第15話 気づいてしまった気持ち

「どうした?」

「……いえ、なんでもないです」


 一体何度目のやり取りだろう。今日は朝からずっとこんな調子だ。


(僕が変に意識するのが悪いんだろうけど……)


 こういうときこそ、かまわないでほしいと思っていることを察知してくれたらいいのに。


 昨夜、スピネル様とのベロチューを思い出しながらしてしまったという衝撃は、起きてからも尾を引いていた。強制的に精力増し増しになっている状態で、毎日のようにベロチューをされたらそういうこともあるだろうと納得したはずなのに、いざスピネル様を前にするとどうしても美貌の顔を直視できない。

 そんな僕の態度にスピネル様が気づかないわけがなく、朝食の時間から何度も「どうした?」と訊かれまくっている。


(だからって、答えられるわけないじゃないか……)


 まさかあなたをオカズに自慰をしました、なんて言えるもんか。


「わたしを直視できない原因を夜にでも作ったか?」

「はい?」

「そうだな、たとえば自慰の――」

「なんてことを口走るんですか!」


 そういうところだけ頭の中を察知するなんて卑怯だろ!


「まだ最後まで口走っていないと思うが?」

「最後まで言わなくてもわかります!」

「ということは、正解か」

「~~……っ」


 こういうことに優秀さを使わないでください!

 すべてバレているに違いないと思うと、ますます向かいに座るスピネル様を見ることができなくなってしまう。きっと変な顔もしているはずで、ソファに座ったまま顔を隠すように俯いた。


「さて、どんなわたしを想像したのか気になるところだが」

「は……? って、近い、近い!」


 あまりに近いところからの声にハッと顔を上げると、目の前にとんでもない美貌があって思わず仰け反ってしまった。俯いている間に近づいていたらしいが、音もなく気配も感じさせずに近づくなんて器用すぎる。


「自慰で恋人を思い出すのは普通じゃないか?」

「床に跪いてまで何を言っているんですか、あんたは」

「恋人の憂いを払うためなら、床に膝をつくのも普通だ」

「スピネル様の普通の基準がよくわかりません」

「そうか? そろそろわたしのことも把握しているように思っていたが」

「そんなに簡単に人を把握することなんてできませんよ。それができれば、いま頃僕は優秀な王宮医になっていたと思います」

「サファイヤは、自分が思っているよりもずっと優秀だ」


 いつも見上げているオレンジ色の目が、いまは少し下にあって変な感じがする。このままじゃ見つめ合うことになってしまうと思っているのに、オレンジ色から視線を逸らすことができない。それどころか「やっぱりスピネル様は綺麗だなぁ」なんて馬鹿なことを思ってしまった。

 そんなことでも思っていないと、グンと上がった心拍の理由が頭をよぎってしまいそうなんだ。……そう、このままでは僕はきっと理由に気づいてしまうに違いない。


「僕は優秀なんかじゃないですよ。由緒正しいカンターベル家の医者なのに、ヒラの王宮医のままです」

「王宮医になるのは、そう簡単なことじゃない。それだけでも優秀な証だろう?」

「正式な王宮医になって六年経つのに、いまだに独り立ちできない」

「サファイヤは人気者だ。皆辞めてほしくないんだ」

「……そんな話、聞いたことありません」

「サファイヤは周囲の雑音を気にしないからな。城での噂話も聞き流していたのだろう?」

「……興味ないんで」

「そういうところも好ましい部分の一つだ。わたしの周りはうるさくてかなわない」

「人気者の次期伯爵様だから、みんな気になるんですよ」

「わたしはサファイヤに気にかけてもらえれば、それで十分だ」


 そんなこと、優しい声で言わないでほしい。


「……なんで僕なんですか」

「恋人という意味でか?」

「いろいろ含めてです」


 跪いたままのスピネル様が自分の顎に指を当てながら、ふむと思案顔を浮かべた。


「以前話したとおり十年前のことが忘れられず、父の命令を聞いて真っ先に思い浮かんだのがサファイヤだった。再会し、間近で見て、十年前に想像したとおりの人物だとわかり、ますます好感を持った。そして十年前と同じことを思ったんだ」

「あのとき僕みたいな人に会っていれば、もう少し違う自分になったかもしれない……、でしたっけ」

「それもあるが、十年前に言葉を交わしていたら、もっと早く恋人になれていたかもしれないのにと残念に思ったんだ」

「なに言ってんですか……」

「これも本音だ。そう思った自分に気づいたから、サファイヤのことが忘れられなかった理由にたどり着けたのかもしれない。それに、わたしのいまの気持ちにも」


 なんだそれ。本当に何を言っているんだ。


「十年前のあの日、すでにわたしはサファイヤを好きになっていたのだろうな。だからわずかの時間見かけただけなのに忘れられなかった。人生最大の危機ですぐに思い出すくらいに」


 そんなことがあるわけないと思っているのに、オレンジ色の瞳から目が離せなくなる。


「きっと一目惚れだったのだろう。ということは、一目惚れも初恋も、サファイヤが初めてということになる」

「初めてって……。潔癖気味だったとしても、さすがに初恋くらいは終わらせてるでしょう」

「いや、人を好きになったのはサファイヤが初めてだ」


 スピネル様の言葉に胸がザワザワし始める。


「……二十歳で初恋って、遅くないですか」

「昔からわたしの周りには欲深い連中しかいなかったから、仕方がないだろう? そもそも女をそんな目で見たことはなかったし、男は眼中にもなかった」


 聡明で綺麗で将来有望な次期伯爵様なのに、本当にもったいない。これまでの三十年間がとてももったいなく、それ以上に大変だったんだろうと改めて思った。

 それに初恋もできなかったなんて……いや、すべてが初めてにしてはやっぱりおかしくないか?


「……僕が初恋だって言いますけど、それにしてはキス、うますぎやしませんか?」


 僕の質問にスピネル様がうれしそうに笑った。


「そうか、うまいと思ってくれていたのか。いろんな本を取り寄せた甲斐があったな」

「……ちょっと待った。本を取り寄せたって、本当に僕が初めてだったんですか?」


 いやいや、あれで初めてとか絶対におかしい。


「そうだと言っているだろう? もちろんキスは知っているが、実際にしたことはない。それに、気持ちのおもむくままにやってよいものかわからなかった。それでいろんな本を取り寄せてひと通り学んだというわけだ」

「本で学んだって、それだけであんなベロチューできるのかよ……」


 僕の漏らしたつぶやきに、スピネル様がうれしそうな顔を……いや、何かよくないことを考えているような顔をした。僕くらいしか気づかないような微妙な変化だけれど、その顔は絶対に何か企んでいる。


「わたしは見聞きしただけで大抵のことは理解できるし、実行することもできる。なんならもっと先のことも学んでいるから、試してみるか?」


 やっぱりろくでもないことを考えていた!


「いいえ、結構です!」

「まぁ、急ぐ必要もない。最終目標達成のためには、いずれやることだしな」

「……っ! だからそれは、また考えるって言いましたよね?」

「考えた結果、昨夜はわたしを思いながら自慰をしたのだろう? それなら結論が出たも同じじゃないか」

「ちがーう! 昨日のはちょっとムラムラしただけです! そもそも毎食あんな精力増し増しな料理を食べていたら、誰だってムラムラするでしょう!? スピネル様だってムラムラするでしょう!?」

「するな」

「ほら、あの料理に慣れているはずのスピネル様だってそうなんだから、僕がムラムラしてもおかしくないじゃないですか!」

「だから、わたしもサファイヤを思い浮かべながら自慰をするぞ?」

「……っ」


(だから、そんなことを表情一つ変えずに言うな!)


 駄目だ、これ以上話を続けたら、またいいように言い含められてしまう。さすがの僕も自分のちょろさには気づいているし、これ以上そのことを利用されるわけにはいかないんだ。


(……僕は患者相手になんてことを考えているんだ。こんな医者、最低だ)


 そうだよ、もうとっくに気づいている。僕はもう、スピネル様を患者だと思えなくなっている。医者として冷静に対応することなんて無理だ。

 ちょっと前までなら、最終目標のことを言われてももっと冷静に対応できた。クソ親父に聞かされたときは腹も立ったけれど、その後はちゃんと考えることができたし、実際に相手を探すための条件をまとめたりもしていた。

 それなのにいまは話に出るだけで動揺して、まるで八つ当たりみたいな態度まで取ってしまっている。


(僕は医者として冷静でいられなくなってしまった)


 そもそも、患者相手に個人的な気持ちを持ち込むのはタブーだ。患者の前では常に冷静であれ、それがカンターベル家の、王宮医としての心構えだ。

 ちょっとばかり不愉快な気持ちが顔に出ることはたまにあったけれど、これまで大方はちゃんとできていた。どんなに不快な貴族が相手でも大体は愛想笑いできたし、医者のスイッチが入れば余計なことは気にならなかった。たとえば急に手を掴まれたとしても、肩を抱き寄せられそうになったとしても、愛想笑いを浮かべながら冷静に対応できた。

 それなのに最近の僕ときたら、スピネル様に怒ったり慌てたりばかりしている。それどころか大して抵抗することもなくベロチューまでしてしまっていた。こんなこと、医者として看過できるはずがない。


(そうだよ、とっくに気づいていたんだよ)


 僕はもう、医者としてスピネル様を見てはいなかった。スピネル様を患者として見ていない時間が明らかに増えている。気づきたくはなかったけれど、昨夜のことではっきり自覚した。

 いくらとんでもない美貌だからって、毎回心拍が爆上がりするなんておかしいと思っていた。ベロチューや膝抱っこが本当に嫌なら、殴ってでもやめさせればよかったんだ。


(……なのに、僕はそうしなかった)


 こんな気持ちで最終目標まで進んでしまったら、たとえ成功したとしても、きっと僕のほうが耐えられない。貞操の危機だからということではなく、違う意味でつらくなるに違いないからだ。


(だって、そうじゃないか……)


 もし気持ちを伴って最終目標に挑んだりしたら、そのあと目も当てられなくなることはわかりきっている。

 いくら僕を好きだと言ってもスピネル様は次期伯爵様、恋愛と結婚は違う。僕を奥方にするのかもしれない、なんて噂話が広まっていたとしても、最後は後継ぎを生める奥方が必要になるのだとみんなわかっている。それが何を意味するかなんて、恋愛をしたことがない僕にだってわかる。


「……だから、気づきたくなかったんだ」


 僕のつぶやきははっきり聞こえているはずなのに、スピネル様は何も言わなかった。代わりに跪いたまま僕を抱き寄せ、優しく背中を撫でてくれた。

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