第24話 苦労

 過去にない心身の不調は、どういう種類の苦痛なのかわからない。


 うつ伏せになっているから体の前面が痛い。腕に顎を乗せるからそこも痛い。

 気絶からの強制的な休息が続くと時間の感覚が曖昧になり、五感が鈍くなる。


 気配を察知しなくてはならない。この気配というものが何かを説明することはまだできないが、ともかくそれをしなくては、俺はずっと全身が痛いままだ。


 なんとなく太陽が昇ったと思うと、ぼんやりしているうちに暗くなっている。目だけを周囲に向け、動体を探す。それでも木々や草花が揺れるだけである。


 水も何も口にしていない。干からびる寸前、雨が降った。わずかに数分の通り雨だったが、我慢できずに仰向けになって浴びた。


 生き返ったとも思わない。思考もままならずまたうつ伏せになりじっとしていると、ぬかるみに跳ねる何かがいる。


 茶色の体毛と長い耳。小さなその体で草を食み、そのまま何処かへ行ってしまった。


 逃したとも思わない。しかし、その逃げた先に、空間があるのだとわかった。


 いわゆる獣道だ。ほんの五メートルほどの位置にあるのに、今までまったく気がつかなかった。這って移動し、体を強引に茂みに押し込んでも足がはみ出るが、それでもいい。ともかくここにいれば、手の届く距離に動物がきてもおかしくないのだから。


 とはいえそれほど甘くはない。俺が獣道に伏せてから口にしたものといえば、雨水と寝返りの際についた泥だけである。睡眠の回数と時間が増え、朦朧としていたのか、蛇が俺の腕を通り道にしてもどういう心境の変化もなかった。


 このままでは、死ぬ。ガーデンの異常性によってではなく、飢えで死ぬ。思うと泣けてきて、それが口まで伝ってくると無意識で舐めとっていた。一人きりなのにどこか惨めで、それと同量の羞恥がまた涙を呼んだ。

 家族とか友人とか、学校生活とか。輝かしく記憶にあったそれらは自然の前にはか細い光に過ぎず、体はおろか心すらも暖めてはくれない。

 しかしどれだけ小さくとも、この惨めさに慰めを求めるとすればそこにしかなく、必死になって思い出を掘り起こした。それがまた胸を締め付けるような苦痛を伴う作業だったが、また一羽のウサギが現れると煙のように苦しみはたち消え、ぱっと手を伸ばしていた。


 無論、小さくとも動物は野生そのものといってよく、すばしっこく地を蹴っていなくなってしまった。

 だが俺が手を伸ばした瞬間にではない。その手が毛に触れようかという時である。


 ならばやりようはあるだろう。もはや気配がどうとか言っていられない、もしここに居続ければ、俺はこの耐えがたい苦痛を終わらせるために、不老不死を捨てるかもしれないのだから。


 あらかじめ手を伸ばせるような格好で静止していればいい。それだけのことじゃないか。

 ただ、やってみてわかったが、腕を、まるで墓地から現れるゾンビのような形で宙に浮かせていると、すぐに筋肉の疲労が痛みをもたらす。だけどそれすらどうでもよくなっている。頭に渦巻くのは黒辻の料理とか、家族との会話とか、ぶっ飛ばされ続けた講義のこととかで、これはウサギが現れるまでの繋ぎといえた。


 自分が呼吸をしているのかどうかを確認しなければならなくなった霧深い早朝に、仔ウサギがヒョコヒョコと出歩いていた。どういうわけか、そいつは俺の方にやってくると幻視し、左足にこの指がかかり、手の内に収まると直感的に理解した。


 それらは現実のものになった。感動はなく、逃げられないよう足を挫き、獣道に置いた。もう一羽、これが親だろうか、周囲への警戒もおざなりで、子と同じ現象が起きた。


 締め方なんてわからない。石で頭を叩き、二羽まとめて蔦で結び街へ向かった。歩くことをしばらくしていなかったのでやけに遠く感じた。


 集合場所は酒場になっているが、どうも道が広くなっている気がした。実際は、道をあけてもらっていたのだ。悲鳴を上げて俺とすれ違うのを拒んだ人がいたので、この身なりのせいかもしれない。泥だらけでウサギを持ち、幽鬼のような足取りではそれも仕方がない。


 松山さんは俺を見て、戦闘態勢をとった。しかしすぐに何事かを喚いて迎え入れてくれた。


 そこで意識が途切れた。彼女の胸に倒れ込み、酒場は騒然となったようだが、そんなこと知るか、文句があるなら、駄目だ言わないでくれ、さすがに堪える。

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