第16話 悩んだり、独り言を聞かれたり

「はあぁぁぁぁぁぁ」


 特大のため息を吐くのは何度目だろう。

 ため息を吐くたびに幸せが逃げるんだぞ、なんて聞いたことがあるけれど、誰の言葉だったっけ。それが本当なら、僕の幸せはほとんど残っていないに違いない。そのくらいはため息をつきまくっている。

 そんなことを思いながら、窓の外をぼんやりと眺める。


 うっかり自分の気持ちを真正面から受け止めてしまったせいで、昨日は診察することができなくなってしまった。スピネル様に「一日休むといい」と言われたのをいいことに、一日部屋に引きこもった。それなのに夜にはやっぱりムラムラが止まらなくて、またもやスピネル様を思いながらしてしまった。

 どうにもバツが悪いまま翌朝を迎えたわけだけれど、今日は朝から伯爵様もスピネル様も屋敷にいなかった。

“好きなことをしていて構わない”とはスピネル様からの伝言だったんだけれど、好きなことって言われてもな……。八歳から十六年間、勉強と診察しかしてこなかった僕には、医学の勉強以外にやってきたことなんて何もないんだ。

 じゃあ持ってきた本や資料を読もうかと思っても全部が潔癖症に関するものばかりで、目にするだけでスピネル様のことをあれこれ考えてしまって落ち着かなくなる。


「あーあ、僕ってこんな性格だったかなぁ」


 いろいろ顔に出やすいと言われることはあっても、ちゃんと切り替えられるのが自分のいいところだと思っていたし、実際これまでそうしてきた。でも、全然そんなことはなかった。

 今日は朝からずっとスピネル様のことを思い出し、一体どうすればいいのか悩み続けている。結論ならすでに出るのにあえてそれを回避したりして、ずっとグダグダしっぱなしだ。


「わかってるんだ。一番いいのは、後任を決めてさっさと職場に戻ることだ」


 そして以前と同じようにヒラの王宮医として働くこと。スピネル様とは関わらないようにすること。

 しばらくは噂話の渦中にいることになるだろうけれど、そこはいつもどおり聞き流せばいい。そのうち以前と同じ生活に戻るだろうし、そうすればサンストーン家での出来事も、きっといい思い出になるはず。


「それが一番いいって、誰が考えてもわかることなのにさ……」


 それがいい、そうすべきだ。……頭ではわかっているのに、どうしても決断できない。

 その理由もわかっている。どんなにつらくなるかわかっているのに、僕はスピネル様の側を離れたくない、なんて思ってしまっているんだ。いまの僕は、見えない何かにがんじがらめにされているみたいだ。


「はああぁぁぁぁぁぁぁ」


 だからこうして特大のため息ばかりついている。


  ※ ※


「何かあったのかなぁ」


 次の日も、その次の日も、もう十日もの間、伯爵様とスピネル様は朝から晩まで外出していた。

 二人とも城に行っていると聞いているけれど、あれだけ屋敷に引きこもっていたスピネル様まで城に行くなんて何かが起きているに違いない。伯爵様とやり合っているのはまだ続いているみたいなのに、それを押してでも二人で城に行くなんて何か大事件が起きているんだ。

 ……とても気になる。だからといって、それを知ってどうするんだという気持ちにもなる。


(だって、王太子の姫の件だったら、ちょっと聞きたくないっていうか……)


 うっかり泣いてしまいそうな気がして、ちぃ兄に城のことを訊ねることすらできないでいた。いろいろ知ってしまったら初恋で失恋したときよりも荒れてしまいそうで、そう思うことすら情けなくてグダグダ考えてばかりいる。



 子どもの頃、まだファルクたちと泥んこになって遊んでいたとき、僕は年上の女の子に恋をした。その女の子はびっくりするくらいかわいくて、みんなに好かれていた子だった。

 その子の誕生日が近いと知った僕は、子どもながらに喜んでくれそうなプレゼントをあれこれ考えた。花が好きだと知って、花の匂いがする液体石鹸をこっそり買った。子どもにしては、えらくませたプレゼントだったと思う。

 そうして誕生日まで二日と迫った日、その子がとある貴族の屋敷に奉公に出されることが決まったと聞かされた。結局ドキドキしながら用意したプレゼントを渡すことはできず、その後、その女の子とは一度も会っていない。

 突然会えなくなったことに、僕はとてもショックを受けた。女の子の誕生日の日は、一日部屋にこもって泣いたりもした。それでも仕方がないと理解できたから、泣いて僕の初恋は終わった……んだけどさ。


 それから五年後、初恋の女の子は奉公に出されたんじゃなくて、貴族に見染められて連れて行かれたんだってことを知った。

 僕は初恋が敗れたときより大きなショックを受けた。だって、相手の貴族というのが女の子より二回り以上年上のオッサンだったんだ。それが何を意味するか、子どもの僕にだって理解できた。

 そのことに無性に腹が立ったし、わけもなく苛立った。僕にもこんな部分があったんだと驚くくらいだった。どうしようもなく抑えきれない感情のままに、分厚い医学書をめちゃくちゃに破きながら泣いたりもした。

 でもって、そんな僕を心配して部屋まで来てくれたファルクに怒りのまま殴りかかったらけて、そのときファーストキスが終わってしまったんだ。



「あのときより、きっと荒れるだろうなぁ」


 そんなことを冷静に思う自分がおかしくなる。常に冷静であれ、なんて親父の声が聞こえてきそうだ。


「そもそも、いろいろわかってるはずなのに僕を簡単に差し出したって、一体どういう了見だよ、クソ親父」


 それに大兄もちぃ兄も、にこやかに送り出すなんてひどすぎやしないか?

 二人ともスピネル様の置かれている状況はよく知っていただろうし、そんなところに弟を笑って送り出すとか信じられない。僕ってそんなに嫌われてたっけ、なんてまったく思わないくらい仲のいい兄弟だと思っているけれど……。そうなると、ますますわけがわからなくなる。


「ぅぅぁぁああああ! もうっ! こうやって物事の裏側とか腹の探り合いとかが嫌だから、これまで面倒なことに巻き込まれないようにしてきたっていうのに!」


 なのに、僕が面倒ごとの中心になっているなんて、どういうことだよ! むしろ面倒ごとの中心で叫んでいるしな!


「僕はただのヒラの王宮医であって、そういう駆け引きは苦手なんだ。というより貴族同士のそういうことが大っ嫌いなんだよ。偉そうな態度の貴族も我が儘な貴族も、権力を笠に着て横暴なことをする貴族も大っ嫌いなんだよ。だから巻き込まれないように注意してきたし、噂話に振り回されないようにもしてきたっていうのに……」


 もともと噂話に興味がないから耳を素通りする、ということもあるんだけれど、おかげでいろんな面倒ごとに巻き込まれることなく王宮医を続けてこられたと思っている。

 なのにここにきて、このこんがらがりよう。


「……ただ、好きな人ができたってだけなのに」


 そうだよ、はっきり言うよ。僕はスピネル様が好きだ、好きになってしまった。だからこんなに悩みもするしグダグダもするし、クソ親父には腹が立つし、どうしていいかわからなくなる。


「おまけに思い出したくもない初恋まで思い出すし、さらにどうでもいいファルクとのファーストキスまで思い出してしまったし」

「わたしを好きだと認めてくれたのはうれしいが、最後の言葉はじっくり聞かせてもらう必要がありそうだな」

「ひゃっ!?」


 急に背後から低い声がしたのに驚いて、ピョンと体が飛び上がってしまった。

 慌てて振り返ったら、……え? なんでスピネル様が僕の部屋に? それに気のせいでなければ、かつてないほどの冷気をまとっているような……。

 思わず生命の危機を感じてしまったのは、はたして気のせいだろうか。


「まずは、ファーストキスについて、じっくりと聞かせてもらおうか」

「は? え? っていうか、なんでスピネル様がここに?」

「ここは伯爵家の屋敷であり、わたしの部屋のすぐ隣であり、大切な恋人の部屋だからだ。わたしがいてもおかしくないだろう?」

「あぁ、そうですよね……、なんて言うと思いますか! そうじゃなくて、今日も夜まで城だって聞いてましたし、だから夕飯はいらないって伝えておいたのに、」

「この七日間、昼食しかとっていないと聞いていたが、今日も夕食を取らないつもりだったのか。それでは医者の不養生だぞ。それに……、少し痩せただろう」


 急に近づいたかと思ったら頬を触られて、心拍が一気に爆上がりした。


「え、っと、あの、」

「なぜ後ずさる?」

「いやだって、急に触ったりするから、」

「これまでなら接触できたことを喜んでくれただろう?」

「そりゃあ喜ばしい限りです、けどっ。あの、ちょっと、触り方が、」

「肌の艶が少し落ちたな。それに唇もかさつき始めている。いいクリームがあるから、後でつけてやろう」

「って、だから、唇とか触ってんじゃないってば!」


 親指の腹でスリスリと唇を撫でられて、慌てて飛び退いた。腰から迫り上がってきたゾワゾワとしたものが、首の後ろまでざわつかせてまったく落ち着かない。


「大切な恋人の健康のことだ、わたしが直接触って確認してもおかしくないと思うんだが」

「あんたは医者ですか! じゃなくて、なんでここにいるんですか。毎日伯爵様と城に行っていたってことは、何か大変なことが起きてるってことですよね?」

「面倒なことを済ませようと思っただけで、少し時間がかかってしまったんだ。それも終わったから、こうしてサファイヤの元へ帰ってきた」

「面倒なことって、……って、ちょっと待った! 先に話を、って、ちょっ、」

「ほら、少し黙って」


 まばゆいばかりの美貌に鼻の先でそう言われて、言うことをきかない人がいるだろうか。否、いるわけがない。

 思わず言われたとおり口を閉じてしまった。すると褒めるようにニコリと微笑みかけられ、心臓を撃ち抜かれた僕は慌てて目を閉じた。だって、あまりの美貌に目が焼けるかと思ったんだ。


 しかし、それが悪かった。


 目を閉じた直後、スピネル様にベロチューをされてしまった。慌てて押しのけようとしても後の祭り、体格差もあって抱き込まれてしまったら逃げようがない。

 それに僕はベロチューに弱いのだ。すぐに息ができなくなってしまうし、そのせいで頭がクラクラしてくる。おまけに好きな人とベロチューしてるんだ、なんて思ってしまったせいで、背中とか腰とか首の後ろとか、体中がゾワゾワして力が入らなくなってしまった。

 そんな僕の変化にすぐさま気づいたらしいスピネル様は、ますます口の中を舐め回した。ついでにと言わんばかりに首の後ろを指先で撫で、さらにはその指で背骨を辿るように触り、最後には尾てい骨をグッと押してきやがった。


「ん、ん~~っ! んむ、んっ、んぅ、ぅ、ん……!」


 首を振って離れようとしたら、今度は後頭部をガッチリ抱え込まれてしまって、ますます息が苦しくなる。「そうだ、鼻で息をするんだ」と思っても、これまでできなかったことがすぐにできるようになるはずもなく……。


「~~……! っぶは、はぁっ、はぁっ、はぁっ、は、はぁっ」


 や、やっと解放された……、今回は本当に死ぬかと思った……。ほんのちょっと花畑が見えた気がするんだけれど、あれが天国ってやつなのかな……。


「前々から思っていたんだが、涙目のサファイヤはとてもかわいいな」


 ……もし酸欠じゃなかったら、絶対に殴っていたからな!

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