川瀬樹④

 それから数年が経ち、オレの上司が定年退職で出版社を辞めた。

 それがキッカケといっていいのか分からないが、オレも出版社を辞める事にした。

 今まで色々とお世話になった上司であの人がいたから今がある訳だし、その上司が会社を辞めたら、何だかつまらなくなってしまった。あの上司がいたからこそ、この出版社で働いていたとも思うし、色々と考える事や思う機会が増えていった。

 そこで思い切ってフリーランスになって、自分の力を遺憾なく発揮してみようという結論に至った。恩人でもあった上司のもとで働いていた時は、かなり自由にさせてもらっていた。

 だがいなくなってしまうと、やはり出版社とはいえど企業である。

 型に嵌められてしまう煩わしさは、どんなにやりがいがあるものでも妙な不自由さを感じて堪らなかった。

 改めて上司に感謝の念を抱いた。

 そしてダシにするのはちょっと違うが辞めるキッカケ、フリーランスになるキッカケを作ってくれたと勝手に感謝している。

 フリーライターに転向してから懸念していた、仕事が少なるという不安は直ぐに解消された。辞めた出版社から企画の依頼や、他の出版社からも声が掛かる様になった。かえって忙しくなった様な気もした。

 けれどフリーライターの強みは『選択』出来るという事だ。勿論こちらから企画を持っていく事もあるが、依頼された仕事を丁重に断りさえすれば、縁が切れる事もない。だから多くの仕事をこなして、今の生活基準を下げようとも考えなかった。余計に仕事人間になってしまった。


 そんな時に、オレは明梨と出会う。

 よく行く馴染みの居酒屋で店員として働いていた。そこで顔見知りになり、オレが口説くような形で交際が始まった。

 よく笑う明るい女性だった。オレとは正反対、真逆の娘だった。だが不思議なもので付き合いは順調で、二人で同棲するのもそんなに時間はかからなかった。

 大げさかもしれないが、彼女からオレは多くの事を教わった。

 別に明梨が教えてくれた訳ではない。彼女の行動から色々と教わった。

 当り前の事を、自分で味わってこなかった事を。些細ささいに思うかもしれないが、その些細な事が出来なかったのがオレなのだ。

 性格は変えられないが、気を付けることは出来る。常に心の片隅にその考えを置いておくだけで、だいぶ自分という人間の物の考え方が変わってくる。

 だから祝う事を知らないオレが、明梨の誕生日をぎこちなくとも祝ってあげると、彼女は無邪気に喜んでくれた。形なんて不要だった。祝ってあげよう、そういう気持ちが大事であるという事に初めて気が付いた。そしてその逆もまたしかり、自分の誕生日を祝ってもらった時に、今まではどんな風に感情を表現したらいいのか分からなかったが、嬉しかったら素直に嬉しいと思えばいいんだよ、と明梨は教えてくれた。今までそんな事を言ってくれる女性はいなかった。明梨が初めてだった。

 オレは生まれて初めて、この娘を手放したくないと思った。

 付き合いだして一年が経ち、明梨の誕生日にプロポーズをし、オレ達は結婚した。籍だけを入れ、今まで住んでいたアパートから、もう少し広いアパートに引っ越した。

 十分幸せだった。

 こういう些細な事が欠落しているオレを、ここまで変えてくれた彼女には、別れた今でも感謝はしている。

 だが、今は思い出したくもない。

 それは結婚して二年目になる頃だった。明梨は既に別のパートを始めていて、オレは少し仕事量を減らしていた。

 妊活を本格的に始めたからだ。

 明梨は子供を欲しがっていた。

 オレもそろそろ考えてもいいなと素直に思った。

 しかし妊活を始めてから、なかなか妊娠の兆候が見られない。

 オレはその時三十八、明梨は二十六だったと思う。

 オレもライターの端くれ、当然妊活、不妊治療の取材などを行った事がある。

 不妊治療は金がかかる。保険が一切適用されない。

 二人で相談し合い、多少の貯金もあったので、不妊治療に踏み切る事になった。

 が、あっさりと残酷な現実が待っていた。どう足掻いても、オレと明梨の間には絶対に子供が出来ない現実を。

 先天性の『無精子症』

 明梨の身体は何ら問題なく、あったのはオレの方だった。

 生まれ落ちた時から、精子を作る器官が壊れていた。

 検査の結果、精子が一匹も作られていない。

 つまりオレの身体から子種を出す事が不可能、と医者から宣告されたのだ。

 極めて珍しいケースだと医者は言う。顕微鏡写真を見て愕然とする。

 真っ白だった。

 オレだって馬鹿じゃない。

 不妊治療の取材で精子の顕微鏡写真を見た事がある。

 しかし医者から見せられたのは何もない真っ白な写真。何も無い。

 オレのぶら下がっている二つの睾丸はお飾りだってことなのか。

「大丈夫だよ、気にしないで。二人で仲良く今まで通りの生活をしていけばいいと、前向きに思うようにしよう?」

 部屋に帰るなり、明梨はオレを優しく抱きしめてくれた。オレは明梨に対しての申し訳なさ、男としての情けなさが入り混じって、やるせない感情でいっぱいだった。

 しばらく自分の身体の真実から立ち直る事が出来なかった。それでも明梨の前では平静を装っていた。心配を掛けたくなかった。

 時間がゆっくりと解決してくれる。

 オレはその時、本当にそう思っていた。



 しかしそれから一年ぐらい経ったある日。

 オレは突然明梨から離婚届を突きつけられた。

 意味が分からなかった。その時オレの頭の中では、一切子供が作れない事が理由ではないと思っていた。

 明梨が『二人でも大丈夫』、ただその言葉を信じていたからだ。

 だがそれは、オレ自身の全くの思い上がりで、人の闇の部分を思い知らされる。

 明梨はオレにそう言いつつも、本当は子供が欲しかったのだ。

 そしてパート先の店長と不倫をし、その男と一緒になるとオレに告げた。

 子供が一生作れないという事実を、一番受け入れる事が出来なかったのは、実は明梨の方だった。

 その事実をパート先の店長に愚痴ってしまった。

 店長は独身で既婚である明梨に、実は以前から言い寄っていた人物だったという。

 そして男女の関係になり、妊娠した。だからオレとの結婚生活を終わらせたいと。

 だったら何故、子供が作れないと分かった時点で、離婚を考えなかったのか? あんな台詞を吐いたのか。

 すると明梨は「可哀相だったから」という一言で片づけた。

 可哀相だったから? つまりオレを憐れんだ、という事か?

 怒りの沸点が頂点に達しようとした時、その店長と呼ばれる男が明梨にオレの目の前に現れた。明梨と一緒に来ていたのだ。

 今、目の前にいるこの男が、明梨と不貞行為をした。

 しかも避妊具を付けず、生身の身体同士を交わらせた。

 そして妊娠……。

 ついに頂点に達しこの場で男におどりかかろうとしたその時、その不倫相手はオレを真っ直ぐ見つめて頭を深々と下げ、別れて下さいと懇願こんがんしてきた。

 言い寄っていたとはいえど、本気の様だった。瞬時にオレの怒りが冷めていき、逆に冷静になっていった。不思議なくらいに。

 オレも何かを言わなければ。言い返さなければ。

 だが喉の奥で、どうしても言葉が詰まってしまう。この状況、はっきりいって異常だ。普通なら相手を殴ってもおかしくないのに、殴る事が出来なくなってしまった。

 冷静さを取り戻したオレの心中しんちゅうで、その理由が明確になってきた。

 オレが全ての原因なのだ。

 明梨のした事は、絶対に許すことは出来ない。だが一方で、子供が欲しくても叶わないという残酷な現実。順番はハッキリいって滅茶苦茶であるが、明梨はそれでも子供が欲しかった、という事になる。

 つまりオレは、とっくに見放されていたのだ。

 亭主として、男として。

 だからその怒りを、どこにぶつけていいのか、オレには分からないのだ。殴る選択肢もある。人の女房に手を出したのだから。しかし不倫相手の男も真剣だというのが分かる。おそらく殴られる覚悟でここに来ている。子供を作る事の出来ないオレが殴る資格なんて無い。

 離婚届を置いたまま、二人は出ていった。何も言えなかった自分が情けなく、そして惨めだった。かといって、明梨の裏切り行為を許せる訳でもなかった。

 もう、頭の中は真っ白で何も考える事が出来なかった。

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