祭りのあと⑤
「ひとつ、質問していい?」
陽子は少しだけ続いた沈黙を破り、何気なく樹に聞く。
「何?」
「まだよく私の頭の中が全然まとまっていなくて、正直パニくってるんだけど、本当に素朴な疑問。傍から見ていると樹も幸雄も凄く仲が良いじゃない? それに関しては分かってはいるんだけど、距離感が異常に近い気もするの。他の人が入っていけない距離感っていうか。私はそんなの関係なく空気も読まずに入っていたかもしれないけど。だけど普通だったら、その距離感って中々作る事って難しいと思うの。それってお互いを信用しているから? それとは別に何かあるって事?」
二十四年前から思っていた疑問を樹にぶつけてみる。
樹は少し頭を捻り腕組みをする。
うーん、と言いながら、答えを模索している。
しばらく考え込んで、樹は答える。
「そうだなぁ、正直オレもよう分からん。ただ答えがあるとするならば、あの事がキッカケかもしれない」
「あの事? あの事って何?」
陽子が返すと、再び頭を捻り腕組みをして考え込む。しばらくの沈黙。そして覚悟を決めたかの様に陽子の目を見つめる。
「天野だったら平気か」
意味深い言葉を小声で言ったのを陽子は聞き逃さなかった。
「誰にも言うなよ。言ったところで誰も得しないし、逆にこれから言う事を聞いて他人に言う様だったら天野の人間性を疑う。それぐらいの事をこれから話すけど、その覚悟はあるか?」
かなり
陽子は何も言わずに頷いた。
「いいんだな? 話すぞ?」
「ちょっと待って!」
陽子はペットボトルに手を伸ばし、水を一気に飲み干した。喉がカラカラだった。
今まで知らなかった事実を知って、少し陽子は緊張していた。
少しでも緊張を和らげる為に一度水を飲んで、聞く体制に頭のスイッチを切り替えた。
「ごめん、続けて」
いつの間にかベッドの上で陽子は正座していた。
これから話す事は、固い言葉で言ってしまえば『口外法度』だ。
気持ちを180度切り替えないと、とてもじゃないけれど聞く事は出来ないと陽子は思った。
「最初に出会ったのは図書館だった。それはさっきの話で伝えているよな? 疑問に思わないか? 何でオレもそんな時間に図書館にいるのか」
言われてみればそうだ。陽子は幸雄の話に集中していて気付かなかった。
何で樹も図書館にいたんだろう? だがその疑問も先の話で合点がすぐにいった。
「分かったみたいだな。そうだよ、オレも幸雄も同じだったんだ。『虐待』されていたんだよ。このオレも。ただ幸雄の場合は外的な虐待が多かった。だけどオレは主に心身の虐待が多かった」
「心身? 心も身体もって事?」
樹は頷いた。
「天野は言われた事があるか? テンプレではあるけれど、実の母親に『お前なんて生まれてこなければ良かった』とかさ」
「そんな。言われた事ないよ。家で悪戯して怒られたり、テストの点数が悪かったりとかではあったけど、そんな言葉、両親に言われた事なんてない」
「だろ? それが普通なんだよ。オレと幸雄は普通じゃなかった。アイツは日常的な暴力を、オレの日常は暴力も有りの人格否定、といったところか」
陽子は察した。
この二人の繫がり。
それは不幸な話だが、『虐待』を通して仲良くなった無二の親友。
『虐待』を受けた事がない人間は、おそらく陽子の考えすぎかもしれないが、心の奥深くまで共感は出来ないだろう。
だがそれが同じ境遇同士、しかも未成年の時に知り合っていれば、尚更お互いを必要とするに違いない。だって、他のクラスメイトが普通に見えて、「何故自分だけ」という思いが強かったはず。クラスに馴染もうにも馴染めるはずがない。
そんな時に二人は、きっと運命の出会いを果たしたのだろう。
同じ境遇で、心から分かり合える相手と出会えたのだろう。
しかし先の話の中で、幸雄は苗字が変わっている。母親に引き取られ、生活環境も変わり、日常的な暴力は無くなった。
普通の生活を送れる様になった。
けれど心の傷は深く、簡単に人を信用する事が出来ない。
ここまでは理解出来た。
要は陽子が知っている幸雄は『飾った』幸雄であるという事。心は今でも歪んだままだという事。
対して樹はどうなのだろう。彼も幸雄と同じく自分を偽り、着飾って、本当の自分をさらけ出しているのだろうか。
だがそもそも、『本当の自分』とは何だろう?
『本音と建前』という言葉がある。
本音ばかり言っている人も見た事がない。
かといって嘘ばかり並べている人も見た事がない。
それじゃあ陽子自身は、本当の自分を出せているのだろうか?
答えは簡単だ。
出せていない。
いや、出せる訳がないのだ。
本音だけで生きている人間なんかこの世にいるのだろうか。
いや、おそらくいない。
嘘で塗り固めて生きている人間がいるだろうか。
これも、おそらくいない。
だとすれば『本来の自分』とは一体何なんだろう。
考えが哲学的になっている。答えのない答えを求め始めている。頭がどうにかなってしまいそうだった。
「天野。おい、天野。大丈夫か? ちょっと内容がハード過ぎたか?」
陽子の表情を見て、察したのか心配そうに見つめる樹。
その樹の表情を見て、これが偽りだとは、とても思えない陽子。ちゃんと気遣ってくれている。その声も表情も。これが嘘だとは思えない。
樹はどうなんだろう。
幸雄みたいに歪んだ性格になってしまったのだろうか。
「ねぇ、樹はどうなの? 幸雄は歪んでしまったって言ったけど、そう言う樹自身はどうなの?」
問いかけてみた。分からない。もう何が何だか。だからどうしても陽子は納得がしたかった。自分の心中に落とし所を見つけたかった。
「オレ? オレか…オレはどうなんだろうな。天野から見てオレの印象はどういう感じだ?」
「いつも本読んでいて、仏頂面で、だけど話してみると面白いヤツ」
「そっか。そう言う風に見えるのか、なるほど。間違ってはないかも」
「だけど…」
陽子は言いかけた。樹はその言葉の続きを黙って見守っている。
意を決して陽子は言った。
「それ以上に相手の事を想う、優しい人」
沈黙が流れる。
樹からしてみれば、意外な答えだった。どう考えたらそんな答えが出てくるのか、樹には全く理解出来なかった。
陽子は言葉を選ばず、思った事をストレートに表現した、と樹は考える。
だがストレート過ぎる。
樹はこれから話す事を躊躇い始めた。
そんな事言われてしまったら、逆に幸雄の事を
今までの会話の内容は樹ではなく、幸雄なのだから。
フッと鼻で笑い、樹はその場の空気を
「優しい人ねぇ。どこからそんな発想が出てくるのか。オレには全く分からん」
正直な答えだった。
意味が分からなかった。
何故、陽子がそんな言葉を選んだのか。
「中学の時…」
陽子が話し始めた。
「部活の後輩達に聞いた事があるの。全く接点のない後輩に親切な対応をしたんだって? 階段から落ちて怪我した女子を保健室まで運んで、最後までその女子の面倒を見たって」
「だから優しいって?」
陽子は頷いた。
「古い記憶をよく覚えているなぁ。今言われて思い出したよ。確かにそんな事があったっけ。でも当たり前の事じゃないか?」
「私は当たり前だとは思わない。考えすぎかもしれないけど、当時樹が虐待を受けていたから、痛みとか苦しみとかが本能的に働いて行動が出来たんじゃない? 私も自分で何を言っているのか分からないけど」
痛いところを付いてきたな。正直、やりにくい。
樹は自分の心を覗かれている感覚がした。
ひょっとしたら、天野陽子は共感性が強いのか? と思えてしまうぐらいにだ。
「何だか余計に話し辛くなったな、これから話すのが」
樹は幸雄の話から自分の話、そして陽子の話を聞ければ聞こう、と思っていた。
しかし、会話の中で順序がバラつき始めている。少しでも軌道修正しなければ、話せる事も話せなくなってしまう。
「悪い、話を戻させてもらっていいか?」
ストレートに陽子に聞いてみた。
自分のペースで話さなければ、陽子に全ては伝わらない。今までの話の内容は幸雄に関してだから。
「もしかして余計な事でも言っちゃった?」
「いや、そんな事でもないけど、少し論点がズレたというか。オレの質問が悪かっただけだね」
樹が投げかけた質問が、意外な答えで帰ってきたから狼狽してしまった。
そんな自分に落ち着きを取り戻す樹。
「それじゃあ話の続きだ。幸雄は生活環境が変わった。要は父親から母親に親権が渡ったって事だ。その出来事が起こる前、アイツは異常に父親に対しての恐怖心が凄かった。それだけ暴力によって心を
再び立ち上がり、樹は灰皿を持って換気扇の下に行こうとする。
「待って。いいよ、ここで吸って。いちいち換気扇の方まで行くの、面倒臭いでしょ。いいよ、ここで吸って」
「
煙草に火を点けて、吸った紫煙を換気扇の方に吐き出す。
紫煙は換気扇の方に、吸い込まれる様に流れていく。
再び話し始める樹。
「そんな時だ。確か中三のゴールデンウィークに入ってすぐの話だ。相変わらず図書館で過ごしていたら、アイツの父親がいきなり踏み込んできた。理由は説明が面倒だから敢えてここは伏せておく。慌ててオレと樹は書庫室に隠れて事なきを得たんだが、このまま幸雄を帰らせてしまったら、何が起こるか分からない。そしたらアイツの母方の親戚が、隣の市に住んでいるっていうじゃないか。だからオレはアイツを引きずってでも、親戚の家に事情を話して幸雄を
「ちょっと待って。それって樹が幸雄を助けたって事?」
「オレはそうは思っていないけど、どうだろうな。だけど当時のオレはとにかく必死だった。せめてアイツだけは、って」
全然知らなかった。そんな事が起きていたなんて。
当時の陽子は当たり前の様に生活を送っていて、それとは逆に虐待で苦しんでいた幸雄と樹。
こんな現実があっていいのだろうか。
そんな事も知らずに、私はこの二人と当時会話をしていたのか。
陽子は当時の自分の行動や言動を思い返せば、思い返すほど恥ずかしくなった。
ただ、この話の中で、唯一分かった事がある。
当時から樹はバカが付くほど、優しい男だという事。
当時中学二年、その幸雄に起こった事件が中学三年。
それをたった十四、五の少年が関わって、唯一の友人を自らの行動で助けたのだ。
それは生半可な事で出来るものじゃない。
中学生で、体験しなくてもいい事を体験して、知らなくていい事を知って、それでは心が歪んでしまってもおかしくはない。
そして陽子は改めて思う。
今目の前にいる樹は果たして歪んでいるのだろうか?
いや、歪んでいたら人を助けるなんて出来ないはず。
陽子は樹の事を、自然と、知りたくなっていた。
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