刀剣という魔性
第10話『お藤という女』
永禄の変というものがある。
一五六五年に、ときの将軍である足利義輝が暗殺された事件だ。このとき足利将軍家が所有していた刀剣の中にも粟田口吉光、通称『藤四郎』の短物があったという。『
平安鎌倉の世を経て、武士の褒美は邦から名物へと変わった。当時ちからを落としていたとはいえ、足利将軍家が刀剣名物を恐ろしいまでに揃えていたのが証左であり、権力よりも名物ほしさに暗殺されたのが現状である。それほどまでに刀剣、茶器などは力を持っていたのは言うを待たない。
薬研藤四郎は短刀である。藤四郎の太刀は『一期一振』ただひとつ。しかし、豊臣秀吉が日の本随一として愛するひとふりに『鯰尾藤四郎』というものがある。現状は脇差しほどの短物であるが、もともとは薙刀であり、それを擦り上げて短物にしてあるのだ。
これがまた恐ろしいできばえであり、今は天の御櫃に収まっている。
秀吉は織田信雄から『鯰尾藤四郎』を。
そして将軍足利義昭、のち毛利輝元から『一期一振』を。
しかし『薬研藤四郎』ばかりは焼身すら見つけられなかったという。
執着というものは歳を重ねるごとに、権力を持つほどに強くなる。
秀吉の心胆奥深い淀みに、この藤四郎への、とりわけ薬研藤四郎への渇望が溶岩となって吹き出しかけているのを知る者は少なくはないだろう。
室町幕府が倒れた一五七三年。
湯村にお藤が生まれたのはちょうどその時分であった。
その父である五太郎が柴田膝下で腕を振るっていたのはこのときであり、献上した『鬼の爪』は長く勝家の腰間に収まっていくことになる。
漆手衆がひとり隻眼鬼の相棒が忘れ形見である佐助を引き取ったのも、五太郎であった。佐助が兄、お藤が妹である。
十年も経つと、この忍びの隠里も湯村も転機を迎えることにある。
柴田の滅亡であった。
「秀吉許すまじ」
復讐に取り憑かれた漆手衆・湯村一党は、みっつの誓いを立てた。
ひとつ、秀吉が愛す藤四郎での政変。
ひとつ、鬼の爪で
ひとつ、接収されし柴田が名物の解放。
藤四郎を用いた政変。
足利義昭の時代、若かった五太郎は幸運にも将軍お抱えの刀工であり研ぎ師である
一期一振。
その刀身を。その総てを。
五太郎は目が良かった。写し取りは天下一品であっただろう。
世に名高い押型――刃紋などを中心に紙に移し描いたもの――の職人、酒匂忠信が晩年に編纂した『
愛する物での崩壊を味わわすは湯村の意地であると誓った。
押型を起こし、それを魂に焼き付けながら鉄と時代の再生再現に総てを賭けていた。それを間近で見ていたのがお藤である。
「お父、その盛り方だとこの前と違う」
ふと、刃紋を形作る土盛りの精密緻機な作業の最中、お藤が鍛冶場の五太郎に声を掛けてきた。通常なら叱るところだが、しかし、五太郎も天賦の才を持つ男であった。そしてその言葉の意味を即座に理解した。
「わかるのか」
「わかる」
「厚いか」
「厚くはないけど、のびる」
「む。――」
正しく理解していた。
お藤にもまた、天賦の異才があったのだ。
それを理解するまでに、さらに一年。正しく引き出すのに、もう二年かかった。
「お藤は――見たもの、味わったもの、感じたものの
「お
いままさにあの偽物、いや、真偽物である『一期一振』の研ぎが終わったときである。佐助にそう伝えた五太郎は嬉しそうに笑っていた。
「湯村の意地は、お藤に任せる。儂はこれを聚楽第に忍ばせに乗り込む」
「死ぬおつもりか」
「手はずは、弥介と吾兵にととのえてもらう。半人前であれ、この儂も漆手衆だからな。真田さまもお膳立てはするだろう。なにせ大殿の意向だからな」
「いや、ならば俺が」
「佐助は漆手衆の意地があろう」
「ぐぬ。――」
「お藤を頼む。あやつは魔性の才を持つ。力ある者が守らねば」
五太郎が聚楽第に赴くのは翌々日である。
刀蔵で柳生宗章と闘い誅殺されるひと月前の話である。
そして今、その柳生宗章は佐助らの手によって討たれた――という一報がもたらされていた。
「終わったぞ」
そういって山小屋に戻ってきた佐助に、お藤がつまらなさそうに「そっか」と返したとき、研ぎの真っ最中であった。
姿も、刃長も、観ずとも分かる。仕上がれば、りっぱな『一期一振』となるだろう。素っ気のなさは集中のしるしだ。
打ち上げという、研ぎに入る前の刀身を作り上げるまで、約十余日。そこから同じほどの時間を掛けて研ぎを済ませるのだ。
「炭は仕事場に運んだ。研ぎが終わったら帰れよ」
「もっと打てというのか」
「お義父どのの意地を継ぐのだろう」
「あと八振りは」
仕上がった、この世にふたつめの研ぎ終わった『一期一振』――その偽物が白木の鞘に納められた状態で転がっている。鞘が仕上がり納められてきたばかりだろう。佐助はこれを受け取りに来たのだ。
「柳生の隠密は討った。仇も取った」
「うん」
そのときばかりは一瞬手が止まった。だがすぐに動き始める。
丸まった背中ごしに、ぴちゃりという水音。刀刃と砥石に水を掛ける音。すぐに研磨の音が。
「佐助、行灯に火を入れて。今手が離せん」
「うむ」
佐助が三和土から手を伸ばし、行灯に熾火から火を移す。温かい灯りが薄黄昏の差し込む小屋に広がる。
そのままあらたな偽物を手に小屋を出、佐助は裏手へと回る。
「墓標が増えたな」
長い影が、幾本も幾本も、幾本も幾本も伸びている。
討ち損じた刀身が、墓標のように切っ先を埋め突き立っていた。
錆に錆び付き、到底武器として使用できぬ鉄板の骸である。
二百はあるだろうか。
あの日の誓いより、五太郎が打ち損じたもの。
そして、彼とお藤が打ち損じたものの墓標である。
天才といえども、あの一振りの完成までにこれだけの失敗を重ねてきたのだという重みを感じずにはいられない。
「あの日のものか」
いちばん新しい錆び身に目を落とす。
この一振りを境に、お藤の天才が完成したのだ。
今までどうしても足りなかった迫力が、お藤の肉体が正しく大人へと変生した日、純然たる結果として表れたときのものだ。
「お藤」
お藤は女の体になった自分を客観的に「これで整った」と受け入れ、己が血を焼き入れの水に差し入れるようになった。
製鉄にも血を用いた様子があった。
そうして出来上がったのが、今は聚楽第に遺されたあれである。
(忍者は機構だ。だが、お藤はなんなのだ。――)
白鞘を握る。
意地とは。誓いとは。
佐助は鬼の爪の柄をそっと撫でる。柴田の殿が腹を召したときのものだ。五太郎から受け継いだ鬼の無念だ。
「佐助」
「どうした」
漆手衆のひとりが山間から降りてくる獣道から姿を現すと、佐助に「新手だ」と告げ、姿を消す。城下へ向かったのだ。
「よし、向かう。先にゆくぞ」
すでに消えた仲間へ告げると、佐助は谷間へと身を躍らせる。
「きえい」
気合いとともに、鉤縄を繰る。
――猿飛破れたり。
いつまでも残る一言を振り払うように、片手で飛び交いながら、左手の白鞘を握りしめる。
(俺は、なんなのだ。――)
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