第18話『活殺自在剣』

 囲炉裏の火、その灯りが戸口から漏れている。

 ふたりの光源は、その灯り。そして、月と星のか細い反射。静かであった。今しがたまで苦悶の呻きを上げていた真田の兵たちも、意識を取り戻した者も含め、じっと、ふたりの剣士を固唾を呑み見据えている。


「上杉家馬周り衆、真田源治郎げんじろう信繁」

「柳生新陰流、柳生五郎右衛門ごろうえもん宗章」


 ――参る。


 ともに、八双。宗章は垂直に、信繁はやや担ぐように後ろに流したきっさき。柄頭を握る左手の位置、宗章は右の胸付近であるが対する信繁の左手は胸の中央下、水月の上あたりまで下がっている。偽物ぎぶつ村正、その柄が長い故である。


 相手の動きを殺して仕留める殺人剣の信繁。

 相手の動きを活して仕留める活人剣の宗章。


 動きを殺す先手の信繁は、鋒を己が後ろに寝かせている。が、柄頭は胸の前であり、左手をそのまま前に出せば体を正対するにあたり鋒と右手がそれに追いついていく。すなわち、遠いが、速い。

 動きを活す後手の宗章は、垂直に立てた鋒を、相手に吸い寄せられるかのように最短距離で撃つ。こちらも相手に正対する瞬間に両の手が体移動にひと拍子で追縋っていく。すなわち、近く速い。


 武術に、ふたつの在り。

 距離の早さと、動きの速さである。

 鋒だけではない。相手との間合いを詰める体移動、全身の連動、その総てが関わってくるのはもちろんのこと、もっとも大事なのは――。


(動きの『起こり』がないな)


 起こりとは、動き始める肉体含む万物の兆候である。動き始めから、実際に意識した動きまで肉体が反応するまでの。それらの総てを合戦で用いることは難しいのは言うを待たないが、現在は、一騎打ちの作法、果たし合いによる武士の倣いである。

 邪魔は入らぬうえに、互いに遠慮することもない。


 お藤も、呼吸すら邪魔になると思ったのか、口を手で覆いながら浅く息をするよう引き込み、顔だけを覗かせて邪魔にならぬよう控えている。


 短躯である酒樽が、まるで巌のように感じる。羽織を脱いだこの男の体が、まるで山のように迫ってくる錯覚。事実、目を奪われんとする兆候だろう。宗章は叩きつけられる殺気を呼吸で相殺し、ゆっくりと遠山の目付で脱力する。

 草臥れた姿が、鋼の如く。信繁も殺すべき相手の技が見えなかった。押し勝つ剣が繰り出せぬまま、自分が討たれるという幻覚を見る。叩きつけた殺気が自分に跳ね返っている証拠であり、負けじと下腹に気合いを込めて脱力する。


 そして、お互いの構えが変わる。

 信繁が、大上段に。右半身を引き、大きく腰を落とし、総て地盤まで斬割するような大上段。あの刀刃は刃筋ゆくてに何があろうとも地面を裂くまで止まらぬだろう。


「けっきょく考えるだけ無駄だと思うてな」

「俺もさ」


 宗章は、八双から、ス――と胸元に柄頭を持ってくると、正対し、祈り拝むように口元へ鐔をよせ、鋒を垂直に立てる。柔らかく柄を持つ手、仏のような眼差しと、水月のような心胆。眉間を縦に走る兼定の刀身。あれが、体を乗せた重き刀刃が、体移動と腕を前に伸ばすだけという最速最短の動きで――どこかを斬るだろう。

 それがどこかは分からない。


 ここまでの判断を、この柳生の剣は行う。そして強いてくる。戦場に於いて術を行使できうる、そんな遣い手を生み出すのが剣術――武術なのだろう。芸という表向きの動きに囚われ、術の恐ろしさにあらためて息を呑む。

 そして隙だらけな信繁の構えも、じつにこちらの撃ちを誘う。宗章が踏み込めば、あの遠い刀刃――いかに威力が高くとも先に首を貫けよう。……と、錯覚させる誘いに満ちている。


 ともに、活殺自在。

 言ったように、考えるだけ無駄なのだ。

 達人同士の戦いは、故に、即座一瞬で勝敗が決する。


 宗章のぶしげが先に間合いを詰めた。

 信繁むねあきがそれに呼応して鋒を揺らす。


 刀刃の隙間より隙を曝す誘いを互いに仕掛けあい、踏み込めば当たる一足一刀の間合いへと突入しかけたとき――。


「えい」


 大上段からの、左手片手撃ち。完全に半身となって伸び来るその刀刃は、宗章の間合の遙か遠くより迅雷の如く振り落とされた。


「えいやあ」


 裂帛の気合い同士が重なった。

 宗章の拝み撃ちが降り来る村正の右を滑り抜ける。

 前に出ることは出来なかった。左足を大きく右後ろへ退いて躱し撃つほかなかった。察知困難なと、恐るべし刀勢であった。

 拝み撃ちは信繁の篭手を浅く断ち割り、前腕を傷つける。

 片手撃ちは宗章が立てた太刀の鞘を砕き割り――しかし地面には達さなかった。


 躱された時点で、信繁は体を止めたのだ。惰性で流れぬ鋒は、すなわち正しく体で運刀している証左であり――。


(やはり真田信繁)


 止まらぬ酒樽の体当たりで宗章が弾かれる。息が詰まった。重心から近い肩の当たりは重い。相手の腰が浮いたら、何も出来ぬ。信繁はただ剣を振り上げれば宗章を殺せるだろう。

 腰が浮いていれば。


(これが柳生宗章)


 左右均等に体重を乗せ運刀する宗章は、弾かれこそしたが、崩れてはいなかった。巨岩のような重みを信繁は感じたことであろう。思うほどその距離は離れてはいなかった。

 肉薄である。

 漆膠の間合いであった。

 信繁が肘を見舞う。宗章が首を折りに迫る。その手首を右手で決め返そうと体を繰り出す。柄頭で顔面を砕きにかかる。跳ね上げ、腕の隙間から顎をかち上げんと互いに掌底を見舞いあう。


 そしてついに、互いの右手刀刃が互いの頸動脈に押しつけられんとするを、左手で押さえる体制へと移行する。


 呼吸は――静かであった。

 このお互いの手が触れ合っている間合い、先に動き殺しにかかるも、あとに動き隙を活かすも、文字通り手に取るように分かる。それほどの剣境にいる。

 抑える力こそ、力み。不要であった。腕をつかみ合うこともしていない。掴むという行為は、己が手首関節をめる寸前まで力ませるからだ。

 ただただ、相手の右手が迫る経路に置くだけであり、互いに脱力する。


 ふたりはもはや相手を見てはいなかった。

 頭突きが来るか、肘が来るか、膝が来るか、肩での体当たりが来るか、引いての撃ちが来るか、はたまた――。


 瞬間、信繁が仕掛けた。短躯酒樽の膂力が勝った。

 刀刃がじわじわと頸動脈へと迫る中、宗章は相手の腕が伸びきった寸前のタイミングで自分の刀を捨てた。同時に、相手の内懐へと入っていた。

 信繁の右腕を左手で巻き絡め、その小指を内上側に向けさせるよう捻ると同時に脇を締めてこれを極め上げ、体を落として酒樽を引き倒した。


「ぬぅッ。――」

「お覚悟」


 宗章は脇差しを抜き放つ。


「ああッ。――」


 家臣らの呻き。誰しもが信繁の首が取られると思った。

 瞬間、宗章の脇差しが煌めき、すぽーんと――あらぬ方へと飛んで行ってしまう。戸口まで飛んだ脇差しが、乾いた音を立てて土にまみれた。


「すまん、すっぽ抜けたわ」


 布で巻いてあっただけのナカゴが、勢い余って抜けたのだ。

 宗章は村正を取り上げると、信繁の鞘に戻し、兼定を拾って――戻すべき鞘が壊れていたので困った顔をする。


「殺さぬのか」

「殺さぬと思うかね」

「殺すべきだろうよ」

「ほんとなら、そうだろうなァ」


 ぽりぽりと顎を掻きながら、宗章は戸口に目を向ける。つられ、全員がそこを見た。いや、彼女を見た。

 そこには、兼定の脇差しをもち、その鋒を己の喉に突き刺さんと涙目で震えるお藤の姿が在った。


「お藤」

「やはりあの子がそうか。死んでもらうのは困るし、俺の勝ちでいいだろうか。腕、もう上がらぬだろう」

「折れてはいないが、筋が伸びたか」

「俺の勝ちでいいか」

「泣く子には勝てぬ」

「俺の勝ちでいいんだな」

「勝負は預ける」

「おまえも太い奴だな」

「馬と鞍と銭」

「ほんとに太い奴だな。――」


 宗章は笑う。


店主かたなやにも恩義があるし、まあいいだろう。次は戦場で会おう」

「いうてくれる」


 信繁は立ち上がる。右腕は上がらぬままだが、威風堂々たる姿は微塵も揺らいではいない。

 彼は家臣らに互いを補佐するよう立ち上がらせると、帰還を命じる。


「明日朝には、討手が来よう。追っ手もでるだろう。――お藤、達者でな」

「おじさん。――」


 にっこりと笑うと、信繁は家臣共々、道を下って行く。

 入れ替わりに、馬がやってくる。

 斬った張ったが嫌で下で待っていたのであろう。


 宗章は改めてお藤を見た。


「やっぱり、がきんちょではないか。――」


 お藤が脇座しを投げつけてきたので、笑いながらつかみ取る。


「いくのか、その。と」

「お前。俺はまだ二十歳はたちだ」

「嘘。――」

「鍋が煮こぼれる。ぜんぶ喰ったら行くぞ」


 越後脱出行がこうして幕を開けたのである。



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