川瀬樹③

 少し思い耽ってしまった。気が付けばもう昼だった。かといって腹が減ったかというとそうでもない。ソファから体を起こし冷蔵庫に向かう。ビールだらけだが、かろうじてコンビニの惣菜があった。それを取り出し、レンジでチンしてソファに戻る。

 何も食べてないが腹は減っていない、だが何か胃袋に入れておかないと不規則な時間帯にまた空腹になるだろう。それだけは習慣としてなるべく気を付けていた。

 これは元嫁、『明梨あかり』のおかげだと思う。編集者になり、フリーライターになっても何も変わらなかったが、離婚を言い出した明梨には、食生活の習慣は今でも感謝している。


 明梨と出会う前のオレは社会不適合者まっしぐらだった。

 高校を卒業して大学にも行かずに一年間アルバイトしては辞めての繰り返しだった。

 だが実家にいる以上、なにも変わらずオレの負の日常は続く。

 だから貯金だけは高校の時からしていて、一年間のアルバイト生活を経てその後実家を出た。

 そして上京するなり小さな出版社の求人広告を見て、その出版社の門を叩きアルバイトとして採用された。

 本好きが高じてどこでもいいから出版社で働いてみたかった。小さな出版社ではあるものの、月刊誌をメインに大手出版社と引けを取らない業績を出していた。

 本当は正社員になりたかったが高卒だった為、正社員になれるチャンスなんてなかった。

 しかし出版社で働き始めて、社会人としての本当の地獄が待っていた、とオレは今でも思う。

 両親からの呪縛というのは社会に出て初めて露わになる。意図もしない場面で突然に。自分が当たり前だと思っていた事が、全く通用しない事。圧倒的な社会と自分のズレ。

 どこかで聞いた事だったのか、何かの本で知った事なのか記憶もあやふやではあるが。虐待を受けた子供がそのまま保護されず、成人して社会人になった時、社会という波に呑まれたらどうなるか。

 分かっていたつもりだった。が、ここまでのズレを、現実を突きつけられてしまうとは思っていなかった事だ。

 取引先とのトラブル、会社でのトラブル、数えたらキリがない。細かい仕事も大きな仕事も全てにおいて何かしらあった。

 やがて自分という人間が、次第に嫌いになっていく。

 どうして上手く事を運ぶというのが出来ないのか。

 せっかく実家から離れ、自立して自分の力で生きていこうと決めたばかりなのに。

 トラブルばかり起こしている人材は普通であったらクビになっても仕方がない事だ。

 しかし出版社はオレをクビにはしなかった。

 人材不足もあったかもしれないが、オレの直属の上司が何かといつも庇ってくれた。いや、尻拭いをしてくれた、と言った方が正しいかもしれない。

 こんなどうしようもないオレを見捨てる事は絶対にしなかった。逆に丁寧に社会人としてのマナーを、上司は出来の悪いオレに根気強く教えてくれた。

 オレを社員に推薦してくれたのもこの人がいたからだ。いつかライターになる為に先輩上司達の記事を読み、参考にし、見様見真似で、大学ノートに自分なりの視点で記事を、暇を見つけては執筆していた。それをデスクに出しっぱなしに昼休みに外に出てしまった事があった。帰ってくると上司がそのノートを勝手に読んでいた。

 オレは慌ててノートを奪うかの様に取り返したが、これを一日だけでいいから貸せ、悪い様にはしないから、と言い出した。

 いつも迷惑ばかりかけていた事もあり、そんな後ろめたさもあったりしたから断る事が出来ずにノートを渡した。

 そして数日後。

 オレは突然、編集長に会議室へと呼び出された。

 呼び出された場所が場所なだけに、しかも二人きりだった為、オレもいよいよクビかと諦めかけていた。

 しかしその意に反した内容にオレは面を喰らった。

 本格的に腰を据えて、ここで働く気はないかと言われたのだ。

「人事にちゃんと掛け合ってからじゃないと分からないが、このノートの中身を見させてもらった。少し粗削りなところもあるが、私達が見落としがちな発見、文章力がある。正直そういう目線で書くのか、という意外性もあったよ。こういうのを執筆出来る人材はとても貴重だ。学歴なんて関係ない。これは君の個性でもあり能力だ。どうだ、やってみないか?」

 目からうろことはこの事を言うのだろう。

 あまりにも突然すぎて、みんながオレを騙しているんじゃないか? と思ったりもしたが、数日後にはしっかりと事例が出てオレは晴れて編集者になった。

 ここで働き出して五年。二十四歳の時だった。

 それからはがむしゃらに働いた。編集者としてもそうだが、雑誌記者としても事件や世論を、色々な角度で見る企画を立て、それが採用されて記事になったりもした。まずまずな評判で不定期ではあるが企画自体を任されるようにもなった。この仕事に携われるだけでオレ自身、とても誇らしかった。

 だが一方でプライベートは散々だった。というのもあの両親から離れて暮らした事もあって、自分の中のたがが外れてしまった。もう何も縛られることがない、殴られたり、罵られたりされる事もない。全てを忘れ、自由になれる気がした。勿論自ら実家に連絡する事もない。向こうから連絡が来ても全て留守電だ。よほどの事がない限り連絡は絶った。

 だがそう簡単に両親の呪縛は解ける事はない。自立してもやっと社会に馴染む事が出来ても。出版社、要は仕事自体上手くいっていた。だが休日は何をしていいか分からない。殆どアパートの部屋で本を読んでいるか、持って帰ってきた仕事をしているか。このままではいけないな、と思い同僚と飲みに行く機会を増やした。その流れで女性関係に繋がっていく。

 この女性関係がオレにとっては壊滅的だったのである。長く付き合えた試しがない。大体もって半年あるかないか。しかもオレ自身が最低だな、と思えてしまうのが別れてしまってもすぐ新しい彼女を作ってしまう事だった。多分、寂しいという気持ちがどこかにあったのだろうか、と今思うと納得がいく。

 しかし当時のオレは『寂しい』というクセに、相手に対しての甘え方というのを知らなかった。

そして彼女が出来れば、様々なイベントがある。簡単なところでいえば誕生日やクリスマスだ。普通だったら楽しく過ごせるはずだろう。サプライズなどを考えてみたり、相手を喜ばせたくてプレゼントを買って用意したり。

 オレにはそれが欠けていた。理由は簡単だ。これはオレの仮説だが幼い頃から誕生日やクリスマスなど、様々なイベント事を家族で行った事がない。そしてクラスメイトの誕生会も呼ばれた事がない。元々ひとりでいる事が多く、クラスに馴染めなかったせいもあるとは思う。

そういう人間が大人になって彼女が出来たとして、何をすればいいか分からないのも当然の事だ。今まで考えた事もされた事もないのだから。それが『当たり前』だと脳に刷り込まれてしまっているのだ。そう考えると自分でも不思議と納得が出来てしまう。

 ならば考え方を変えればいい、そう簡単に思えるかもしれない。素直な気持ちが大事、と思うかもしれない。

 しかしそれが出来たらどんなに楽な事か。

『刷り込まれる』という事は簡単に言えば『洗脳』『マインドコントロール』に近い事をされた、という事。それを生まれてからずっと、嫌という程味わい、やっと仕事がまともに出来る様になってきたというのにこの有様だ。

 どんなに自由になっても実家から離れて暮らしていようとも、心はいつも『洗脳』によって見えない鎖で雁字搦がんじがらめになっている。

 同僚からはモテていいなぁ、とからかわれたりした。

 別にオレ自身は、女を取っ替え引っ替えしている訳じゃない。浮気すらした事もない。

 ただ長く付き合えた試しがない。

 しかも自分の寂しさを埋める為に、すぐ新しい彼女を作る。

 やっている事は、はっきりいって最低である。

 ある時、付き合っていた女性と別れ話になった際に言われた事がある。

「とてもつまらない男」だと。

 その通りだと思った。面と向かって言われても、その時は平静を装っていた。

 しかしその言葉は確実に心の中でゆっくりと、鋭利な刃物の様に突き刺さっていき、やがてオレは逃げる様に酒に溺れる事になる。

 その通りだと強がっていても、真実を言われ心の中では動揺していた。思う様に出来ない自分が悔しかった。好意を持った女性すら、楽しませる事が出来ない。きっと女性の前でも、当たり前だと行動していた事が、もしかすると不愉快にさせていたのかもしれない。その点に関してはコンプレックスの塊だった。

 オレは両親の様な人間にはならない、と心に誓っていた。

が、知らないうちに自分自身が似てきている事に、焦りや不安を覚えた。

 不安をかき消す為に酒を飲む。

 煙草もいつの間にか吸っていた。

 雁字搦めの心の鎖は解けることがない。オレはきっとひとりがお似合いなのかもしれない。そう仕上がってしまっているんだ。

 それでも。だとしても。

 いつかきっと、『普通』の暮らしが出来るだろうと思っていた。

 だがそれはとんでもない勘違いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る