第18話 恋の病
してやられたと思った僕だったけれど、だからといってスピネル様に腹を立てるなんてことはなかった。
(むしろ、やっぱり優秀なんだなぁとか思って、きゅんとしたというか)
……うん、自分でもわかっている。これはいわゆる恋の病的な症状だ。まさか自分がこんな状態になるとは思ってもみなかった。
初恋はしたけれど、その後は親父からの厳しい教育のせいで恋愛に割く余力がまったくなかった僕は、二十四歳になるまで恋人一人できたことがなかった。だから、初めての状況に多少浮かれても仕方がないと思うんだ。
そもそも同じような環境だったはずの兄たちが結婚できたことは奇跡に近いと思っている。あー、緩々でしか仕事をしないちぃ兄には何人か恋人がいたようだったけれど、ちぃ兄は要領がいいからなぁ。
そんなわけで、いま僕は若干気分が盛り上がっているというか、頭にお花畑ができそうだとか、そういう状態だった。あんなにグダグダ悩んだり考えたりしていたのに、本当に僕はちょろいと思う。
「まさか自分がこんなことになるなんてなぁ」
「おー、自覚あったんだ。ずっとフニャフニャ笑ってるから、何か変なものでも食べたのかと思った」
「うるさいぞ」
今日もスピネル様は城だというから、じゃあ気分転換に大好きなお菓子でも買いに行くかと思って街に出た。店には手伝い中のファルクがいて、僕を見つけた途端にニヤリと笑いやがった。
「そういや最近もっとも熱い噂話、知ってるか?」
「知りたくないし言わなくていい」
「えー、なんだよ。絶対おもしろい噂話なのになぁ」
あまりにしつこく絡んでくるから、さっさとお目当てのお菓子を買って店を出たっていうのに、なんでついて来るんだよ。そう思いながら睨んだのに、ファルクは「ちょっとくらいいいだろ」と言って池ほとりに僕を引っ張った。
「とりあえず、おめでとう?」
「ニヤニヤしながら言うな」
「だって大事な幼馴染みが結婚するんだぜ? おめでとうの一つや二つは言いたくなるだろ?」
「絶対おもしろがってるだろ。祝ってなんてないだろ」
「心外だなぁ。おまえにもようやく春が来たのかって喜んでるってのに。ま、その顔を見りゃ頭ん中はすでに満開のお花畑だってわかるけどな」
「……っ、う、うるさい!」
ニヤニヤ顔に腹が立って、頬をギュウッとひねってやる。
「痛ぇって! ったく、幸せ任せにひねりやがって」
「うるさいよ」
もう一度ひねってやろうかと手を伸ばしたのに、今度は簡単によけられてしまった。……ファルクのやつ、また背が伸びたんじゃないか? そういえば、ちょっと前よりも見下ろされている感じがする……あ、なんかイラッとした。
「しっかし、まさか本当に幼馴染みが有名人と結婚するなんて、いやぁ驚いた」
「そんなこと言って、そういうこともあるかもって思ってたんだろ?」
「ちょこっとは思ってたけど、俺がそう思うくらい、たくさん噂話があったからなぁ」
「そんなにたくさんあったのか」
本当に貴族は噂話が好きだなと呆れてしまう。
「いろいろあったぜ。なかでも公爵家のパーティにおまえが一緒に行ったって聞いたときは、こりゃもしかして本気なのかもって思ったっけ」
「公爵家のパーティって、……あぁ、あれか」
大勢がいる場所でスピネル様の潔癖気味がどうなるか診るためについていった、あのパーティか。そういやあのパーティで、サンストーン伯爵家が権力の中枢にさらに近づくのではって噂が一気に広がったんだよな。
「あの頃、サンストーン伯爵家はいろんな意味で噂の真っ只中だっただろ? とくに宰相の件もあったから、余計な噂が立たないようにするのが普通だろ。それなのに大勢に注目されるところにおまえを連れて行くなんて、逆に見せつけてんのかなって思うよな」
「……」
「次期伯爵様が若き王宮医に夢中なのは本当だったって噂、そりゃもうすごかったんだぜ? むしろ宰相の話題より食いつきがすごいのなんのって」
貴族って、本当はめちゃくちゃ暇なんじゃなかろうか。
「一部の貴族は『まだ望みはあるぞ!』なんて言って、おまえの奪還計画とか立ててたみたいだけど、全部潰されたって話だし」
本当に貴族連中は何やってんだよ。暇を持て余しているのか? 暇すぎて他にやることがないのか?
「しっかし、奪還計画とか笑えるよなー。おまえが城に戻ったって、どうこうできるわけないってのにさぁ。見た目、強引に迫ればなんとかなりそうなお坊ちゃんだけど、そういう危機管理は案外しっかりしてるもんな」
「当たり前だ。そもそも医者の仕事を邪魔するやつは全員呪われればいいんだ」
「おっと、奪還計画ってところには触れないのか?」
「触れたくないってわかってて言ってるだろ。殴るぞ」
ファルクのやつ、「おー、こわっ」なんて笑いながら俺の頭をポンポンしやがった。
くそっ、やっぱりこの間より背が伸びている。僕だって少しは……、少しくらいは伸びていいはずなのに!
「ま、でも本当によかったって思ってるんだぜ? おまえ、初恋でいろいろショック受けてから好きな人を作ろうとしなかっただろ?」
「……別に、勉強が忙しくてそんな時間なかっただけだ」
「まぁ、そういうことにしておいてもいいけどさ。俺、ずっと心配してたんだからな。あのときの荒れようがあんまりにもすごかったから、こりゃ重症なんだろうって。このまま好きな人を作らないんじゃないかって思ってたのは本当だ」
初恋の女の子が愛人として二回り以上年上の貴族に連れて行かれたと知ったとき、僕はたしかに荒れに荒れた。子どもの癇癪にしてはひどすぎる状態で、まだ生きていた母さんをすごく困らせたに違いない。
あのときの僕は理不尽な世の中に怒り、そんな貴族社会に組み込まれるために医学を学んでいることが嫌で嫌で、どうしようもなく腹が立った。失恋のショックよりも、むしろそっちのほうのショックが大きかったかもしれない。そのせいで、わけのわからない怒りに身を任せて大暴れした。
そんな僕を体を張って止めてくれたのがファルクだった。あのとき分厚い医学書を投げつけて怪我をさせてしまった頬には、いまもうっすら傷跡が残っている。そんなことをしたのに、ファルクはその後もずっと幼馴染みのままでいてくれる。
「サファイヤも、好きなんだろ?」
「……うん」
「やっぱりな」
「なんだよ、やっぱりって」
「だっておまえ、顔に出やすいからさぁ。スピネル様の名前を言うたびに柔らかい顔になるから、実は結構前から好きなんじゃないかなぁと思ってた。それに、おまえの兄貴たちも何もしなかっただろ? それっておまえの気持ちを応援してたってことだろうから、こりゃ兄貴たちにもバレるくらい好きなのかって、ちょっと驚いたわ」
「……マジか」
「マジマジ。きっと聡明な次期伯爵様になんて、すぐにバレてたと思うぜ?」
「…………マジか」
「ま、相思相愛になったんだから、よかったじゃないか」
またもやポンポンと頭を撫でられた。
次にやったら殴ってやると思っていたのに、ファルクの言葉になんだか胸が熱くなってしまった。結局殴ることも手を止めることもできず、少しの間ポンポンされ続けることになってしまった。
※ ※
お花畑頭まっしぐらな僕だけれど、夜のシャワーの時間は真顔になる。というのも、スピネル様に約束したあの日以降、シャワーを浴びる時間はあらぬところの洗浄時間でもあるからだ。
「毎日してれば、そりゃあ慣れもするけどさ……」
「つい医者の感覚になってしまう自分が呪わしい……」
あらゆる面で気がつけば医者が患者を診察する感覚になっていた。冷静に体の様子まで観察していることに気づいたときには、我ながら乾いた笑い声を上げてしまったものだ。それでも自分のためにも準備は必須だ。
「わかってはいるんだけどな……」
気がつくと真顔になっている。一体何をやっているんだろうと思わなくもない。
「でも、自分から言い出したことだし」
スピネル様の策略にまんまとはまった結果だとしても、自分からやると言った手前、やらないわけにはいかなかった。やめたとしても最終目標はいつか必ずやってくるわけで、そのときスピネル様にされるよりは自分でやっておくほうがいいと判断した結果でもある。
「スピネル様にされるとか……、想像するだけで恥ずかしくて死ねる」
シャワーと一緒に諸々を滞りなく終えた僕は、ベッドの脇に次の準備のための道具一式を並べた。視界に入るだけでブワッと熱が上がりそうなものもあるが、こうして並べて事前確認してしまうのは医者の性だ。
五日目の今夜も準備万端、さて始めようかと思ったとき、ドアが開く音がかすかに聞こえた。
(スピネル様か?)
こんな夜更けに僕の部屋のドアを開けるのは、スピネル様の他に考えられない。いかがわしい道具をそのままに慌てて寝室から出たら、思ったとおりそこにはスピネル様がいた。
「どうかしたんですか?」
最初に思ったのは、何かよくない症状でも出たのかということだった。
アンバール殿下を養子にするという話が決まってからもスピネル様は何かと忙しいらしく、毎日城に通っている。となれば潔癖気味の症状に何か問題が起きてもおかしくないし、精神的な疲労から別の病気になってもおかしくないと密かに心配していた。
「どこか具合がよくないんですか?」
診察道具を取ろうと机に足を向けた僕の手を、スピネル様の大きな手がキュッと掴んだ。
「体調はすこぶる良好だ」
「そ、……ですか。それは、よかったです」
掴まれた右の手首がじんわり熱くなる。もう何度も触られたし、なんなら膝抱っこもお姫様抱っこもされてきたというのに、いまさら手を掴まれたくらいで緊張するなんておかしな話だ。
(……そういやこの五日間、そういうことしてないな)
治療は終わったのだからと、触る練習をしなくなった。そういえばベロチューだってしていない。そう、この五日間は顔を合わせたり話をしたりすることはあっても、以前のような接触は一切なかった。
「あの、スピネル様、」
手を離してもらおうと顔を見た瞬間、言葉が詰まってしまった。「ソファに座ろうか」という言葉には頷くことしかできず、いまさらながら顔を見ただけで心拍が爆上がりしたことに驚きながら、ソファの端っこに座る。
スピネル様といえば、当然のようにぴたりとくっついて座ってきた。おかげで石鹸の香りだとか触れた腕の熱だとかが妙に気になって、心拍がますます上がってしまった。そんな状態を悟られないように、「冷静に冷静に」と呪文のように心の中で唱える。
「ええと、こんな夜更けにどうしたんでしょうか」
「そろそろかなと思ってな」
はい……?
「ええと、そろそろというのは……」
「準備は平均五日くらいが一般的だと書かれていた。今日はその五日目だろう?」
「その直球をぶち込むの、いい加減直してください!」
夜更けなのに思わず叫んてしまったけれど、僕は悪くない。ついでに冷静にと思っていたことも吹っ飛んだ。
「はっきり言わなければ伝わらないだろう?」
「内容と程度によるでしょうが! っていうか、その平均は何なんですか! そんな話、聞いたことありません!」
「そうか、男同士の行為指南書に書かれていたんだが」
「そんなあやしいもの、読まないでください!」
ふむ、なんて顎に指を当てて思案する姿は美貌の次期伯爵様らしく大変麗しいけれど、考えているのは洗浄と拡張のことだろ! 残念すぎるからな!
それなのに「考え事をしているスピネル様も素敵だなぁ」なんて、どうしてちょっとだけきゅんとしちゃうかな、僕は!
「今夜だろうと予想していたから、わたしのほうも手配を終わらせておいたんだがな」
「だから、勝手に突っ走らないでください。約束したとおり、ちゃんと自分でいろいろ準備してますから、スピネル様は待っていてくれればいいんです」
念を押すように言えば、残念そうな雰囲気を隠すことなくオレンジ色の目がじっと俺を見つめてくる。表情の変化はあまりないけれど、どのくらい残念がっているか、わかりたくなくてもよーくわかってしまった。これもスピネル様が好きだと自覚したからだろうか。
「そ、そんな目で見ても、まだ駄目ですからね」
「……」
「そんな悲しそうな顔をしても、」
「……」
「眉尻を下げても、」
「……」
「……あーっ、もう! それがスピネル様の策略だって、気づいているんですからね!」
そう叫ぶと、寂しそうな表情にフッと笑みが浮かんだ。
「気づかれていることは知っている。だが、サファイヤはわたしの顔に弱いだろう? 効果があるなら使わない手はない」
「あ、あんたって人は……」
「それに、困ったり焦ったりするサファイヤを見るのも好きなんだ。喜怒哀楽がにぎやかな部分も好きだと言ったはずだが?」
「……っ」
あんたはアンバール殿下ですか。困った顔が好きとか、そういう変な血筋じゃないでしょうね。
心の中ではそんな悪態がつけるのに、僕の体はさっきから固まったままだ。だって、ただでさえスピネル様の顔に弱いっていうのに、いつも以上に綺麗な顔で見つめられたりしたら動けなくなってしまうに決まっている。
「それに、五日で大丈夫だろうと思っていたのは本当だ」
「……また何かの本にでも書いてあったんですか」
「いや、違う」
眩しすぎる美貌がググッと近づく。
「サファイヤが屋敷に来たとき、……あぁ、あれだ、あの鞄を持っていただろう」
スッとオレンジ色の目が向いた先には、親父に渡された
「見た瞬間、わたしがどれほど驚いたと思う? 治療の最終目標はわかっていたが、最初から
「あの、どうして鞄の中身のことを……」
「あれは貴族御用達で有名なものだ。ほとんどの貴族は中身が何に使う道具か知っている」
「え……?」
「驚きと興奮のせいで、初日の夕食の最中はあれこれ考えることに忙しかった。おかげで夜の接触のときも心構えができず、悪いことをした」
ええと……。
「その後もおかしな態度を取ってしまったこと、改めて謝ろう。どうしても鞄のことがを思い出されて動揺していたんだ」
それでまともに話もできなかったのか……。って、初日の食事のときに
しかも、スピネル様が動揺するって……。何を考えて動揺していたのかは、あえて考えないようにしよう。
「あの鞄の道具を使うのなら、五日もあれば十分だとわかっていた。だから今夜こうして来たわけだ」
……あんのクソ親父、こうなることを見越して
「サファイヤは医者だ。繊細な作業には慣れているだろうし、的確にやるだろうから五日もあれば十分だろう?」
熱っぽいオレンジ色の目に見つめられて、思考がぴたりと停止する。
「それに、こうして強引にでもならなければ、恥ずかしがり屋のサファイヤとはいつまで経ってもベッドインできそうにないからな」
「……恥ずかしがり屋とか、言わないでください」
「間違っていたか?」
「……違わない、ですけど」
綺麗な顔がさらに近づいて、鼻先がくっつきそうだ。
「……全部初めてとか言って、随分手慣れてますよね」
「心外だな。サファイヤが相手だからだ。わたしの持てる能力を最大限使ってでも、絶対に手に入れたい相手なんだ。ここでその能力を使わなくてどうする」
「なに言ってるんですか」
「サファイヤを手に入れるためなら床にも跪くし、罠にだって陥れるということだ」
「……知ってたし」
「フッ、やはりサファイヤはやはり優秀だな」
綺麗に笑ったスピネル様の唇が僕のそれにチュウッとくっついた。ただ触れているだけなのに心配になるくらい心拍が激しくなるのは、五日間も触れていなかったせいに違いない。
それだってスピネル様の罠なんだ。
あれだけ過剰に触れ合っていたのに急にやめたら、次に触れ合った瞬間、とんでもないことになるのは想像がつく。それがわかっていて触れようとしなかったちに違いない。いまだに精力増強の食事が続いているのもスピネル様の差し金じゃないか、なんて勘繰りたくなる。
おかげで、ただのキスなのに体中が燃えているみたいに熱くなって、あちこちがビリビリしてきた。
「治療の最終目標に進んでもいいか?」
耳元でそんなことを囁かれて、腰が砕けないはずがない。だって僕はスピネル様の声にも弱々なんだから。
僕は何も答えられず、代わりに自分からギュッと首に抱きついた。
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