祭りのあと④
ラブホテルの一室。
換気扇のモーター音が静かな部屋に響き渡る。
ソファに樹が座っている。
ベッドに陽子が座っている。
煙草を咥えて火を点ける樹。
「ちょっと、吸い過ぎじゃないの?」
換気扇が回っているとはいえ、煙草の匂いは嫌煙家にとっては少しの匂いも敏感になりがちである。
陽子は嫌煙家とまではいかなくても、煙草の匂いが苦手だった。
「そうか? だったら換気扇の方で吸うよ」
樹はソファから立ち上がり、灰皿を持って換気扇の下で煙草を吸う。
「酒は
回り続ける換気扇に紫煙を吐き出す樹。
「今の仕事に就いてから、吸うのが当たり前の様になってきた。周りが良く吸っていたからな。それでも一応身体の事も考えて、軽い煙草を吸っているんだぜ? って吸わないヤツには分からないか」
「軽い? 軽いって何がよ」
陽子もそう言われると気になってしまう。
「煙草ってな、ニコチン、タールが含まれているのは知っているよな?」
陽子は頷く。
「ニコチン、タールの量で『重い』『軽い』っていうのが決まるんだよ。日本で市販されているので一番重いのはPEACEじゃないかな。どれぐらい重いのか、吸った事はないけど、オレが今吸っているのに比べたら、天と地の差ぐらい違うと思ってくれればいい。オレが今吸っているのは、ニコチン1ミリグラム、タールは0・1ミリグラム。オレが知っているので、海外産の煙草で34とか、とてつもない数字の煙草もある。それに比べてみたら、まだ軽い方だよ」
樹の煙草の話。
陽子は煙草の種類が多い事は知っていた。
が、ニコチン、タールにそこまでの違いがあるなんて知らなかった。
種類が多かろうが少なかろうが、煙草は煙草である。
しかし。
そんな話はどうでもいい。
何だか話を、はぐらかされている様な気分がしてしまう。
思わせぶりだったのか?
だが陽子は肝心な事を思い出す。
樹と幸雄の話が聞きたいのだ。
それを煙草の話で誤魔化そうとしているのか、それとも話すタイミングを見計らっているのか。
樹は煙草を吸い終わり、再びソファに戻った。
「えーっと…何の話だったっけ?」
煙草の
陽子は少しだけ苛立ってしまったが、もしかしたら樹自身が話をする事に緊張しているのかも、と思った。
だから何の脈絡もなく、煙草の話をし始めたのかと思うと、少しだけ合点がいった。
「アンタと幸雄の話だよ」
陽子は声を荒げず静かに言った。
「あぁ、そうだった。
と、樹はわざとらしく思い出したような口調で手を叩いた。
ヘタクソだなぁ、相変わらず。嘘を付くのが。
陽子はその姿を見てそう思った。
樹は基本的に嘘を付かない。というか嘘を嫌う。
それは多分今も昔も。だから生真面目な部分があったりする。
ただし、場合にもよる。
幸雄は分かりやすい性格だが、樹はその正反対だ。
真っ直ぐな角度で物を見るとするならば、樹の場合は色々な角度から見て、とにかく自分が納得出来るところまでこだわるという徹底ぶり。
簡単に言えば、『面倒臭い』性格をしている。
嘘は付かない、生真面目、妙なこだわり=面倒臭いなのだ。
その彼がこれから何を語るのか。
陽子は楽しみで仕方がなかった。
「天野は幸雄が中学二年の時に転校してきたのは覚えているか?」
「えっ? アイツ、転校生だっけ?」
「やっぱりな。これ、天野だけじゃなくて、他のヤツらも同じ反応なんだよ。まるで小学校からずっといた様な、そんな錯覚まで起こさせてしまう、それが平野幸雄だよ」
陽子はどんなに思い返してみても、幸雄が転校生であった事が思い出せなかった。
しかし小学校の頃を思い返してみると、言われてみれば山路幸雄という男子はいなかったはず。
そう。
『はず』で止まってしまう。
不思議な事に『いなかった』と断定出来ない。
樹に今の今まで言われるまで、そんな小さな事に陽子は全く気が付かなかった。
「これはほんの入り口に過ぎないよ」
不敵な笑みを浮かべる樹。
「樹は知っていたの? 中学二年からアイツが転校生だったって事」
すると樹は、
「知ってるも何も、転校早々に幸雄が最初に話しかけてきた相手はオレだぜ? しかも幸雄は学校に居辛くて、中学校の近くにある図書館に授業関係なく入り浸っていたからな」
知らなかった。
陽子は中学三年の幸雄しか知らない。
授業をサボってまで図書館に入り浸る、という事はクラスに馴染めなかった、と意味している。
あんなに話し上手で、クラスの中心人物だった彼が?
信じられなかった。
しかし、樹の告白は続く。
「天野、ここでひとつクイズだ。クラスに馴染めなくて、近所の図書館に入り浸る。これだけでもう、既におかしな点が幾つかある。何だか分かるかな?」
いきなりそんな事を言われても分かるはずがなかった。
図書館に入り浸る?
既におかしな点が幾つかある?
どんなに頭を凝らしても、陽子には分からず、答えを導き出す事が出来ない。
樹は不敵な笑みを浮かべ、陽子の目をジッと見つめている。
その目付きに心が押し潰されそうで、どうにかなってしまいそうだった。
だけど、掌で転がされている感じがするのも、どうも嫌だ。頭の中をフル回転させる。
待てよ。
陽子はある事に気付いた。
一応、登校はしてきているんだ。もしくは登校せずにサボって図書館に行く事も可能。
でも学校に行きたくなければ、ただ帰宅すればいいだけの話。
だけど帰宅はしない。
「ねぇ、もしかして…」
陽子はまさかと思い言いかける。
が、その先が何故か言い出せなかった。
樹は察したのか、その続きを語り始める。
「帰りたくなかったんだよ、家に。その時の幸雄、当時の『山路幸雄』は帰れる場所なんてなかったんだよ。そこまで言えば、家で、山路家で何が行われていたか、言葉にしなくても分かるよな?」
そんな。
陽子は信じたくなかった。
しかし樹の言う事に嘘は無い。
樹の目がそう物語っている。
幸雄は山路姓を名乗っていた時、虐待を受けていたのだ。
だから転校してきても、中々馴染めないでいたのかもしれない。
今は平野姓を名乗っている。ただ、親が離婚しただけだと思っていた。
しかし、現実はあまりにも残酷だった。
「幸雄が人が変わった様に、明るくなったのは中学三年になってからだ。明るくなってクラスの中心になって、人気者になったのもその頃だ。だけどな、アイツは誰にも心なんて開いていない。おそらく今もそうじゃないかと思う。唯一開いているとするなら、幸雄の奥さん、子供、そして古くからの腐れ縁のこのオレぐらい、だと思うよ」
「どういう事、それって? だってあんなに皆と親しくしているじゃない? 何でそう言い切れるのよ?」
詰め寄る陽子。
時刻は午前0時23分。
日を跨いでしまったが、同窓会で見せた幸雄が誰にも心を開いていない。
そんな事実には納得がいかない。
納得出来るはずがない。
それでは今まで接して見てきた、『平野幸雄』という人物は一体何者なのか? と思ってしまう。
「幸雄はな、実の父親に心を、そう簡単に開けない人間にされたんだよ。そうされたせいで、幸雄は幸雄である事を偽り、おそらくアイツが自分で考えた『処世術』みたいなものでクラスメイトと馴染もうとしたんじゃないかな。それにしては少し歪んでいるけどな。心は開かないが、世の中上手く渡っていく為の
「でもそれって、誰にでも共通する事じゃない? 私だってそうやって心を開けない場合がある。それと一緒じゃない?」
陽子の言う事にも一理ある。
が、樹は続ける。
「そうだ、そうだけれども幸雄の場合、それが行き過ぎている。もう随分経つが、高校生だった当時、付き合っていた彼女との別れ方なんて酷かったぞ。丁度その時、オレもいてな、一緒に三人で幸雄の部屋で会話していた時だった。その彼女が幸雄と再三約束した事を、その場でたまたま破ってしまった。オレからしたら、別に許してやってもいい範囲だと今でも思うんだが、アイツは急に彼女に対して興味を示さなくなり、『帰ってくれ、もう君とは会う事もしない』って部屋を出ていった。幸雄が心の扉を閉めた瞬間を、オレは初めて目の当たりにした。歪んでいるとは思ったが、ここまでとは思わなかった。それからの出来事は想像にお任せするよ。大体分かるだろ? 女性だったら」
そこまで言うと、再び立ち上がり換気扇の下で、煙草を咥え火を点けた。
陽子は少し考え、樹に問いかけた。
「その彼女、幸雄に一体何をしたの? 何かを言ったの?」
樹は紫煙を吐き出しながら、
「何を言ったか、何をしたのか、オレも忘れた。ただ、さっきも言った通り普通なら許せる範囲の事だ。だけど幸雄は根っから人を信用していない。余程じゃなければ。自分の見る目がなかったと切り捨てたんだろうよ。そういう事が簡単に、平気で出来るのが、平野幸雄だ」
聞けば聞くほど信じ難い。
人間不信にも程がある。
その人間不信を隠す為に身に付けた術。
それが全て、『虐待』から始まっているとするならば、こんなにも可哀相な人間はいない。
「まぁ、それでもお互いに歳をとって、お互いに丸くなったところはあると思うけどな」
樹はその言葉を付け足した。
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