黒い定規

まにゅあ

黒い定規

「動かないで」

 放課後の教室。

 僕は付き合って一カ月の彼女から鉛筆を向けられていた。

 彼女の名前は琴乃美鈴。学年は二つ上で、先輩の彼女ということになる。

「これ、刺さったらメッチャ痛いから」

 美鈴は口の端を上げてそう告げる。

 黒光りする鉛筆の先端は、国語の授業に出てきた最強の矛のイラストみたいに鋭かった。突き刺されば僕の体などあっという間に貫かれてしまうだろう。

 僕は考え始めた。

 美鈴が鉛筆を向ける理由を。

 十分ほど前、僕たちはいつものように部活終わりに教室で待ち合わせをした。教室に残っていたのはクラスメイトの細崎君だけで、彼は読書をしていた。部活メンバーのことを愚痴る美鈴が騒がしかったのか、少しして細崎君は本を閉じ、かばんを持って教室を去っていった。

 教室は僕たち二人だけになった。五分ほど前のことだったと思う。そのときの美鈴に特に変わった様子はなかった。美鈴は普段通りに愚痴をこぼし続けていた。

 様子がおかしくなったのは、校内放送が流れた後からだ。

 放送の内容は確か、次のようなものだった。

 ――不審者が侵入しました。不審者は男で、黒い定規を所持しています。男は教室棟一階の渡り廊下付近の窓を割って侵入。そのまま教室棟に留まっているものと思われます。教室棟に残っている生徒は慌てて逃げるなどの行動はせず、落ち着いて近くに身を隠してください。繰り返します――

 放送を聞いた美鈴は僕から距離をとると、かばんから鉛筆を取り出し、

「動かないで」

 そうして今に至るというわけだ。

 ここまでを振り返ってみたけれど、僕は彼女に鉛筆を向けられるようなことをしただろうか。

「とぼけないで。あなたが定規を所持しているのは知っているんだから」

 時は、マイ文具の時代。一人一つ文房具を持ち歩くのが当たり前になっていた。

 美鈴は鉛筆、そして僕が定規だ。

「確かに僕の文具は定規だ。だけど、定規を持っている奴なんて、探せば他にもたくさんいるだろう?」

 事実、僕のクラスメイトにもマイ文具が定規の奴は何人かいる。学校に侵入した不審者が定規を所持していたからと言って、僕をその不審者だと考えるのは早計にもほどがある。

「そうね、確かに定規を所持している人は他にもいる。だけど、黒い定規となると、一体どれくらいの人間が当てはまるかしら」

 そう言われると、言葉に詰まる。黒い定規を持っている人間は珍しい。どれくらい珍しいかと言うと、道端ですれ違った人間が有名人でしかも元カノだったというくらいには珍しい。

 黒い定規は、特定の分野で輝かしい成績を残した人間だけが持つことを許されるマイ文具なのだ。

「黒い定規を持つ人間が、そうそういてたまるものですか」

 美鈴が僕と「付き合おう」と言ってきたのも、僕が黒い定規を持つようになった直後のことだった。彼女は自分のステータスを高めるアクセサリーとして、僕を彼氏に選んだのだ。付き合って一ヶ月、彼女が僕に対して嫉妬を見せる場面もよくあった。

 彼女がじりじりと間合いを詰めてくる。逃げるのではなく、どうやら僕を仕留める算段らしい。色々と残念な彼女だけれど、その心意気だけは素晴らしい。付き合って一ヶ月、初めて僕は彼女のことを見直した。

「ちょっと待ってくれ」

 だけど、僕は美鈴を殺したくはなかった。

「君は本当に僕を殺せると思っているのか?」

 僕たちが通っているのは「殺人鬼育成機関」。

 前途有望な殺人鬼の卵が集まる中高一貫の国策機関において、上級生たちを退け、入学してからわずか一ヶ月で全学年トップの成績を叩き出した僕に、彼女が敵うはずもない。

「そんなの、やってみないと分からないでしょ」

 彼女の瞳に映る決意は本物だ。

 まだ彼女のような身の程知らずの人間が残っていたことに、僕は嬉しくなる。

 僕の実力が校内中に広まってからというもの、僕と殺し合いをしたがる人間は激減した。校内で殺し合いをするためには、双方の同意が必要だった。好きなだけ殺し合いができると思って入学したのに、とんだ期待外れだった。もうそろそろ退学しようかと思っていたところに、美鈴のように“勇敢な”人間が現れた。

 舌なめずりをしてから、彼女に話しかける。

「そうだね、勝負に絶対はない」

 僕はちらりと腰のベルトに目をやる。そこに黒の定規を潜ませていた。抜こうとすれば美鈴が襲い掛かってくるだろうが、それでも彼女の攻撃を退け、必殺することは可能だ。

 彼女のような人間がいなくなってしまうことは心底残念だ。この一カ月はなかなかに楽しかった。せめて最後は痛みなく殺してあげよう。

 名残惜しさを切り捨て、腰の定規を抜こうとしたその直後、僕は教室の床に這いつくばっていた。

 ……何が、起きた。

 背中が燃えるように熱い。床にうつぶせになった僕の頭上で声が飛び交う。

「上手くいきましたね」

「こいつは危険だ。今のうちに殺しておくに限る」

「それにしても、彼と付き合えと言われたときは気落ちしました。人を見下してばかりのクソ野郎だし。二度とこんな任務はごめんですから」

「そう言うな。将来生まれる危険な殺人鬼を殺す手助けをする、それがスパイであるお前の仕事だろう」

「まあ、そうなんですけど……。それにしたって、彼氏になれというのはこれっきりにしてほしいですね。私が陰でなんて呼ばれているか知ってます? ――死神、ですよ。入学してからの三年間、私の彼氏がことごとく死んじゃうから、そんな風に呼ばれるようになっちゃいました」

「任務がないときは普通に彼氏を作ればいいだろう。カモフラージュになる」

「今更遅いですよ。それに彼氏作るの面倒ですし。今回の彼は、周りの生徒の言葉に耳を貸さない自己中野郎だったから楽勝でしたけど、これからもそう上手くいくとは限りません。他のり方も考えておいてください」

「検討しておく」

「それは検討しない人のセリフです! マジでちゃんと考えてくださいね。不審者の校内放送を流す細川君もノーリスクというわけにはいかないんですから。私たちの輝かしい未来のためにも――」

 僕の耳に届いたのはそこまでだった。

 暗い意識の底に沈む間際、僕の視界の端に、赤く汚れた黒い定規を持つ手が映った。


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