第7話 愛と光 光とは愛
ジャンだ。
最近の私は何故か違う意味で忙しい。
私の本来の役目ではない箇所での頼まれ事が増えているのだ。
今書いている小説とは言わないこの文章や、並行させて書いている作品を代わりに書いたり。
この今書いている作品も直に終わらせ完結にするつもりが、もう7話目になる。
今回お話する「愛」について。これについても神々より依頼がきた。
私が考える「愛」をテーマに書け。との事なんである。
はっきり言うが、私にはあまり似つかわしくない題材に思えるが。。。
では、書いていくが、初めに断っておく。
今から書く話は、あくまでも、私、1個人の考えである。いや、想いという事になる。
私は以前に落ちてきた因縁の話の際に、彼らの多くは憎悪の中に一欠片の愛が垣間見える事に触れた。
なぜ、どちらかにまとまらないのだろうか?
憎むなら、憎み。
怨むなら怨むべきではないか。
そこに一欠片とは言え、愛が見える事に私は何度、疑問に思ったか。
だが、永きに渡り彼らを見てきて、感じた事。そう、そこにも、二元があると言う事。
愛憎とは二元なのだ。
因縁の内側には闇に傾き、又はどっぷり浸かりすぎた闇が広がる。だが、それでもそこには光の要素を含む愛が存在するのだ。
その愛がどれだけ復活するかで光へ戻れるか、はたまた、暗黒の世界に渡す事になるのか。
愛とはそれだけ重要な要素を含んでいる事になる。
私はこの「愛」について。様々に考えそして自分が抱く想いすらにも的を当て、感じたり、思考を巡らせていた。
私は普段は闇に近く光からはかなり遠い所に身を置いている。
だが、光側にいる者達を常に感じるように努めており、又、弟であるシリウスとは常に繋がっている為、光側での愛に触れてきた。
「愛」にもいろんな愛がある事。誰もが理解出来るだろう。
だが、いろんな「愛」があるのは理解出来ても、「本当の愛」「真の愛」と言われるような「愛」はきっと誰も辿り着いてはいないのではないかと私は考えている。
そう、「愛」は奥が深すぎて理解出来ているようで実は難しい事のように思えるのだ。
では、先程に話した弟であるシリウス。
彼の抱く想い「愛」と私が想い抱く「愛」を比較してみよう。
シリウスと私。
私達は兄弟だが、シリウスは光で私は闇。
このように普段から解釈しているのだが。
シリウスは遥か昔から彼の中にある愛はとにかく、「情」にある。
この「情」が深い男が自分の愛を育てていくときっと、今のシリウスのような誰にでも、暖かく、優しさ溢れるようなそんな人格へと形成されていくのだろうな。
私が言うのもなんだが、彼の愛は本当に暖かい。因縁や、闇側、つまり悪を正面から切りつけたりはせず、自分の愛を伝えようと、又は触れさせている。仲間を思う気持ちすらも暖かさを感じる。
又彼は、自分の愛する者を側に置きたがる。いや、自分が側に居たいのだ。そう、自分が側に居たい。
この「自分が」の気持ちは自分に軸があり、自分が満たされるような愛なのではないだろうか。
又は、自分が側にいる事で安心感を得たり。
皆さんはこの弟の自分に軸を置いた愛に関してどう考えるだろう。
小さい愛なのか?
自分本位な愛なのか?
賛否両論かもしれない。
この「自分に軸を置いた愛」を私は否定はしない。
それは、誰もが持つ気持ちなのではなかろうか。
「側に居たい」も「居てほしい」も。
自分が満たされる愛は私は必要だと考えるからだ。
いや、基本なのではなかろうか。
自分が満たされる愛をまずは知らなければならないのでは?
そんな風にも思える。
まずは、自分が知らなければ、どうやって愛を撒く事ができようか?
私は弟を見てそう思うのである。
では、そのまずは満たされる事を知った愛をもう少し前進させたものが、
私が抱くような「愛」へと成長すると、勝手に解釈している。
私が抱く愛は弟に比べても暖かさはどうだろう。どちらかと言えば冷ややかだと思う。私には「情」がないわけではない、「情」に重きを置かず横にずらしている。
相手を見て判断し、必要ならばその横にずらしている「情」を取り出し使う。
つまり、誰にでも「情」はかけない。
「相手にとって必要な時」これに当てはまれば「情」は「愛」へ変わる。
だが、「相手にとって不必要な時」
この時に「情」をかければどうなるか。
「愛」とはならず「毒」となり得るのだ。
私が話す意味が理解できる人達がどれくらいだろう。
「必要な時」と「不必要な時」
これは、例えば「手をさしのべる」に置き換えるとわかりやすいのではなかろうか。
手をさしのべるのは簡単なようで実はこれも中々難しい。
何でもかんでも手をさしのべるなんて、自分にとってはかなりのエネルギーがいるし、ましてや、さしのべた結果成功すれば、報われるだろうが、逆に毒となった場合。
これは、怨みや、逆恨みもしくは、余計なお節介となる。
ここで私が実に興味を抱いた事柄を紹介する。
子育てする時、まだ幼い子供が自分で何でもしたがる時期がある。皆さんも親の経験があれば、わかるかもしれない。
さぁ、この時に子供に育っている形成されようとする様々な事を理解した上で親が手を貸すか、見守るか、
はたまた、無理やりやってしまうか。
大概は、最後には親がしびれを切らしやってしまうだろう。
子供は「自分でやりたい」「できる」
そう、自立の確立と、また達成感である。
しかし、そう簡単に事は上手くは出来ないのも事実。
靴を1人で履く行為。
これも一つの確立の場面だ。
スムーズに履く事ができない。これを見守るならどんな気持ち、考えを持ち合わせて見守ればいいだろうか。
ただ見守ったんでは何にもならない。
まず、上手くいかないことを経験しながら、履くと言うコツを本人は獲得しようとしている。そしてそれが達成された時に、本人の内側には「できた!」と言う達成感が生まれる。
たったこれだけの場面だが、本人からしたら、親が手を貸すとなれば嫌がり反発する。中には無理やり履かされたり。この「無理やり履かされた」は、本人からすれば、余計なお節介に当たるわけで、ならば、無理やり履かすのではなく、履くコツを知らせるような手助けが出来れば、嫌嫌ながらも、本人はコツを掴むと言う事に発展するわけだ。
私はたったこれだけの場面を見た時にまだ、「小さな子供だから。」などと言う親側、大人側の勝手な概念が「愛」とはならず、「邪魔」または、「毒」にもなるような要素を含んでいるように思う。
本人の事を見る目がなければ、的確な「手をさしのべる」と言う行為にはならない。
それは「愛」とは言わない。
相手を良くするには自分には何が出来るのか?
「手を貸さない」事も時には「愛」と言えると考えている。
ここまで話したが、「愛」について話すのは難しい。私もまだまだ、学び足りてはいない。
最後に、「愛」は「光」であると言う事も覚えていてもらいたい。
まずは、自分自身が満たされるような愛を知る事。
そして、そこで経験し、知り得た「愛」を他に分け与える。
ただ、そこに、もう一つ付け加えた別の「愛」が必要であり、
そう、「愛し方」とも言えるだろう。
相手を見極める行為すらも一種の「愛」と言えるのかもしれない。
あなたの抱く「愛」想いはどのような「愛」だろうか。。。。
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