川瀬樹②

 中学二年の時に幸雄と出会った。

 それまでのオレは周りから浮いていた存在だった。

 幼い頃から母親に嫌味を言われ続けてきた。

 父親はよくオレを庇ってくれていたが、それも長くは続かなかった。

 オレが幼稚園に入園する手前に父親が病気に侵された。

 それもかなり深刻なものだった。

 元々病院嫌いもあったせいか、父親はギリギリまで医者には行かず腹痛に耐える毎日を送っていた。

 いよいよこれはまずいと思ったのか、観念して近くの総合病院に行った途端、即入院。腹膜炎であった。それもあと一歩遅ければ命に係わる程だった。入院期間は一か月以上だったと思う。その間、母親と二人暮らしとなる。怒鳴ったりはしないが、物静かにオレという人間を否定して心を束縛していく。母親に褒められたくて起こした行動も全てが『否定』で片づけられる。

 悪態、人格否定。

 ありとあらゆる言動がオレの心を蝕んでいく。

 そしてやがてそれが『普通』だと思ってしまう。

 当時まだオレは四歳に満たなかったと思う。

 そんな幼児がそう思ってしまうのは当然あり得ない事だ。

 庇ってくれる父親がいない事で、どんどん追い込まれていった。どんなことを言われていたのか、幸いにもあまり覚えていない。ただ確実に心は支配されていたと思う。

 やがて父親が退院した。

 が、身体は酷く痩せ細り、食べ物も限定され栄養剤の様な飲料水を飲んで、体重体調管理をしなくてはいけない身体になってしまっていた。さらに人工肛門も付けられ、入院中に酷い鬱病うつびょうになってしまっていた。

 それのせいか性格も入院前とは打って変わっていた。

 鬱病も相まってか自暴自棄と思う様にいう事を聞かない身体に対するストレス。

 そのせいなのか言動が暴力的になってきていた。

 人が変わるとはこういう事なのだろう。暴力的な言動から始まり、ついに暴力行為へと走り出すが、オレの母親を殴る事は一切なかった。

 今思えばもう既に母親の手中に父親は転がされていたのかもしれない。

 その苛立ちの捌け口になったのがオレだった。

 痩せ細った身体には、筋肉が付きづらくなり俺を殴る代わりに、物差しで叩きつけたり、マグカップを投げつけたり。

 理由はいたってシンプルだ。

 父親が自分自身の不甲斐ない身体に苛立っているから、オレに暴力を振るう事でストレスから解放される。

 弱者がさらに弱者を叩く構造。

 それに乗っかる様に母親の人格否定の言動。

 以前にも増して拍車が掛かっていた。

 そのクセに外面だけはとても良かった。

 親戚付き合いを絶っているくせに、世間体だけは気にしていた。

 今思えば、というか、今も変わらないが最悪な両親だ。

 小学生の頃は只々、言いなりになるしかなかった。誰にも打ち明けられず、クラスメイトにも馴染めず、ひとりでいる事が当たり前だった。

その代わり図書室に通うようになった。時間が許す限り、只々本を読んでいた。オレなりに逃げ道を探していた時期だったのかもしれない。

 だから中学に上がると家に帰るのが遅くなった。

 部活と偽って所属することなく、町の図書館に入り浸る事になる。

 小学校の時と同じで、当然クラスに馴染むことはなかった。その頃のオレはどうやってクラスメイトと接していいのか、全く分からなかった。

 そのせいでよくトラブルを起こすようになった。

 クラスメイトと言い合いになるのは当たり前、喧嘩になるなんていつもの事だった。

 気に入らないヤツがいればすぐ喧嘩。

 完全に当時のオレはトラブルメーカーだったと思う。だけどそんな事をしておいて、よく非行に走らなかったものだ。

 そんな自分を褒めてやりたい。

 いや、非行に走る方法すら分からなかったのだろう。

 あれだけ母親に幼い頃から人格否定をされていれば。

 逃げた場所が図書館だった為、自然と本が好きになっていたと思う。不思議な話だがその時だけ自由になれた気がした。現実逃避と言ってもいい、物語に自分を投影して妄想の中で楽しんでいた。まるで自分が主人公になっているかの様に。

 クラスに馴染めないから、よく二~三時間目、もしくは給食後の五時間目あたりを境に体調不良を訴えて、早退という名のサボりを口実に図書館に入り浸った。学校に行ってもオレの居場所なんてなく、ハッキリ言ってつまらなかった。

 だったら一番安心出来て、健やかな気持ちでいられる図書館で本を読んでいた方がマシだった。

 ある日転校生が来るという話を聞いた。オレは全く興味がなかった。転校生と上手くやれるのはクラスメイト達であってオレではない。好き勝手にやっているオレの様な扱いの難しい生徒は鼻からいない方が良いだろうと思った。それにそもそもオレのクラスに入ってくるとも思っていなかった。

要は興味がなかったのだ。学校が終わるとすぐに図書館に向かった。

 それから数日が経ち、その日も朝から学校に行く気力がなかった為、そのまま学校に行くフリをして同じ手を使い図書館に直行。

そしてこの時に幸雄と出会う事になる。



本棚から誰も読んでいないであろう聖書を取り出し続きを読む為、いつもの様に椅子に座らずテーブルに乱暴に座った。

「ねぇ、君。椅子に座って読みなよ。マナー悪いと思うよ」

 その声はオレに対しての注意だった。椅子に座らずテーブルに座っていたから。平日の図書館は人が少ない。だから司書達の目の届かない所でやりたい放題だった。その声の方に目を向ける。

 これがオレと幸雄の最初の出会いだった。

 一瞬「あっ?」と小さい声で威圧的な態度を取ったが、すぐにそれは感じ取れた。

 オレと一緒だ。

 コイツも何かを抱えている。

「そういう君は、転校してきた…確か」

「山路幸雄。三年A組」

「何だ、同じクラスじゃないか」

 顔に見覚えがあった。

 例の転校生だ。

 最初に見た時は、何だか根暗なヤツが来たなぁ、という印象だった。色白で背も割と低く、小学生に間違えられてもおかしくない程の童顔。

 だがの奥には影があった。だから直ぐに感じ取れたのだ。

「オレは川瀬樹。よろしく」

 自然とオレは幸雄に自己紹介をしていた。そんな自分に驚いてもいた。普通に会話をしているオレ自身に。

「もしかしてそれ…読破するつもりなのかい?」

 オレが読んでいた本、聖書に指を差し、アイツはそんな事を言っていた。

 何故聖書なんて読んでいたかというと、とうに忘れてしまったが中学生になって、オレは勝手な目標を立てていた。今にしては馬鹿な目標だ。


『図書館の本、全部、卒業するまで読破』


 こんな馬鹿な目標を立て、中学二年当時は何だかんだ図書館の三分の一の本は制覇していた気がする。

 たまたま途中まで読んでいた本が聖書だった。

 そんな理由だった。けれどその時にオレは幸雄にこう返した。

「まさか。ただ、この世に神様なんかいないって、皮肉りながら読んでいただけさ」

 この言葉は本心だった。嘘偽りのない本音。すると同調する様に少し哀しい表情で、

「そうだよね。いたらどんなに良かったんだろうね。神様って人間が作り出した偶像に過ぎないんだって。ほら、人って弱い生き物だっていうでしょ。だから拝(おが)みたてまつる偶像を建てる事によって、人々は心に安らぎや安心感を求めていたって何かの哲学書に書いてあったよ」

 神様なんかいないという、それだけの説明を事細かく一気にオレに言った。

「だろ? キリストもブッダも、もともとは同じ人間だからな。その教えが宗教っていう機関に変わっただけさ。だから聖書読んでいると、よくもまあこんな意味もない事をダラダラと昔の人は書いたもんだって思うよ。ただ歴史書としてみたら、また違うのだろうけど」

 そんな話をしながらいつの間にか、オレと幸雄の心の距離は一気に縮まった気がした。

どちらからでもない。オレ達は直ぐに打ち解け合った。同じ境遇である事が分かり、二人でよく愚痴ったりしていた。この年齢で、そこまで分かち合える友人なんて少ないんじゃないか?

 毎日の現実は残酷ではあるけれど、友人、いや、親友と呼べる幸雄との時間が楽しかった。本を読んでいても感じられない楽しさ。

 これがコミュニケーションっていうのかもしれない。それすらオレは感じる事なく、心が鈍化していた事に気付いた。

 だから幸雄との出会いというのは、オレにとって『奇跡』と言っても過言ではない。

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