を、何も知らない姑たちは当然気づき怪しんだが、寛二郎は笹がやりたがるから付き合っているとごまかした。
それを信じた姑たちの矛先はやはり笹に向いたが、全く苦にならなかった。
詩野のために笛を作る。
それだけで笹の心は浮き立ったし、そのためならいくらでも頑張れる気がした。
作った笛は夜にふくと、翌朝にはなくなっていた。
その代わりにいろんなものが置いてあった。
昆布だったり山菜だったり川魚だったり猪の肉だったり小袋に入った薬草だったり。
妙なものも交じりはしたが、村ではまず手に入らない高級なものばかりだ。
家で扱いきれないものは寛二郎が嬉々としてどこかへもっていってお金に換えた。
そのお金がどうなっているのか笹は気にしなかったし、食べられるものだったらおかずが増えて嬉しいと思うくらいだ。
漆の入った瓶や、藤づるの束が置いてあったときは手を叩いて喜んで、笛に使った。
笛を作り始めてから、また瑠璃の髪紐を身に着けるようになったからか、笹は詩野の夢をよく見るようになった。
場所は山だったり、森だったり、町の一角であったりいろいろだ。
聴いているのは、獣や黒い小山のようなもの、火に目玉が付いたものや頭に角が付いたものなど、人の形をしているほうが珍しい者たちばかりだったが、みな一様に詩野の笛に聴きほれている。
吹いているのは必ず笹が作った笛で、それはそれは良く響く。
目覚めた笹はやはり詩野に為になっていたのだと喜び、ますます心を込めて作ろうと決意を固めた。
笛を作るたび、詩野を夢に見るたびに笹は生気を取り戻していった。
笛を作っていても以前よりずっとよく働いたし、明るく笑うようになった。
より丁寧に作るようになったが、並行して数本は作業をしているので、余裕ができると日に二本できていたりもする。
寛二郎は笹が余分に作った笛を何とかしてやると言いくるめ持ち去っていった。
ふらりと村からいなくなって帰ってくると、ほくほくと上機嫌で土産物を弾むのだ。
また何か悪さをしているのかと姑たちは怪しんだが、まともなことをしてきたんだと寛二郎は取り合わない。
姑らや村人は笹の突然の変化は喜んでいたので、きっと寛二郎が畑仕事はおざなりでもまともになって嫁を可愛がっているからだろうと噂し合い、ほっと胸をなでおろしていたのだった。
*
春は過ぎ、日に日に日差しが強くなってきていた。
寛二郎は苦り切った表情で町から村への帰り道を歩いていた。
すでに日は傾いているが、暮れるころにはちゃんと村へついているだろう。
笹の笛を都で商ったこともある商人に見せた帰りだった。
寛二郎の予想通り、商人は笹の笛を高く買い取ってくれた。
他にも、笛の代わりに置いてある珍品もいい値段で売れたから懐は温かい。
だが、寛二郎はむかむかといら立っていた。
実は、帰る前に辻へ行って女を抱きに行った。
はじめのころは女の媚態に興奮してもつれ込んだのだが、いざ、事に入ろうとするとぴたりと動かない。
欲情はしているのだが、体がその気にならないのだ。
寛二郎を不能だと思った女はあきれ果ててこっぴどく振られてしまったのである。
「もし触れた場合は、一生女が抱けない体になるぞ」
妖の言葉が思い起こされた。
だが、頭に血の上っている寛二郎は怖がるよりも苛立ちのほうが優った。
妖に出会ったのは確かだ。しかし実際は、本当は初めて見た時の笹が痩せていてぼんやりと頭の悪そうな雰囲気でとてもじゃないが抱く気になれなかった。だから妖の条件を理由に先延ばしにしていただけだったのだ。
今では村中がほめそやす働き者で輝く笹は、痩せてはいるが女らしいまろみも出てきている。笛を吹いているときなどは、はっとするほどつややかな色まで見せていた。
これなら俺が抱いてもいいと思い始めていて、約束など反故にしてしまおうと期をうかがっていたくらいなのだ。
寛二郎は結婚を押し付けられたが、酒も賭博も女遊びもやめるつもりは毛頭ない。
遊んで暮らしていければ最高だとすら思っている。
嫁をやると両親に言われた時は余計なことをしてくれると忌々しく思っていたが、笛を作る腕を都に持っていけば大金が手に入るだろうと思いついてからは別だ。
こんな泥臭い村なんか出て、華やかな都で暮らすのも夢ではないと狙っていた。
まだ幼いとさえいえる田舎娘だ。
一応は夫婦なのだから、一度ちぎってしまえば従順についてくるだろうと考えていたのだが、これでは本当にひと月待たねばならないではないか。
寛二郎は自分がどう思っていたかなどすっかり忘れて、あんな約束しなければと悔やんでいた。
期日まであと少しとはいえ、自分のものなのに手が出せない状況は寛二郎にとって苦痛だった。
どうにかできないものか。
寛二郎がない頭をひねっていると、どこからともなく濃厚な甘い香りが漂ってきた。
見渡しても緑の若い木々ばかりで花などない。
おかしいと、寛二郎が言い知れぬ不安を感じ始めたとき。
「もうし」
女が声をかけてきた。
*
笹が、一人で笛を吹いて帰ってくると、出かけていた寛二郎が帰ってきていた。
何やら薄笑いを浮かべていて背筋がぞくっとしたが、首を振って打ち消し、声をかけた。
「お帰りなさい、遅かったですね」
「まあ、ちょっとな。それよりもおまえに土産があるんだ」
「え?」
寛二郎が出してきたのは小さな匂い袋だった。
高価な材料を使っているようで距離がある笹にまで甘い花のような匂いが漂ってきた。
「枕元にでもおいておきゃあ、よく眠れるだろ」
「はあ、ありがとうございます」
竹の清々しい香りになれていたせいか、この香りはきつすぎる気がしたが、笹は寛二郎の行為をむげにはできずそっと受け取った。
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