猿飛佐助

第19話『忍法霧隠』

 手傷であった。

 現状の討手は、真田のつはものから上杉の精鋭となった。強さの質が、がらりと変わったのだ。

 完全に殺しにかかる布陣であり、馬、弓矢、槍の類に惜しみはなかった。ただ人員のみが少数精鋭。下手に軍を動かせば、太閤へ叛意ありと疑われてしまうからだ。

 その各邦からの隠密の目が宗章らの助けになっているのは確かであった。

 しかし、無傷ではいられなかった。

 まっすぐ南下する道には当然のように手勢が配されており、迂回路にはもちろんのこと、上空には鳩ときたものである。


「知ってるか、上杉の鳩は伝書を運んでおるそうだ」

「おっちゃん怪我が増えてるみたいだぞ」

「やせ我慢してるのョ」


 先ほど、追手の矢が左肩を傷つけたのだ。鞍の前に座らせたお藤を守るため、抱え込んだ際の傷だ。


「なあに、かすり傷」

「痛ぇって叫んでたじゃないか」

「痛がってやらんと射ったヤツに悪かろう」

「痛かったのか」

「痛かった。――」


 実際、肉はえぐれていたし、血止めこそしたがじゅくじゅくとした疼痛が止まらない。手当をしたいところだが、さらしも酒も手元にはない。暇などもっとないのだ。

 馬も休ませたいところだが、お藤を背にしてからこっち、馬の奴は弱音や文句を吐かずに雄々しく疾駆する。まだまだいけそうだが、やはりこれからを考えれば水は飲ませたい。


 三日は駆けているだろうか。

 六度は斬り結び、五度は突破し、逃走は実に十余たびに及ぶ。柳生宗章は越後を知らぬ。知らぬが、何とかなっているのは六文銭さなだの伝書のおかげである。


 ――かけい


 ただそのひと文字が書かれた伝書がもたらされたのは、先ほどのことである。地蔵の影から馬の鼻先に、ヒョイと投げられたのだ。このように、ことあるたびに投げられてくるか、地蔵への供え物のように置かれている。


 筧屋へ向かえ、ということだろう。真田配下の者で、忍者ではない。かといって、武士でもあるまい。そんな勢力外の協力者がいる様子に、真田の――信繁の人材層の厚さを感じずにはいられなかった。


(俺とはえらい違いだ)


 魚沼の南へと到達した宗章らがひと息つくには頃合いの場所である。筧屋へと馬は走り抜け、翌日の夕暮れ時にはどうにか人出に紛れて裏手へと馬を繋げることができる。

 南北の道沿いにある町としては大きい。

 こうして町に潜むときは討手が襲ってくることは希である。

 宗章はまず周囲の忍者を警戒した。総てを倒してはいない上に、逃走戦線の最中でいつかかならず上杉の手勢から外部大名の監視を逃れるため、忍者が出てくると踏んでいるからだ。

 この魚沼は大きな米所こめどころでもある故に、商人の耳目――すなわち外部への情報の窓口が多い。武士なら強硬な攻めは控えると見ている。


 夜半過ぎからの押し込み強盗に見せかけた強襲もあるだろうが、それこそ建屋を味方に付けた武術家の立ち回りが物をいう。火付けともなれば相手方としても混乱に乗じられる恐れがある。


「くるなら夜中か、明け方よ。お藤、安心して休め。湯を借りて顔を拭け、小汚いぞ」

「おっちゃんは臭いな」

「お前の臭いが移ったか。――」


 裏木戸が開き、筧屋の店主が顔を出す。

 周囲をチラリと見ながら、飼い葉を食う馬に水を足してやり、「追われてる身なのですぞ」と念を押す。

 まずお藤が店に入り、次いで宗章。室内は暖かく、刀の在庫をしまう部屋を抜けると、閉じた店の中である。行灯、それに暖を取る火鉢と洗い湯が用意されている。


「飯と、湯を用意してあります。お武家さま、腰の物は。――」

「鉄砲で砕かれたり、仕掛けられた獣と戦ってるうちにこれよ」

「獣とは」

「熊と狼」


 よく生きておいでだと、嘆息する店主。

 運んできた飯を食いながら、お藤は「あっちの部屋にあった螺鈿拵えの鞘と、鹿革裏巻の鉄目釘拵えの鞘をくれるか」と筧屋に問うた。


「あれならおっちゃんの刀にちょうど合う」

「俺はまだ二十歳だと言ってるだろう。……そうか、俺の兼定にちょうどいいか」

「な、なんと。我が目を疑いましたわ」

「店主、こいつの目は確かだよ、驚くことはない」

「二十歳であったとは」

「そっちか」


 ともあれ、抜き身の兼定の太刀と、偽物ぎぶつ兼定の脇差し、柄にしろ鞘にしろ、ぼろぼろであった。ここでぴたりと合うものを作り直すと時間がかかるが、小藤の目が選んだものならぴたりと合うだろう。交換なら時間はかからない。


 筧屋は言われた通りのものを刀ごと持ってくると、「さあ自由に使いなさい」と手入れ道具一式と、刀枕をふたつ渡す。


「鹿革裏巻か、鑢を掛けずとも手に馴染む。俺が好むのは細巻きだが、目貫も――黄銅細工の獅子か、縁頭と柄頭は牡丹か椿か。首が斬られたように花が落ちるから、武士には人気よな」

「いささか高ぉつきますが」

「銭を取るのか」

「ほっほほ」


 当該刀剣の拵えを外すと、納められた刀身が姿を見せる。


(これは見たことがないな)


 お藤はじっと見る。

 鑑賞の作法こそ独特だが、礼には失してはいない。宗章よりも堂々としてるあたり、生まれだろうか。宗章に向けられる筧屋の視線が面映ゆい。


「沸がもうもうと。荒沸は南、島津の作風に似ている。……とは聞いているけど」

「天与の才児に教授するのも、僥倖かな。お藤どの、それは昨今その名を広めている国広の刀でございます」


 堀川国広。

 堀川国広は主家が没落後、なんと森羅万象天然大地の縁を得んと、山伏にその身を転じ、山岳修行に身命を賭ける時期を過ごす。天正十二年、西暦一五八四年の如月にがつ、「日州古屋之住国広山伏之時作之 天正十二年如月彼岸(日州古屋に住む国広がこれを作った時期は天正十二年の二月彼岸のときです――との銘意)」と堂々たる銘を切った太刀を打ち上げている。

 これが世に名高い『山伏国広』である。


 その後に打った太刀のひとつであり、上杉家臣のなかでも地位のある人物の秘蔵品として調達されたものであろうか。


「くに、ひろ。――」

荒沸あらにえではなく、叢沸むらにえと呼ばれるものですな」


 お藤は「むらにえ」とその姿を表裏じっくりと見る。

 行灯の明かりで刀の地鉄や刃紋、その働きを総て観て取り、刀枕に刀身とハバキを寝かせ嘆息する。


知らないあたらしきことばかりだ」

「なんだそれは。ん~、俺には湯村の刀刃のほうが好みではあるがなァ」

「おだてても銭はまかりませんよ」

「筧屋。――」

「とはいえ、今は持ち合わせも心許ないでしょう。貸しにしておきます。貸しです、貸し借り、貸借たいしゃくのタイ。刀屋がお武家に下賜かしはあり得ませんからな」

「真田に付けとけ」

「ほっほほ。かしこまりました」


 お藤はそんな遣り取りをきょとんと見ているが、手は止めていない。

 宗章の太刀を借り受けると、激闘の果てに捲れ気味に寝た刃を起こすよう軽く研ぎ合わせ、汚れを拭い、油を塗り、柄共々、拵えに納める。

 ぴったりであった。

 新品故か、ハバキもしっかり噛み合っており、鯉口がしっかり締まっている。揺れて抜け落ちる『鞘走り』という不覚は取らないだろう。


「あやつが使っておった菖蒲の鐔、よかった喃」

「あれは刀匠鐔だ」とお藤。

「刀匠鐔。――」

「刀を作ったとき鉄が余ることがある。あの村正をつくったときに余ったやつで、親父どのが作った」

「そうか。意匠の真意、抜けば斬るまで納まらぬ。必殺の迫力は湯村の意地であったか」

「おなじことをおじさんも言ってた」

「俺もあいつも同い年くらいなのに、なぜに分かれるんだ」

「身なりでしょうかねえ」

「筧屋。――」


 打ち損じか。

 と、宗章は小屋の裏に突き立てられた古き鉄の墓標を思い出す。お藤を連れ出す前、彼女が手を合わせていた姿を見ている。古の鉄は、柴田の家臣たちの墓標がわりなのだ。

 かような天才、大天才親子が揃ってもなお、あれだけの数、いや形にすらならなかったものも含めれば膨大な量の試行錯誤と例しの果てで完成させたのだ。なんたる執念か。


「こっちは、すごいな。初代兼定の偽物とは言っても、ニセモノというより、作り手が兼定とは自分の目にこう映っているんだと言わんばかりの思いが反映されている。ふふ、親父どのもよくこうして愛が入ると自重してた。――愛か。偽物を作るうえでは邪魔だけど、そうか、自分を入れるとはこういうことなのか」


(宗矩のやつ、そんなに兼定好きだったのか)


 ふと面白くなって宗章は笑う。

 あのカタブツが、そんなにねぇ、と。口角がほころぶ。


「うん、こっちは丈夫も丈夫、真物よりも鉄のねばりがある。自分が好きなものを使うならという理想が籠もってるな。これを打ったのは武人かも。どうなんだおっちゃん」

「あたりだ。俺の弟が打った。いまはちゃんと仕え働きしていてるよ」

「おっちゃんよりよっぽど世の役に立ってる人なんだろうね」

「筧屋、なんとかいってやってくれ。――」

「お着替えを用意しておきましょう。すこし中座いたします」


 逃げられた。

 そして、脇差しも形になり、腹も膨れ、お藤の着替えも済ませた。笠と道中羽織なども用意し、湯でさっぱりとしたのち、お藤は火鉢の側で横になっていた。

 宗章も箪笥に背を預けるように刀を抱え座り寝る。

 疲れが出た様子だった。


 時刻は、日付を跨ごうとしてる。

 筧屋も別棟の本宅で休んでいる頃合いだ。

 行灯も落とされ、暗闇には火鉢の炭が燃える赤がうっすらと。その中で、ふたつの目がスゥっと開かれる。柳生宗章である。


「尻の穴を増やされたらたまらん。外に出る。――」


 彼は床下へ静にそう呟き、音も立てずに立ち上がる。板の軋み音すらしない。滑るような体移動で、心張り棒を外し、戸を開ける。

 極黒の帳であった。

 月もなく、星もなく、闇夜には網膜に奔る血潮が描く濃緑の斑のみ写りゆく。かすかに目を慣らすと、霧が出ていることに気が付く。


(霧。この陽気にしては濃い)


 濃霧である。あと二歩も往けば、背後の戸すら見えぬであろう。尋常ならざる霧である。じんわりと水気が肌にまとわりつく。


「ヨモギバライか」

「如何にも」

「床下から突き刺すのは忍者の十八番よな。で、どこにいる」

「忍法『霧隠きりがくれ』。堂々と不意打ちいたす所存」


 ふふ、と笑う。


「柳生宗章、お相手仕る。――」


 螺鈿の鞘から鈍色の刃が伸び抜かれる。鯉口を切り、刀身が目覚めた後、完全に無音の抜刀であった。ゆっくりとゆっくりと、正中線を斜に沿うようほぼ真上へと抜かれていく。刀身の三割も抜かれていない。

 ゆっくりと抜く。

 まだ四割。

 半ばまで抜く。

 ぴたりと止まる。


 誘いである。


 霧が揺れる前に、宗章はスゥっと右足を退く。そこに、チリっとした音とともに針が落ちる。無音吹き矢の毒だ。吹き矢の射出音も、宗章が退いた足も、無音である。


(闇夜になお霧、住民の被害を考えてか毒は含んでおらんようだが)


 柄をやや返す。

 ハバキで針をはじき返す。

 射線が違う。位置は掴めない。

 水気は音を分厚く遮っている。手練れが乗じれば、宗章とて遅れを取るは必定である。現に、いままさに宗章は狙いを絞らせるために背後の戸へと後退り始め――。


(しまった)とは宗章の呻きである。

(しめた)とはヨモギバライの煌めきである。


 ビッ――。

 垂直に抜いた刀刃が斬り上げられる。

 ヨモギバライは室内にいたのだ。背後から宗章の首筋に矢を吹きかけるが、振り向きざまの抜き撃ちが忍者の針を仰ぎ逸らす。

 音もなく床下に戻るヨモギバライは去り際に三度矢を吹きかけ、宗章は大きくこれを躱すほかはなかった。

 追うため入り込むことはなかった。足下に、菱が撒かれている。毒が塗られているだろうか。考えてしまったらもう術中である。


 これで、室内に逃げ込むことができなくなった。

 宗章は呼吸を整え、対応に身を備え――。


(いかん)


 呼吸を止める。

 霧自体に、やはり薬剤が混ぜられていたのだ。

 眠りの毒である。


(これだから忍者の相手は。――)


 息を止め、太刀を担ぐ。

 時間はない。

 霧の発生源を潰し、ヨモギバライを斬らねばならない。

 闇と濃霧の中、宗章は前へと出る。

 魚沼の南町に、ふたりの静かな戦いが始まったのである。



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