第24話『豊臣秀吉の了』
あれからの、それからの十年。
九州平定とあいまって、豊臣政権はさらなる盤石を見せていた。
イエズス会宣教師を呼び出し、キリスト教の教えに基づく排他的、および人身売買活動を厳しく非難。事実上の『バテレン追放令』を発布する。
このとき、銀が主な輸出元であった日本だが、その実、刀剣も多く流れていったといわれている。
密輸入出は大阪や京都から離れれば離れるほど盛んであり、特に九州ならびに奥羽の伊達などは精力的に私費を増やしていたという。
これを封じるための追放令であり、名物の流出を防いだ一面は大きいという。
自然災害等も多く、もとから神仏を尊ぶ秀吉の性格も相まってか、大仏建立――京都の大仏――なども計画発布から進みを見せ、金員の流入が中央へと安定を見せたところを伺うと、懐事情の安定を図った几帳面な側近の影が見え隠れする。
何かが狂いはじめたのは、そのすぐ後である。
秀吉は奥羽を征伐すること実に二度。
日本の北を平定し、ついにはほんとうの最高権力者に上り詰めたのである。
文禄の役、西暦一五九二年。
慶長の役、西暦一五九七年。
長きにわたり海外を攻めた。
戦に参加した諸武将は――石田三成、大谷吉継、増田長盛、長谷川秀一、木村重茲、加藤光泰、前野長康、浅野幸長、吉川広家、片桐且元、糟屋武則、毛谷村六助、大石智久、熊谷直盛とそうそうたる面々であった。
しかしこの戦いが東西を大きく分ける端緒になったのは事実だろう。
そして、一五九八年八月。
秀吉は死の二週間ほど前に遺言を遺している。
徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家を五大老とする、事実上の後任人事である。これは後見人を兼ねている。
即ち、己が子である秀頼の後見人である。
豊臣秀吉は、徳川家康こそがもっとも力があり頼れる存在であると、このとき認めきったといってもよかった。
徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家。
この名前の順こそが、越後の一件から十年あまり経た、上杉の限界だったといえよう。
この十年、秀吉は子をどうにか授かることができた。
それが大きなきっかけであったろう。
あれほど大事にしていた名物ですら、死を前に、各大名に惜しみなく分け与えていたという。刀も、茶器も、そのほかの名物も。何もかも。
総ては秀頼という子宝のために、遺せぬ宝を総てワイロとして大名に贈ったのだろう。
その陰に、清廉な石田三成の部下として名を上げていた室戸十郎太という者がいたのは有名な話であるが、この采配を振るいし男の生まれは、越後であったという。
怪しみこそなかったのは、名物の上下で采配しなかったことである。
上杉へと下賜された名物の中に柴田が縁の品が多く混ざっていたのを見咎める者はいなかっただろう。
かくして、八月半ば過ぎ、太閤秀吉は死ぬ。
残ったのは、徳川と上杉の背中から刀刃が見え隠れする、昏くきな臭い戦乱の気配であった。
これが、豊臣秀吉の了である。
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