第2話「記憶」
ひんやりと、まだ冬の肌寒さが残る朝、私は動物が嘶声で目を覚ました。
寝ぼけ眼で窓の外を眺めてみると、まだ登り始めたばかりの太陽が白い光で世界を照らしているのが見える。
もう一つのベッドの方に目をやると、そこではまだテアがすやすやと規則正しい寝息を立てて眠っていた。
まだ少し眠いが、少し早めに起きていよう。
そう思って上着を羽織ると、テアを起こさないように静かに部屋を出る。
廊下を伝ってダイニングまで行くと、開け放たれた玄関口が目に止まった。
もう誰か起きているのだろうか。
外に出てみると、そこでは見知った人物が、私を眠りから覚ました動物に荷物を載せていた。
私は、筋骨浮き出た力強さを感じるその大きな背中の持ち主の名前を呼ぶ。
「(アドルフ)」
「(・・・・お前か)」
声をかけてみると、彼はその鋭い目つきで私を見る。
昨日と同じように、またしても私はその圧力に気圧されて、その場でピタリと静止してしまった。
「(もう起きたのか、早いな)」
「・・・・・おはよう?」
「(何を言ってるかは知らんが、蹴られたくなければ近づかない方がいい)」
そう言うと、アドルフは再び動物に荷物を取り付ける作業に戻る。
彼が何を言ったのか考えたいところではあったが、すでに私の興味は、否応なくその動物の方に向けられていた。
そこには巨大な鳥がいた。
3本の鍵爪が生えた太くしっかりした2本の脚と、広げたら数メートルにも及ぶだろう立派な翼、紺色の美しい羽毛は、光をわずかに反射してチラチラと光っている。
鳥は巨大な黄色いくちばしをかち合わせて、かぽかぽと音を鳴らしながら、その凛々しい緑色の瞳で私を見ると、ぷいっとそっぽを向いた。
きれいな生き物だ。
素直にそう思った私は、ゆっくりと鳥に近づいて、手を伸ばす。
近づいてきた私に警戒しているのか、鳥はくちばしで私の手を突こうとしてきたが、私は反射的に手を引っ込めて、それを避ける。
「大丈夫、大丈夫」
私は手を近づけながら静かな声でそう言い聞かせ、鳥の首元にそっとその手を添える。
毛並みに沿ってやさしく撫でてやると、鳥は再びそっぽを向いて、私への警戒心を解いてくれた。
「(おい、何を・・・)」
私の行動を見たアドルフが、少し強めの声で何かを言いかける。
しかし、撫でられて次第に落ち着いてきた様子の鳥を見ると、すぐにその声のトーンは落ち着いた。
「(・・・・慣れてるな、フォラコスのことが分かるのか?)」
「・・・・・?」
「(いや、何でもない、・・・・乗ってみるか?)」
「・・・・・え?」
「(乗るんだよ、ほら)」
そう言うと、アドルフは鞍をポンポンと叩く。「乗れ」と言ったのだろうか・・・?
私は恐る恐るこくりと頷く。
するとアドルフは私の後ろに回り込み、無理矢理私を勢いよく持ち上げた。
「(よいしょっ)」
「ちょっ・・・・!」
私は驚いて少しじたばたしてしまったが、鎧あぶみに左足をかけると、自然と右足は鳥の背を跨ぐ。
アドルフは私に手綱を渡すと、銜くつわを片手で引き、歩みを始めた。
早朝の外の世界は不安になりそうなほど静かで、小川のせせらぎと小鳥たちの声、そして鳥の爪が大地と擦れる音がその存在感を示していた。
いきなり動物の背中に乗せられて、最初はどうしていいか分からなかったが、少し歩くと、だんだんとこの鳥の背中でどのように振舞えばいいか分かってくる。
農場の横の道を、きょろきょろと周囲を見ながら数分間歩いていると、じきに家の窓から見えた緩やかな上り坂の上にたどり着いた。
「ここは・・・・」
眼下には農村が広がっていた。
弧こを描く小川の内側には家が数個立ち並び、その向こうには家の前にもあったような畑が何枚も連なっている。
畑のさらに向こう側には、高い木々が生い茂る森が広がっており、手前の何本かが切り倒されていることから、開拓途中であることが伺えた。
鳥の背中に乗っていて目線が高いおかげで、その全容をより広く捉えることができる。
アドルフはそのつもりで私をこの鳥に乗せてくれたのだろうか。
私が彼の静かな優しさに感動していると、アドルフがその低い声で言葉を発した。
「(ロココ村だ)」
「・・・・・?」
「(ここ、ロココ村)」
「(ロココ村)?」
「(そうだ)」
アドルフは地面を指さして、そう言った。
この村の名前だろうか。
私が同じ言葉を繰り返すと、アドルフは頷いてそれを肯定してくれる。
続けてアドルフは、地面を指していた指を私に向け、そのままその指で村の向こうにある高い木の森を指し示した。
ん?何が言いたいのだろう?
意味が分からず、私が困り顔で首を横に振ると、アドルフは諦めたようにため息を吐き、銜を引いて歩みを再開した。
* * *
少し歩くと、坂の上からも見えた小川にたどり着いた。
小川には水車が取り付けられており、汲み上げたられた水を取るために、すでに数人の村人が列を成して集まっている。
私たちも列の最後尾に並んで順番を待っていると、前に並んでいた男性がアドルフに声をかけた。
「(おはようアドルフ!)」
「(おう)」
「(お、その娘は例の?)」
「(ああ)」
「(どうするつもりだ?)」
「(わからん、とりあえず話せるようになるまでは置いておこうと思ってる)」
「(言葉が分からないのか?)」
「(ああ、どうやらそうらしい)」
「(帝国人かもしれんぞ?)」
「(話せるようになったら聞くさ、今はとりあえず、それまで待つしかない)」
「(いいのか?、・・・面倒ごとに巻き込まれたらどうする?)」
「(わからん、なるようになるだろ)」
「(ふーん、まぁお前がいいならいいけどさ、何かあったら言えよ?)」
男性はアドルフと話しながら、チラチラと私の方を見る。
何を話しているかは分からないが、多分私についてだろう。
二人が話しているうちに列は消化され、ついに私たちの番が回ってくる。
アドルフはまたしても私を持ち上げて、無理やり鳥の背中から下ろすと、鳥の背中から茶色い瓶を取り出し、それに水を注ぎ始めた。
「(手伝え)」
「・・・・え?」
アドルフはそう言って、水がいっぱいに入った水瓶を私に渡してくる。
どうしていいか分からない私は、その場で困惑した表情をしたまま立ち尽くしてしまった。
「(ほら、よこして)」
声をかけてきたのは、先ほどアドルフと会話をしていた男性だった。
男性は私から水瓶を取り上げると、それにコルクの蓋をして、首元を縄で括り、私が乗っていた鳥の背中に吊るす。
「(ありがとう)」
「(いいよ、これくらい)」
私は男性にお礼を言うと、再びアドルフから水瓶を受け取った。
なるほど、「手伝え」と言われたらしい。
彼の言ったことをなんとなく理解した私は、アドルフから渡された水瓶を、先ほどの男性がやったようにコルクの蓋で栓をし、縄でくくって鳥の背中につるした。
ある程度水を汲み終わり、私たちは家路につく。
行きは荷物が少なかったから鳥の背中に乗っていたが、水の入った瓶をいくつもぶら下げている今のこの子にまたがるのは少し気が引けるので、帰りはアドルフの後ろを歩いて付いていった。
家に帰ると、イルゼが「(おかえり!)」と言って、私たちの帰りを迎え入れてくれる。
その言葉は昨日アドルフにも言っていた言葉なので、「おかえり」と言われたことはすぐに理解できた。
「(お疲れ様です)」
部屋の奥からテアが現れ、私たちに汗を拭くための布を手渡す。
私はそれを受け取り、「(ありがとう)」と短く返すと、そんな私を見てテアはニコリと微笑んでくれた。
するとすぐにテアは私たち通り過ぎて、忙しそうに出て行ってしまう。
何をしているのか覗き込んで見てみると、テア私たちが汲んできた水を鳥から下ろし、それを井戸に移す作業をしていた。
私もそそくさとテアの傍に駆け寄り、その作業を手伝う。
すべての水瓶の水を井戸に移し終えたところで、「(ごはんにしましょうか)」というローザの声が、午前の仕事の終わりを知らせてくれた。
「(そういえばカナン、これはお前のだろ?)」
朝食を兼ねた昼食を食べていると、アドルフが懐から不思議な品を取り出して私に差し出す。
それは長さ20cmほどの金属製の棒で、その銀色の表面には植物を模した微細な模様が隙間なく彫られていた。
頂点には花びらのような装飾が施されており、その中心にはガラスのような素材でできた透明なドームがはめ込まれている。
・・・・お守りのようなものだろうか?
その凝った装飾からは、宗教的な印象を感じることができる。
お守りのようなものだと考えれば自然なような気がした。
私はそれをアドルフから受け取ると、いろいろな角度から物色する。
そして頂点にはめ込まれたガラスのドームから中を覗き込んで見てみると、奥のほうで小さな金色の光が弱々しく点滅しているが見えた。
「っ!!!!!!!!!!」
その瞬間、頭の中に鮮明なビジョンが流れ込んできた。
まるで脳に釘を打たれたような痛みが電撃のごとく走り、私は頭を抑える。
その光景はあまりにリアルで、「夢」と言うよりは、むしろ「記憶」と言った方がふさわしいものだった。
ーーー鮮血と泥濘でいねいにまみれた戦場。
ーーー火の粉と硝煙で覆われた灰色の空。
ーーー爆発で飛散する兵士たちの体の一部。
そのあまりの凄惨さに、私は手を口に当てて吐き気を堪えた。
心配したイルゼが私の名前を呼ぶが、私にそれに反応できるほどの余裕はない。
数分もすると頭痛は収まり、吐き気も収まったが、それでも気分はとてつもなく悪い。
一体あれは何だったのかと考えようとするが、なんだか体がどっと疲れたような気がして、頭を働かせようという気にはとてもならなかった。
* * *
あれは一体なんだったのだろう。
ベッドに横になり、わずかに欠けた月を窓の外に眺めながら、私は考える。
音も、衝撃も、匂いも、感情も、まるでその場に自分が本当にいるかのようにリアルに感じられたあのビジョン。
それは間違いなく夢とか幻覚の類ではなく、記憶と言った方がふさわしいものだった。
まるで、今まで開かなかった引き出しが、ふとした衝撃で開いて、その中から勢いよく記憶が飛び出してきたような、そんな感覚。
とは言え、私にはあれを過去に体験したことがある実感はなかった。
そういえば、私は目が覚める前、どこで何をしていたのだろう。
思い出そうとしてみるが、やはりその追憶の道筋は、霧で隠されたように途中で途切れてしまう。
薄々分かってはいたが、私は目が覚める前の記憶の一切を忘れている。
私が何者で、どこで生まれて、どこで育って、どのように生きてきたのか、その一切の記憶が、今の私には思い出すことができない。
「・・・・・はぁ」
私はアドルフから貰った金属棒を見ながら、小さくため息を吐いた。
思い出せないものは仕方がない、欲しくてもそこにないのだから今は諦めるしかない、それは分かっていても、やはり自身の生い立ちが分からないというのは、ただそれだけでとてつもなく不安だった。
とりあえず今は彼らのおかげで何とか生きていくことはできているが、いつまでもここにいられるとは限らない。
ひょっとしたら明日にでも追い出されるかもしれないし、不信感を募らせてしまったら殺されてしまうかもしれない。
もしそうなったら、私はどこへ帰ればいい?どこに逃げればいい?
今の私には帰るところも、行くところもない。ただ今を生きていくのに精いっぱいな迷子だ。
・・・・・私は、これからどうすればいい?
答えのない自問自答。気づけば、私の目からは涙が零れ落ちていた。
孤独、不安、寂しさ、あらゆる負の感情が心を満たし、それはまるで錆のように、合理的な思考をしようとする脳の歯車を軋きしませる。
私は涙を手で拭い、布団の中に潜り込んだ。
きっとどうにかなる。彼らは優しいから、きっと私を見捨てたりはしない。
そう自分にいい聞かせて眠ろうとするが、やはりそれはどこまで行っても希望的観測。
確証はない。私のただの願望に過ぎない。
その事実を忘れて現実逃避ができるほど、私の頭はお花畑ではなかった。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
涙となって溢れ出す不安を握りつぶすように、私は布団の端を掴む手に力を入れる。
「(カナン)」
優しい声が私の名前を呼んだ。
声の主、テアは布団の上から私の頭に手を置き、優しくなでてくれる。
「・・・・・・テア?」
「(あなたの気持ちは分かります。私も、同じ経験をしたことがありますので)」
「・・・・・・」
「(でも、今は希望を捨てずに、前に進み続けるしかありません)」
そう言うと、テアは私の横に横たわり、蹲うずくっている私を後ろから抱きしめる。
すべてを包み込むような、慈愛に満ちた暖かな抱擁。
それは凍てつくような私の心の闇を、少なからず浄化してくれた。
「(大丈夫、皆あなたを見捨てたりなんてしません、絶対に、絶対に)」
そう言いながら、テアは私の頭をゆっくりと、優しく撫で続ける。
私はテアが何を言っているかは分からなかったが、その抱擁は、今の私の心を癒すには十分だった。
気づけば、心地よい眠気が私を眠りの海に引きずり込もうとする。
私はテアに抱きしめられながら、その慈愛に満ちた暖かな温もりと共に、深い眠りの深淵へと堕ちていった。
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