第8話『湯沢の猿』

 未明。

 魚野川の西を北上する騎馬があった。

 使い古された深編み笠が夜半から降っていた雨と夜露を滴らせている。軽く見上げると、白んだ空には薄墨の腺がホトホトと。小雨はまだ降り続いているようだ。つまらなそうな馬の顔が上下しながらの並足。騎乗者の背筋はゆるく、やわらかく、そしてしなやかに伸びたまま揺れてはいなかった。体のバネとねばりが揺れを吸収しているのである。

 腰には兼定、脇差しも兼定――の偽物。

 柳生宗章である。


(煙る臭い)


 鼻に感じるのは朝餉の焚き付けか、秋雨の重い空気の中を漂うその臭いにふと川向こうの山並みに目を向ける。中里に入れば、難所湯沢はすぐであった。木々を切り出し流し送る者たちの生活はもう始まっていると思われる。


「道中、何人の刺客が襲い来るか分からぬ」


 そう言い置いたのは信繁であり、忠告に「そうであろうな」と面白そうに返したのは彼のほうだった。しかし、常に命を狙われる敵地においてこうも悠々と馬の背に揺られている心胆の太さはどこから来るのか。

 そんな彼に馬を与えたのも信繁であった。

 戦国の馬は貴重である。駒場のなかでも若くとりわけ気性荒く手を焼いていたものを貸し与えられていた。乗りこなせれば善し、さもなければ手放したところを回収できる。そのくらいに思っていたら、文字通り馬が合ったのかものの半刻で乗りこなしていたのには宗章自身びっくりだった。


「ついでに鞍と銭をくれんか」


 厚かましくお願いしたら信繁は「貸しだぞ」と使い古された鞍と、およそたっぷりの銭を持たせてくれた。


か」

「……。、だ。おこがましい」


 脱力した酒樽にひと晩の世話の礼をいい、出発したのだ。

 そして翌日今の魚野川北上である。上流はやや西からで、このまま沿って行けば湯沢越え、中越の進入口となる。


 日が昇るにつれて道並みが整ってくるのに気が付いた。蹄のぽくぽくという音が湿って聞こえてくる。水はけはよさそうだが、そこかしこはまだまだ泥濘ぬかるみだ。

 どこかで馬を休ませねばなるまい。

 宗章は起きていそうな民家の近くへとやってくると、下馬し、手綱を引いて歩き始める。途中、川辺へ降りて陽射しの温かみを受けた川の水で馬共々喉を潤し、荷物から干した米を傘の内に仕込んだ鉄鉢に入れ、水を注いで潤化うるかせる。


 ごろりとした岩に腰を下ろし、東の山並みを遠く眺めながら休憩と決め込む。水気を吸った米と干した小魚をたっぷりと食べていると、ふと周囲の音に遮りが出る。人の気配だ。


「お武家さま、こんなところでどうされました」

「百姓に化けるなら、泥濘を水も跳ねずに歩くのはやめておけ」

「む。――」


 若い男だった。

 声を掛けてきた気軽い雰囲気とは打って変わり、充分な間合いのまま腰裏にさした鎌に手を掛けようと身構える。

 見もせずに言い当てた男、柳生宗章の素性を知る刺客であろう。


「仕掛けてくるなら相手をするが。――」


 気付くべきだった。

 腰を下ろしてはいるが、肉体の軸である正中は頭頂から肛門までびしりと垂直。緩く開いた股関節を引き締めずとも、そのままスっと立ち上がれる足取り。


(誘われたか)


 百姓に化けた漆手衆の中年はほっかむりを外しながら緩く構え直す。仕掛ける心積は霧散している。敵意はないが、逃走遁走のための身構えだった。それは宗章にも分かった。

 彼は振り向きながら、忍者に「真田信繁の言葉を伝える」と静かに呟く。小さい声だが、川の風に乗って忍者の耳に響く。


「天下を揺らすは戦国の倣い、敵を殺すは戦場の倣い。忍者の倣いは主命遂行、そしてこの者――俺のことだな――この者の倣いは柳生の意地。他意なく存分に仕るよう」

「柳生の意地とは」

「仁と義と勇。そのみっつの厳めだ」


 宗章はもぐもぐと米を咀嚼し飲み込む。


「俺は俺で、大恩ある若君の願いを叶えたい。幼子を守るのは人としての仁、助けられ結んだ縁を大事にする義。あとは――」


 兼定の、偽物のほうの柄をぽんと叩く。


「やれることに臆さず飛び込む勇、だ」

「馬が飲まねば、毒を流しておったわ。――」

「知ってるよ」


 その風体に、佐助ではないなと、宗章は思う。

 漆手衆の総数は分からぬが、柴田勝家時代から連綿と続くのなら、だいぶ数は減っていよう。真田が保護しているのがその証左と観ている。精強であっても数こそ総てが情報戦国の掟である。武闘に偏った一派は武家の庇護で生き延びるほかはない。後代に続かないからだ。


おって三十人)


 良い塩梅の推察だが、単純に三十斬れば良い問題ではないだろう。この忍者の振る舞いは達者のそれだ。武術と忍術の混合を臭わせるものだ。即ち強敵である。


「隻眼鬼の忍法の痕跡を消したのはあんたかな」

「うむ」


 あのあと立ち寄った竹林には、鏡もなければ仕掛け槍の痕跡もなかった。ただただ、髪の一房を切り取られた裸男の死体があっただけだった。


「儂はだまし討ちしか出来ぬ男でな」


 忍者が語る中、そんなタマじゃなかろうと宗章は思う。


「こうもばれてしまっては為す術もない」

「逃げるかね」

「逃げようと思う」

「逃がすと思うかね」

「逃がさんだろうね」


 しかし宗章は「なら追わん」と腰掛け直しながら飯の続きと行く。


「逃がすのかね、儂を」

「真田が馬に気を遣ううちは相手にならん。漆手衆は忍者だろう」

「馬を盾にしてよくのたまうわ」


 この男なら、彼我の間合いを詰め斬り結びに来られる手練れなのは勘で分かる。遁走するなら術こそあるが、情報を持ち帰るにしても片腕を犠牲にしなければならないだろうということも理解できる実力差だ。


「隻眼鬼はいってたよ。忍術で立ち合ってくれと。山間の竹林で堂々たる術比べをした。それで、遺恨はなしになった、と思う。それでもやらねばならぬ意地なら、もっと術を凝らして。そうでなければ。――」

「そうでなければ」

「面白くない」

「柳生の病か」


 これには、忍者も笑う。

 要は、この会話で狙いやすいところで狙え、と、不意打ちを励行することでかえって狙い所を考えねばならなくなった。話の兵法だが、そこに宗章の赤心が充分に混ざっているために、裏で生きる忍者には返って聞き逃せぬものになってしまう。


(試せるのか、我が術が)


 これは、術を修めるものの病だった。

 使えるものを使わぬままでいいのかという、病。


「柳生宗章」

「なんだ」

「山の脅威である隻眼とはちがい、儂は草根の忍者故、名はもたぬ。だがヨモギバライと呼ばれることがある」


 忍びが名を告げるのは必殺の決意である。

 武術家であれば左封じの果たし状である。


「我ら、貴殿には越後は越えさせぬ」

「馬には遠慮なさらぬよう」


 これには水を飲んでいた馬の方が文句をいいたそうないななきで応える。

 その響きが消える前に、忍者の――ヨモギバライの気配は消えている。

 やはり手練れである。


「さて、こちらもそろそろ行くか。と、おい、機嫌を直せ、お前に構うなといったが、これ、武馬であればおまえも覚悟を決めろ、噛むな。――」


 その騒ぎに、百姓小屋から本物の住人が顔を出し、訝しそうに戸を閉める。馬に髪を噛まれた武士なぞ、観て面白がって斬られたら叶わないと思うのは、当然のことだった。





 空気の乾きが、強くなってきた。

 正午を回る頃には湯沢の渓谷に差し掛かる。ここで敢えて宗章は馬首をやや東に向けた。拓けにくい川沿いを北上しようという心だった。

 柳生新陰流は負けぬ為の剣であるとは、父である宗厳の言葉だ。その実は、相手の動きを活かし術を対応させ技を放つ活人剣。後の先の必殺剣である。剣術者は誘いに長ける表れであると、言外に滲ませている。

 武術家、兵法者とは、そういうものだった。


 木々に赤松が混じり始める。

 杉の林立する道沿いを進むにつれ、騎馬が往来できるほどの峠道へと出る。西側の道が利便があるため往来はほぼ皆無である。川辺に近いところは材木師たちの仕事用だろう。春夏に切り出した後の乾燥期にあたるこの秋に、職人たちの往来がないのも当然であった。

 それでも炭焼きたちの仕事こそこれからが本番なのであろう、川向こうや遠い山間には薄い灰色が淀んでいる。炭焼き小屋であろうか。


(左手は腐葉枯れ木のうず積もる林、右手は川辺へ落ちる段……というには崖に近ぉなってきた)


 その崖際にも藪雑木の類いが叢々と茂っている。知らず足を乗せれば滑落は免れない。

 死地だな。

 そう感じる。

 さて、何が仕掛けてくるか。

 そう脳裏に思った瞬間である。

 宗章は、木々間から聞こえた音に――猿の声のようなものに気を取られた。


(頭上!)


 そう思う前に馬上から身を翻していた。中空で兼定を抜刀しざま、飛来した棒手裏剣を斬り流し、着地際、足を狙い投げつけられた青竹竿を寸で躱す。着地した次の瞬間には脇差しを抜き放ち二刀流の構えであった。


「きぇい」


 猿の声。

 しかし音の流れが長く速い。

 鍵縄を駆使した佐助が東西の立木を飛び交いながら、隠してあった青竹を道に盛大に撒き落とした。

 これでは、馬では進めぬ。足下も不如意となる。

 しかし相手は木立を飛び交う謎の忍者ときた。

 視認すらなかなかさせぬ手練れであったが、気配は掴んでいる。

 と、思っていた。


「きぇい」

「うヌ。――」


 頭上に気を取られて居るであろう宗章の背後から、剛脇差しが突き込まれる。それを刀で流すには遅すぎると、宗章は入り身に躱して背中で体当たる。

 邂逅。

 肩越しに宗章と佐助の視線が火花を散らす。

 振り向きざまに脇差しを振るい、逃がすまいと肉薄しようとするが、括った鍵縄と木の反動を利用した佐助の体はあろうことか直上へと飛び離れる。


「柳生宗章だな」

 その腕を、兼定を観て樹上から声。

「佐助だな」

 剛脇差し、『鬼の爪』を観ての声。


「死んで貰うぞ。破れるか、我が忍法『猿飛さるとび』を」

「お相手仕る」


 さて、どうしたもんかな。

 宗章は息を呑む。

 相手は届くが、こちらの剣は届かない。

 間合いの劣勢、どう覆すか柳生新陰流。


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