二次会⑤

 新幹線内。

 ミネラルウォーターを飲みながら、酔いを少しずつ醒ましていく幸雄の姿があった。

 何度か樹からのLINEメッセージが入った。

 が、新幹線に乗ってしまえばこっちのもの。何を言われたって痛くも痒くもない。

 ショルダーバッグから樹の腕時計、スマホを取り出す。

 それからファイルに収まった何かの資料も取り出した。

 それを見つめ、若干の後ろめたさがあったが、目的の為だと自分に言い聞かせた。

 今の樹は何もかも失った状態である。それは腕時計やスマホとかそんなものではなく、彼の現在の状況を差している。

 樹が愛していた人に裏切られ、樹に枷られてしまったあらがう事の出来ない運命。

 もし本当に神が存在するというのなら、これはあまりにも残酷である。『死』より残酷だ。

 これから樹自身が『生き地獄』を味わうのか、と考えた時、幸雄には、俺だけで支えていくのは無理だ、と悟った。自分の手には収まりきらない苦行であるとも思った。

 誰か、樹の事を良く知っている人物でない限り、彼は本当に壊れてしまうのではないのだろうか、とも思った。

 だがその反面、同時に考え過ぎだと思う、自分も存在する。樹はそこまで弱くないとも思う。

 中学時代、幸雄を救ってくれたあの心強さはいまだって健在なはず。樹の家庭事情、それをすべてひっくるめても、彼はそう簡単に壊れる様な男ではないとも思える。

 しかしそんなのは幸雄の思う想像の世界であり、何が起こるかなんて分からない。まさに『神のみぞ知る』という言葉が当てはまってしまう、そんな状態だ。


 そんな事を考えていた幸雄の心に、ある日悪魔のささやきが彼に呟いた。

 中学時代にたったひとり、樹を良く知る人物がいた事を。

 天野陽子である。

 よく放課後に三人で会話をしていた、幸雄に次ぐ樹を良く知るもうひとりの人物。

 幸雄は一か月前の事を振り返る。

 心身共にボロボロの樹を見て、このままではいけないと判断した。

 そして思い付いた天野陽子の存在。

 そこで一か八かの計画を幸雄は企て始める。

 幸雄は興信所を使って、現在の天野陽子についての身辺調査を依頼した。

 すると一週間もしないうちに、調査が終わり彼女の空白の二十四年を知る事になった。

 大学を自主退学後、一年弱のフリーター生活を送り、大手スーパーのパートを経て、そのまま社員として就職。十年ほど就業するが彼女が三十六の頃に退職。実家に戻り専門学校に二年、卒業後隣のH市で予約制のマッサージ店を開店する。

 そこまでなら良かった。

 他の調査報告書に記載されていたのは、衝撃の内容だった。現在進行形で天野陽子は性被害にあっているという事が分かった。加害者は隣人で、大家をしている西山という五十代の独り者だった。

 ここまで分かったところ、陽子がまさかそんな事に巻き込まれているとは思いもしなかった。幸雄は戸惑い、興信所を使った事を後悔したが、冷静に考えてみた。

 もし天野陽子が、三十九年の間に人間性が変わってしまっていたら、そもそも同窓会などに参加するだろうか。

 女性の方が現実的でドライな一面がある。特に異性の前では猫を被る事だってあるぐらいだ。

 興信所による情報の天野陽子と、今日同窓会で見た天野陽子には、あまりにもギャップがあり過ぎる。

 このギャップが幸雄には違和感しか生まれてこない。

 何故なら性被害に遭っているにも拘らず、彼女が同窓会に参加していて、二十四年前と変わらない天野陽子がそこにいたからだ。

 性被害に遭った女性は、トラウマが強くなり、外との拒絶があまりにも強いと聞く。

 特に男性に対して拒否反応を強く出し始める。男性を男性として認識できなくなる。


 ケダモノ。


 おそらくそう見えるに違いない。

 幾らクラスメイトの男性陣に対しても、拒絶反応が出ていてもおかしくないはず。 

 それが全く出ていない。

 そして一つの仮説を幸雄は立てた。

 天野陽子の中学卒業からの二十四年間、恋愛などもしてきただろう。その過程の中で、男性に対する偏見が既に備わっているとしたら?

 どんな恋愛をしてきたかは分からない。

 しかしよく聞く性被害に遭った女性との決定的な差というのは過去に何かあった、という事だった。

 掻い摘んで言ってしまえば、男性に何も期待していない、という事。おそらく、男はこういう生き物だ、どうしようもない、クズばかりが多い、と自分に言い聞かせているのではないだろうか。

 もしそうだとしたら何て惨めなんだろう、と幸雄は思った。

 それは想定していないイレギュラー。

 だが天野陽子はそうは思いながらも、誰かに助けて欲しい、というサインは報告書に添付された写真が物語っていた。

 どこかで見た事がある。

 それは『自分自身のかつての』を天野陽子もしていた。

 幸雄は一度曇りがかっていた考えが、一気に快晴に向かっていた。

 という事であれば、幸雄の考えた計画はこのままシナリオを変えず、決行しなければならない。

 幸雄の計画。

『樹と陽子を付き合わせる事。どんな手段を使ってでも』

 樹は二十四年前、陽子の事が好きで告白している。

 陽子は樹の事を良く知っている唯一の異性である。

 互いが今、傷付いているのならば尚更の事だ。

 その傷を利用してでも、計画を実行に移そうと考えたのだ。

 そして後は協力者である敏哉、透、彰が上手くやってくれることを願うしかない。

 完全に余計なお世話、迷惑極まりない計画である。


 少し平野幸雄という男の事を話そう。

 彼は『山路幸雄』であった頃に、父親から壮絶な虐待を受けていた。

 そんな状況下の中『川瀬樹』という無二の親友となる人物と知り合う。樹のおかげで、父親からの呪縛から解き放たれて、母親の元で普通の生活に戻る事が出来た。

 だが、身体の傷は癒えても、心の傷は三十九年間、癒えた事など一度もない。

 結果、外面は社交的な性格に見えるが、本当の彼の姿は自分が起こす行動は正しくなければいけない、という捻じ曲がった性格が、彼の本当の性格だ。

 それはどんな状況であっても、周りに迷惑を掛けていると気付かず、まるで諸突猛進の様に強引に事を運んでしまう。それこそ数は少ないが会社に迷惑を掛け損失を出した事もある。

 幸雄自身もその自分の性格が、途轍とてつもなく嫌になる事がある。父親によって形成されたもうひとりのゆがんだ自分。時折、衝動的に自殺を考える事もあった。

 だがその度に、脳裏に横切るのは、幸雄が愛するもう一人の理解者である妻、子供達、そして川瀬樹。

 身勝手に死ぬ事なんて出来ない。

 平野幸雄はどんなに明るく振る舞って、普通の生活を手に入れたとしても、父親からの呪縛にもがき苦しんでいる、虐待による被害者でもあるのだ。

 更にこうも思うのだ。

『自分だけが幸せな生活を手に入れていいのだろうか』

 同じ様な境遇で育った樹と比べると、圧倒的に幸雄の方が普通の生活を送っている。

 そんな時間を過ごしている今まさに、どこかで幸雄と同じ様に虐待を受けている子供がいるのでは? と考えてしまう。

 幸雄は精一杯自分の子供達には愛情を注いでいる。その辺のイクメンとは訳が違う。

 虐待を受け、成人した子供達は多種多様で様々な生き方をしている。世間とのズレに苦しむ人、自分の子供に自分がされてきた事を同じ様にしてしまう人、『愛情』が決定的に欠けてしまった人。

 幸雄はどれにも当てはまらず、中途半端に苦しんでいるひとりだ。

 その苦しみは何なのか。

 父親の呪縛なのか。

 何も出来ない自分に腹立たしいのか。

 

 歪んでいると幸雄は自覚してる。

 屈折しているとも思っている。

 その答えが欲しかった。

 それが川瀬樹だと思った。

 二十四年前の恩を返してあげているだろうか。いや、返していない。

 三十を過ぎて急に思い始めたのだ。

 そして樹が離婚した事を知り、今回の計画を思い付いたのだった。

 これが恩返しといったら、おかしな話だと思うかもしれないが、幸雄はとにかく何かをしてあげたかった。その一心だった。

 中学時代に自分を助けてくれた樹の為。

『無精子症』を知り、荒れくれてしまった樹の為。

 そしてまさかのアクシデントではあるが、陽子の為でもある。

 強引ではあるが樹にも人並みの幸せを掴んで欲しい、ただそれだけだった。

 それから陽子の今の状況を知った樹であれば、彼なら絶対に彼女を助け出すに違いないとも思った。

 樹はそういう男だ。二十四年前と変わらない。

 陽子に関しても、樹に対して思うところがあるはずだ。いや、そう思わせた。

 同窓会でわざと樹を意識させる言動を、陽子に対して幸雄は口にしている。種はちゃんと巻いておいた。

 もし陽子が樹の苦しみを知った時に、決して理解できないという事はないはず。

 彼女は良き理解者となり、樹の良き伴侶になり得る存在だ。

 ただそれを、二人は気付いていないだけ。

 過去を思い返せば、それはよく分かる。

 気が合うのに、恋愛に発展しないよくあるパターンだ。良いか悪いかは別として。

 後はお互いが意識し合えばいいだけ。

 陽子が樹を意識し始めたのも、幸雄はこの目で確認している。

 我ながらよく考えたものだ、と少し呆れた様に思う幸雄。


 計画通り、事は運んだ様だ。

 敏哉、透、彰からそれぞれ、LINEメッセージが届いた。

 上手くいった様である。

 返信しながら、幸雄はこれで安心して帰路につけると思った。

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