祭りのあと⑥

 少し長く話過ぎたな、と樹は小休止を挟む事にした。

 二人は雑談をした。どうってことのない、どこにでもあるどうでもいい雑談。

 この場に幸雄はいないが、まるで放課後の教室で話をしていたあの頃に戻った気分だった。

 ひと時の空間が過ぎていく。

「あ、そうだ。順序を変えたいんだけどいいか?」

 突然樹が思い出したかのように言いだす。

「順序? 何の事?」

「さっきは幸雄の話をしていただろう? 本当はこの後、オレの話をしようと思ったんだが、オレの話は最後にしようと思う」

「どうして? 別にそんなの決める必要なくない?」

 陽子の言う事はごもっともである。話す順序なんて決める必要はない。

「いや、天野。さっきからずっと気になっていたんだ。何か、打ち明けられない悩みを抱えていないか? そう簡単に相談出来る様な内容じゃない気がする」

 思わず黙ってしまう陽子。自分でも分かるぐらい、表情が暗くなっていく。でも悟られない様に作り笑いであるが、懸命に笑顔を作り、

「そんな事ないよ、何を言ってるのよ」

 と、返す。

 しかし樹の表情は真剣そのものだった。

 何もかも見透かされている様な、そんな気分になる陽子。

「同窓会で天野を見た時、何か変だな、と思った。二十四年経っているから、外見や体格だって若い時に比べたら、変わってしまうのも分かる。だけど天野の場合、根本は変わっていないんだけど、何かが変わった様な気がオレには感じ取れたんだ。それが良い事ならそれでいいんだが、明らかに違う様な変わり方だ。考え過ぎかもしれないとも思った。けれど、こうやって話をしていても、その疑問がぬぐいきれない。何があった?」

 陽子はもう一度、樹の顔を見た。

 真剣な表情の裏に、少し心配そうな表情とも取れるものが隠れている気がした。

 陽子は敢えて突っ込んだ事を聞いてみた。

「もしそうだったとしても、樹は何で分かるの? いや、分かるというかなんでそう思うの? 私は至って普通に接しているつもりなんだけど」

 すると間髪入れずに樹は、

「簡単だよ。だ。笑っているけど目の奥が曇って見える。オレみたいなこういう仕事をしていると、相手が本当の事を言っているのか、嘘を言っているのか、それとも誤魔化しているのか、分かっちまうんだ。一種の職業病かもしれない。だから今の天野は何かを隠している。オレが分かるのはそこまでだ」

 全てを見透かされている。

 陽子はそんな気がして狼狽する。

 なんて答えたらいいのか、全く分からない。

 それと同時に、今の陽子が置かれている状況、中学卒業してからの出来事。

 とても話せる訳がないと思った。

「もしかして、男絡みか?」

 陽子は条件反射で樹の顔を見てしまう。

 これでは「そうです」と、答えている様なものだ。

 陽子は恥ずかしくなり、俯いてしまった。

 その姿を見て、

「まさか当たるとは思わなかった。何か、その、ゴメン」

 と、バツが悪そうに謝罪した。

 陽子は頭を振る。

「いいの、本当の事だから。まさかそこまで当てるなんて思わなかった。樹、凄いね」

 なるべくその場の空気を壊さない様に、陽子は泣きそうなのを耐えて言葉にする。

「それで、何か相手にされたのか?」

 陽子は迷った。

 男絡み、というところまでは当てられた。

 だがその先を話すのは陽子自身に掛かっている。話したくなければ話さなくてもいい選択肢もある。

 けれど事実、陽子の置かれている状況は極めて深刻であり、しかも男である樹には打ち明け難いのは当然であった。

 もし、打ち明けてしまった事で、樹は自分にどういう目を向けてくるのだろう。

 憐れむのか、軽視か、軽蔑か。

 迷う。

 どうしたらいいのか分からない。

 陽子は限界だった。

 すると樹が、

「話したくなければ話さなくていい。失礼な詮索せんさくをしちまったな、悪かったよ」

 と、謝罪をしてきた。

 その言葉を聞いた瞬間に、陽子の心の中で何かが音を立てた。

 それはまるで何かが弾ける様な音だった。

 すると自分の意に反して、勝手に言葉が溢れてきた。

「私、汚れているの。汚されちゃったの。あのケダモノに。有無も言わせず、ただ私はあのケダモノに犯されている。私って、昔からそうなのよね。ダメな女なの。大学の時からずーっとそう。自分が想像していた恋愛観はズレていて、一気に音を立てて崩れていったと当時は思ったなぁ。それからはこう思う様になった。『男って、結局はヤレればいいんだ』って。だからそれに乗っかって好き勝手な事をしたわ」

 樹は黙って、陽子の話に耳を傾ける。

「だけどね、そんな私にも良い人が現れたんだ。大学在学中の年下の後輩でさ。ちょっと冴えないヤツだったけど、社会人になってたまたま再会してね。今までの様な思いをしたくないって思ってね、彼に尽くすだけ尽くした。捨てられたくもないし、ただヤるだけの女にも見られたくないし。だけど、それも簡単に終わっちゃった。『重い』って言われたの。どれだけ男運ないんだろ、私って。そこにきてトドメの、あのケダモノの…あんな玩具の様に弄ばれて……」

 そこまで言い切ると、いつの間にか陽子の瞳から涙が溢れていた。とめどなく溢れてくる。

 表情を一つも変えずに、黙って聞いていた樹。

 樹の心中は後悔が溢れていた。

 何か隠し事、秘め事、他人に言いにくい悩みを持っているだろう、そこまでは予想していた。

 しかし陽子の二十四年は、樹が想像していたものとは違い、それこそ開いてはいけない扉を開いてしまった気がした。

 陽子にそういう一面があったとは思わなかった。俗にいう『尽くしてしまう』という、男からすれば『非常に都合のいい女』にも見えてしまうのもおかしくはない。その辺の落ち度は確かに陽子にあるとは思う。

 だが、『犯されている』と彼女は自分の口で言った。これはおそらく現在進行形であるに違いない。

 しかし樹は、『犯されている』という言葉を言わせてしまった自分に、いきどおりを感じて仕方がない。

 強姦されている女性にとって言い難い事を言わせてしまったのだ。

 そんな自分が許せないと同時に、その『ケダモノ』に例え様のない怒りが生まれた。

 男の力で捻じ伏せて、性の捌け口にする、そんな奴がいる。

 樹の心中で生まれてくる、その怒りは静かにだが、確実にその『ケダモノ』というキーワードに向けられていた。

 樹は彼女、天野陽子という女性の事をよく知っている。

 後輩達の面倒見も良く、同性からも好かれる存在だった。

 バスケで鍛え上げた身体も、アラフォーの体型に見えないほど美しいラインを保っている。

 ベリーショートで第一印象からすると、『男勝り』に見えがちだが、どこにでもいる女性に変わりはない。

 顔の作りだって悪くない。寧ろ可愛げのある美人タイプ。

 だがその面倒見の良い性格が災いして、男達の格好の餌食になってしまったのだろう。

 そして現在。

 それとはまったく異なり、完全に犯罪であり、彼女は被害者である。こういうケースは泣き寝入りしてしまう事も多い。

 だからこそ樹は、はらわたが煮えくり返るほど、怒りが込み上げてくるのだ。

「ここまで…ここまで言ったんだから、何か言ってよぉ…」

 しゃっくり混じりの泣き声。

 相当今の自分が嫌いで仕方がないに違いない。

 樹はソファから立ち上がって、陽子の傍に近づいて背中を向けた。

 一瞬戸惑う陽子。

「今のうちに泣けるだけ泣いとけよ。背中、貸してあげるから」

 樹の精一杯の優しさだった。

 陽子は樹の背中にしがみ付いて声をあげて泣いた。

 これで全てがスッキリする訳ではない。

 だけど今、自分がしてあげられる事はこれしかない。

 樹は、泣きじゃくる陽子に対してそう思った。

 そしてそれとは別に、腹の底から湧き上がる、怒りが樹の心をむしばみ始めていた。

 陽子を陥れた、そのケダモノに対しての怒りだった。

「天野、ひとつ聞いていいか? お前はこれからどうしたいんだ?」

 背中を貸してもらいながら泣きじゃくる陽子は、一頻ひとしきり気が済むまで泣き、しゃっくり混じりの震える声で、

「戻りたい。二十四年前のあの頃みたいに。やり直せるならやり直したい」

 振り絞る様に彼女は答えた。

 樹は陽子に振り返らないまま、彼女の望む『戻りたい』という、切実な想いを叶えてあげようと思った。

「だったらオレに任せろ。オレだったら事を荒立てず、力で捻じ伏せるヤツを断ち切る事が出来るはずだ」

 樹は何かを思いついた様だった。

 そして続けてこう言った。

「自分の初恋相手がそんな目にあっているなんて思いもしなかった。だからオレが天野を自由にしてやる。そういう女を食い物みたいにするヤツは許せないからな」

 背中を向けているから、樹の表情は見えない。

 だがきっと、柄にもない事を言っているから、ひょっとしたら樹は顔を赤くしているに違いない、と陽子は少し微笑んだ。

 そして今更だが、背中を貸してもらっていた時に、何だか樹の事がとても愛おしく思えた自分に気付いてしまった。

 年齢なんて関係ない。

 今更ながらの一目惚れ、であった。

 樹の優しさ、今までの付き合ってきた男達とは段違いだった。

 そして優しさだけじゃない。その彼の発する言葉の凄み、重みを感じた。それはお世辞でも何でもない、陽子の心の奥から湧き起こる正直な気持ちだった。

 二十四年目にして、樹の良さに気付いた陽子。

「ねぇ、樹。こっち向いて」

 言われるがまま樹は振り返る。

 陽子の顔が少しずつ近づいてくる。

 だが。

 樹は口づけをする寸前に、陽子の唇を手で遮った。

 一瞬、頭が真っ白になる陽子。

 樹は相変わらずの仏頂面。

「そういう行動で、男は天野の事を軽く見ちまうんじゃないか? 時間をかけて相手をちゃんと見定める事も必要だと思うぞ」

 陽子の事を想い、言った発言だったが陽子からみたら信じられない様子だった。

「もしかして、こんな女嫌い? 簡単に男についていってしまう女、さらに強姦される様なけがされた女なんて、もってのほか?」

 陽子は当然の様に言葉にする。

 しかし樹は陽子の目を見て、

「誰もそこまでは言っていない。天野の事を思って言ったんだ」

 淡々と言葉にする樹に対して、陽子はそれは違うと思った。

「樹の事はよく知っている。だから改めて思った。惚れちゃダメ? 積極的になっちゃダメ? よく知っている樹だからしたかった。それじゃ理由にならない?」

 随分と滅茶苦茶な事を言うな、と樹は腕組みをした。

 そしてある事を思い出した。

 天野はもしかして、オレがついこの間、離婚した事を知らないんじゃないか、と。

 同窓会の時に、別に言う必要もないだろうと、自分が離婚した話はしなかった。その場で結婚していた、離婚した事を知っているのは幸雄しかいない。幸雄と陽子が会話をしているのを見て、てっきり幸雄の事だから陽子に伝えているだろう、と勝手に思い込んでいた。

 だからこの感じだと、おそらく天野には樹が元既婚者で離婚した事を知らないはずだ。

 樹は腕組みをしながら固まってしまった。

 結婚をしていた、そして離婚した。

 その理由を聞いた陽子がどんな反応するのか。

 そう思うと、急に樹の心に『恐怖』が芽生えた。

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