平野幸雄④

 三年に上がる頃には、ある程度学校に行くようになっていた。

 中川先生が担任になったおかげで、サボる事がほぼ不可能になってしまったからだ。

 よく樹と中川先生の悪口ではないけど、それなりに文句をお互いに言っていた気がする。

 だからクラスメイト達との時間は増える。

 それは俺にとっては死活問題だった。

 当時の俺はコミュ障といっていいほど、馴染むことが出来なかった。

 だが一方で、樹と知り合った事で、今までの頭の中にあったもやが、ほんの少しだけ消えていったのは確かだった。

 なるべくクラスメイトと、下手くそだけれどコミュニケーションを取る様に努めた記憶がある。それもクラス替えになったおかげもあり、心機一転には丁度良かった。

 中学最後のゴールデンウィーク。その最終日にそれは起こった。

 世間ではこの期間を使って、家族旅行をしたり、故郷に帰省しているだろう。

 テレビのニュースで、毎年取り上げられる帰省ラッシュを観ていてそう思う。

 しかし俺にとっては、地獄の日々の始まりと一緒だ。

 学校は一週間ほど休みになる。

 その間、親に顔を合わせる時間が長くなる。

 植え付けられていく暴力の恐怖。

 だから図書館に朝から夕方まで、何をする訳でもなく、通い続けていたある日の出来事だった。

今でもそれは、鮮明に覚えている。

 ゴールデンウィークは毎日、樹と図書館で過ごしていた。

 本当は受験勉強もしなければいけないのだが、俺はあの環境下では出来ないと判断し諦めていた。別に中卒でもいいし訳だし、底辺の高校でもいいから何でも良かった。

 それぐらいこの時まで本気で思っていたのだ。

 樹も多分、同様な事を考えていたかもしれない。

 図書館内で普段と変わりなく、二人で好きな本を物色し、椅子に座って黙ってお互いの選んだ本を読んでいた時だった。

 突然、響き渡る怒号。

 それは入り口から聞こえてきた。

 聞き覚えのある声。

 俺の父親だった。

 司書達が何か言っているのも聞こえてくるが、父親の怒号の方が勝って館内に響き渡っている。誰かを探している。

 その誰かというのは、きっと俺に違いなかった。

 そう思った瞬間、俺の手足は震えて、動揺と恐怖が交差してパニックになっていた。

 そんな俺を察したのか樹は俺の手を取り、館内の奥にある『書庫室』へと一緒に隠れた。

 蛍光灯のスイッチを入れると、とても薄暗く埃臭い。

 しかし隠れる場所はここしかない。

 部屋の外では父親が司書達に罵声を浴びせている。息を呑んで黙って聞くしかなかった。

 そんな俺とは対照的に、樹は冷静でドアに耳を当てていた。

 そしてドアから耳を放すと俺に隠れろと言ってきた。

 聞こえてきた内容は、『山路幸雄はどこだ』だった。

 やっぱり俺を探しているんだ。

「本棚の奥に隠れろ。もしかするとこっちに来る可能性もある。オレも隠れるから大丈夫だよ」

 言われるがまま、本棚の奥にはわずかな隙間すきまが出来ていて、俺達が隠れるのにうってつけの狭さだった。

 そこに隠れ身を潜めた。

 樹は別の場所を探して、蛍光灯のスイッチを消してから別の場所に隠れた。

 いつ入ってくるかなんて分からない。

 その恐怖に脅えるしかなかった。

 この書庫室に来ないでくれと願うばかりだが、樹の言う通りだった。

 神様なんていやしない。

 声が近づいてくる。

 明らかに少しずつ、司書達の慌てる声も交えて。

 そしてドアが乱暴に開かれた、と共に発作的ほっさてきに声にもならない悲鳴を俺は上げていた。蛍光灯のスイッチが入った。

「幸雄! どこだ、幸雄! あいつをどこにやった? おい、どこだ!」

 あいつ? 

 誰の事だ? と一瞬思ったが、今はそれどころではない。

 罵声が書庫室につんざく様に響き渡る。

「もういい加減にしてください! 警察呼びますよ? いいんですか?」

 一人の司書が父親に食って掛かってそう告げる。

 流石に警察を呼ばれるのはまずい。

 そう思ったのか、書庫室から出ていく父親。司書達もその場を後にする。

 蛍光灯が消され、静まり返る書庫室。

 しばらくしてスイッチを入れてくれたのは樹だった。そして脅えるオレの肩をさすってくれた。

 後から聞いた話だが、その時の俺はまるで譫言うわごとの様に「殺される、殺される」と呟いていたらしい。

 どれぐらい時間が経っただろうか。

 書庫室から出て、二人で何事もなかったかのように図書館を出た。

 出ていく時に貸出のカウンターで司書達がさっきの騒ぎの事を話し合っていた。このまま警察沙汰にでもなるのだろうかと、一抹の不安が拭いきれなかった。

 樹は俺の気持ちを察して、誰もいない川の土手へと自転車で連れていってくれた。 

 土手の芝生で横になる。空はいつになく青かった。

 こんなに綺麗だというのに。

 何故、自分はこんな目に合わなければならないのか。

 このまま帰ったら地獄が待っている。

「なぁ」

 まだ冷静さを取り戻せていない俺に樹が口火を切った。

「樹のオヤジさん、あいつとか何とか言ってなかったか?」

 確かに言われてみればそうだった。探しているのは俺じゃない様な気がした。

 だとしたらひとりしかいない。

「心当たり、あるのか?」

 樹が俺の顔を覗き込む。

「もしかすると、いちかさんが出ていったのかも」

「いちかさん? 誰だよ?」

「父さんの再婚相手。とは言っても正式に籍は入れてなかったはず。元々は愛人だったんだけど、その前から母さんとはもう破綻していた。それであっさり離婚してこの町でいちかさんを含めた三人で暮らしてる」

「ちょっと待ってくれ」

 樹は顎に手を当て考え込む。何かが引っかかる様だった。

「幸雄はいちかさんに対して、不快感みたいなものがない様な言い方をしている。普通浮気相手とか愛人とかが家に転がり込んできたら嫌なんじゃないか?」

 樹が言うのはごもっともだ。

 最初の頃はいちかさんに対して不快感しかなかった。

 だけど表現がおかしいかもしれないが、そんな彼女は俺に対して邪険に扱う事もなく、寧ろ八歳差の義母でありながら俺の気持ちを汲んでくれる節もあった。

 反抗期真っ只中ちゃんと正面からぶつかってきた人でもある。

 だが限界がきてしまったのだろう。

 最近はよく揉めていた。父親の酒癖、女癖についてだ。

 その度に二人は喧嘩をして、すぐにいちかさんに手を挙げていた。俺が止めに入ろうものなら、今度はこっちが標的になる。

 それでもいちかさんはいちかさんなりに、俺を守ろうとしてくれた。

 しかし反抗期が仇となり、俺がそれを拒否し始めていた時だった。

 今考えれば思春期真っ只中、素直になんてなれるはずがない。しかもこんな屈折した親子関係にある状況であれば。

 多分俺の父親から暴力を振るわれ、更に反抗期に入った子供に拒否された事で、若い彼女の居場所はどこにあるんだろう、と今にしては思える。

「いちかさん、要するに幸雄の義母だよな。その人が突然いなくなったと解釈した方が一番自然だな。それに怒り狂ったオヤジさんが幸雄が関わっているんじゃないかと勘違いしている、って事だよな。つまり今、お前の家にはオヤジさんしかいないって事になる。そうなると幸雄、このまま帰る訳にはいかなくなるぞ」

 樹の言う通りだった。

 いちかさんは出ていった。これに関しては事実だと思う。

 だがそれよりもこのまま帰宅したら、俺は一体どうなってしまうのか。

 最悪な結末が頭の中を横切る。下手すると俺は殺されるかもしれない。

「どうしよう…家には帰れない」

 頭を抱えるしかなかった。

 不安が新たな不安を呼び、正常な考え方が出来なくなっている。

 心の中を完全に支配されている。

『暴力』という名の圧力に。

「幸雄、しっかりしろ。いいか、少し色々と整理してみよう。オレも手伝う」

 樹は真っ直ぐ俺を見て、いつになく冷静だった。

本当はあんな事があった直後だから、樹自身も動揺しているはずだ。

なのにオレを不安にさせない為に毅然きぜんとした態度で、そんな雰囲気を微塵みじんも見せなかった。

「お前の母親、もしくは親戚とか近場にいないのか? 勿論母方の方だぞ」

「確か祖母ばあちゃんなら二駅向こうに住んでいるけど。母さんの実家だから」

「よし、二駅向こうに住んでるんだな? そしたら今から行くぞ」

「えっ?」

 樹の言っている事を理解するのに時間が掛かった。

 行ってどうするというのか。

 何か手立てがあるのか。

 完全に冷静さを失っていた俺には意味が分からなかった。

「えっ? ってなんだよ。今から祖母ちゃんの所に行くんだよ。二駅なら自転車でいける距離だ。それで保護してもらえ。母親に助けを求めるんだ。それだけで十分に今の状況から脱することは可能だと思う」

 しかしそんな事をしてしまったら、父親はどうするのだろう? 血眼になって探すに違いない。最悪、警察に捜索願を出すかもしれない。

もしそうなってしまったら、と考えてしまうと思考が停止してしまう。

「駄目だよ、そんな事。無理に決まっている」

 俺は譫言うわごとの様に言っていたと思う。

「そんな事をしたら祖母ちゃんに迷惑かける事になっちゃうよ。もし父さんが祖母ちゃんの家に来たら……」

 そこまで言いかけると、樹は思い切り俺の頬を叩いた。

「バカヤロウ! そんな事言っている場合か? このままでいいのか? 下手したら殺されてもおかしくないんだぞ! こんな事、幸雄には言いたくないがあんなのは父親でも何でもない! それでも良いっていうのか!」

 平手打ちされて、停止していた思考回路にスイッチが入った気がした。

 頭が正常に動き出している。樹はまるで自分の事の様に怒りを露わにしている。

 そうだ、樹がここまで俺にしてくれているのには理由がある。

 樹の両親は親戚付き合いが全くない。中学生になってから尚更不思議に思ったと言っていた。

 それまでそんなに気にも留めていなかったが、年賀状やお歳暮、御中元などの、季節の毎の付け届けが全くない事に気付いた。

 正月も帰省などもなく、自宅で過ごしていたという。

 流石にこれはおかしいと思った樹は自分で親戚筋を調べた。

 樹は親戚との接点がないものの、家のどこかに手掛かりがあると探したという。

 するとすぐ父方母方の親戚とコンタクトが取れたのだが、あの両親の息子というのが分かった途端、手の平返しで親戚との連絡は途絶える事になった。

 いつかこんな事を言っていた。

「オレって、どこにも逃げられないんだよ」

 だからだと思う。お前にはまだ逃げられる場所がある、と言い聞かせてくれている。

「幸雄のお母さんって、どんな人なんだ?」

 回想にふけっていると樹は何気なく聞いてきた。

「うーん、なんて表現したらいいのかな。いつも父さんと喧嘩してたから、そのイメージが強くて。無茶苦茶厳しい人ではあるけど、暴力なんて振るう様な事はしないかな」

「それだったら安心だな」

 樹はそのまま自転車にまたがる。

「ほら、幸雄も準備しろよ。行くぞ。祖母ちゃんの家に案内しろよ」



 それからは俺の母親から聞いた話だ。

 実はまだ離婚はしておらず、別居中だった事。

 しかし俺の痣だらけの身体を見て、泣きながら俺に謝り、本格的に離婚へと動き出した。

 父親はゴネにゴネまっくたが家裁まで持ち込まれ、虐待を明らかにする事で俺は母親に引き取られた。多分、相当な慰謝料請求いしゃりょうせいきゅうもしたに違いない。

 当然だ。

 別居中、知らない間に息子が虐待されていたのだから。

 そして俺の事を気に病んだ母親は、通っている中学校から学区外になってしまうが、なるべく近くに引っ越して学校や教育委員会まで行き、俺は変わらず樹らがいる中学校へ通う事が許された。

 母親はいつも言っていた。

「樹君に感謝しなさい。そして絶対に縁を切る様な事はしない様に。あの子は命の恩人といっても過言ではないのよ」

 全くその通りだった。

 樹がその時いなければ、俺の人生は何も変わらなかったとも思うし、もしかすると最悪この世にはいなかった可能性も高い。

 中学を卒業しても高校が別々になっても、樹との付き合いは変わらなかった。

 樹には感謝してもしきれない、そういう想いが二十四年間、俺の心に残り続けている。

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