平野幸雄⑤

「ハッ、そんな事あったなぁ。随分懐かしい話だ」

 樹はソファに座ると煙草に火を点けた。

「それが一体どうしたっていうんだ。そんな古い話を持ち出してきて。今と何か関係あるのか?」

「あるさ。もしあれがなかったら今頃……俺は死んでいる可能性があったかもしれない。お前が、樹が、俺を助けてくれたんだ。キッカケが何だろうと、助けてくれたのはお前なんだ。だから今でも俺は凄く感謝している。逆に樹に何かあったら、今度は俺の番だと思っている」

 だが俺の言葉とは対照的に、樹のはとても冷ややかであった。

 俺は間違った事は言っていない。当たり前の事を言っているだけだ。

 それなのに何故そんな冷たい瞳を俺に向けられるんだ。

「幸雄、オレはライター業をやっている。こういう仕事をしていると人間の表裏おもてうらを、嫌という程見なければならない。オレは過去に両親にされてきた事を、いつか記事にしたい。そして多くの虐待を受けて育った大人達に、何か発信出来たらと思っている。そして結婚もして、オレの両親の様にはならないと心にも誓った。だがな、それ以上に世の中っていうのは残酷な結末っていうのが用意されていたんだ。どうする事も出来ない現実ってヤツがな」

 紫煙しえんを天井に吹き上げる樹。

 彼が何を言おうとしているのか、俺にはサッパリ分からなかった。

 何か勿体もったいぶっている。

 それほど言い難い事なのか。

 この部屋に奥さんがいない事や離婚届。

 それ以上の事とは一体何なのだろうか?

 全く想像が付かない。

「これから話す事は幸雄が初めてだ。幸雄だから話せるっていうのもある。でもこれを聞いたら、お前もどうする事も出来ないって諦めが付くだろう」

 樹は煙草を灰皿に押し潰した。

 俺がどうする事も出来ない現実? 

 諦めが付く? 

 何か病にでも侵されているのか?

 今の俺はとにかく彼が何を語るのかを黙って聞くしかなく、それ以上の思考は働かなかった。

 樹はゆっくりと、現在の自分自身の事を語り始めた。




 そんなまさか。

 こんな現実があっていいのだろうか。

 今目の前にいる親友の身に、そんな事が起きていたとは。

 樹が俺を見る。

「やってられないだろう? こんな風になっちまったら。幸雄の気持ちは有り難いさ。けれどお前がどうする事も出来ない、仕方のない事なんだ」

 俺は椅子から立ち上がった。

 何も出来ない。

 言われてみればそうかもしれない。

 真実を聞かされてどうしようもないと知ってしまったから。

 だが俺は自然に樹の肩に手を置いていた。

 二度、優しく叩いた。

「何も知らなくてごめんな。大変だったんだな」

 言葉が見つからず、勝手に俺の口から出てきた精一杯の言葉だった。

 すると今まで平静を装っていた樹の肩が、小刻みに震え出していた。

 顔に手を当てる樹。

 誰にも言えずにひとりで苦しんでいたのだろう。その頬に涙が伝っていった。

 自暴自棄になり、樹は自分自身を呪ったかもしれない。彼の気持ちを汲み取るとするならば、俺自身も同じ様に荒れてしまっていたとも思う。親友を襲った残酷な結果に目頭めがしらが熱くなる。

 俺は少しでも話題を変えようと思い、無理矢理ではあるが話を変えた。

「なぁ、同窓会、行かないか? 少しでも気晴らしをしないと身体に毒だぜ」

 このままでは樹の心が壊れてしまう気がした。這い上がる事さえ難しくなる程に。少しでも雰囲気を変えていかないと駄目になる。

 樹は頷いた。

「幸雄が行くなら、オレも行く」

「それじゃ決まりだな。お前もグループLINE登録しておけよ。そこから出欠確認出来るから。あ、そういえば」

 俺は思い出した。

「樹の初恋相手、同窓会に出席ってなってたぞ」

 涙を拭き目を赤く腫らせながらも、明らかに樹は驚いていた。

「天野、出席するのか?」

「あぁ、グループLINEに参加して自分で確認、追加したらいいよ。検索掛けたらすぐに出てくる」

 樹はテーブルに投げ出されているスマホを慌てて手に取った。

「…オッケー。見つけた。こいつを登録っと。……おぉ、出てきた出てきた。随分懐かしい名前が揃っているなぁ。あ、本当だ。天野陽子、出席になっている」

「少しは楽しみが出来たんじゃないか? 告白して物の見事に玉砕だったもんな」

 樹の表情が少し、ほんの少しではあるが明るくなった気がした。

 常に仏頂面だから表情が中々読み取りづらいのが玉にキズだが。

 残酷な現実を受け入れるには、まだ長く時間が掛かるかもしれない。

 いや、受け入れる事が出来ないという場合もある。

 それでも俺は樹を見捨てたりしない。

 どんな事があったとしても。

 樹がいてくれたおかげで、今の俺が存在している。

 俺にとって唯一無二の親友、川瀬樹。

 かけがえのない、たったひとりの親友だ。

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