平野幸雄③

「ほら、水を飲め。少し酔いを醒ませよ」

 俺は樹のアパートにいた。今だに足元が覚束おぼつかない樹をベッドに寝かせ、そのまま冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで樹のもとに持っていく。

「あぁ、悪い」

 起き上がり、手に取った樹は一気に飲み干す。俺は冷蔵庫に向かう途中のリビングや部屋を思い出した。

 テーブルの上や床には、酒の空き缶や空き瓶で散乱している。

 灰皿も吸い殻でいっぱいだった。フリーライターを生業としている樹だから、部屋が少し散らかっていてもおかしくはないと思っていたが、ここまで酷いのは初めて見る。

 そしてもうひとつ。樹の嫁さんがいない。

 樹は二年前に結婚をしていて、若い奥さんがいるはずだ。この部屋に入った時から人の気配が全くなかった。

 いや、待て。

 警察署まで迎えに行くのは、だいたい身内、つまり樹の奥さんになるはずだ。

 俺はまさかと思った。

「なぁ、奥さんは? 出掛けているのか? 実家に帰っているとか」

 すると樹はベッドからおもむろに立ち上がり、PCデスクの上からよくドラマなどで見る、あの緑色の紙を見せてきた。

 離婚届。

 奥さんの名前、そして樹の名前も記入してある。

「後はこれをオレが出すだけだ。中々仕事が忙しくて、出せなくてな」

 まさかこれが原因で荒れていたのか? 

 それにしては安直過ぎる気もする。

 離婚でここまで荒れるだろうか。

 人それぞれの考え方、捉え方はあるだろうけれど、ここまで自分を追い詰める様な事があるだろうか。

「忙しいって…お前、フリーライターだろう? 時間を作ろうと思えば、簡単に作れるんじゃないのか? それともこれは何かの悪い冗談か?」

「冗談? そんな事ある訳ないだろう。そんなもの、糞食らえだ。あったらこんな状況にもなってないだろう。あいつは……そう、裏切ったんだ。何もかも知っているクセして、いとも簡単に裏切ったんだ」

 何を言っているのかさっぱりだった。

 全く話が見えてこない。

 樹はいつになく憤慨している。

 こんな姿を見せる彼も珍しい。

 しかしここまで樹を変えてしまう出来事があったのは確かだ。

 そしてその怒りをどこにぶつけていいのか、分からない様にも見えた。

 樹はあまり相談をするタイプではない。

 全て自分自身で背負ってしまうところがある。

 それは今も昔も変わらない。

 良い所でもあり、彼の悪い所でもある。

 このままでは樹は壊れてしまうんじゃないか、とさえ思えてしまうぐらいにおかしくなっている。

「なぁ、一体何があったんだ? どうしたっていうんだ?」

 樹はオレを一瞥いちべつして、フッと笑う。

 その笑みが一瞬だけ、中学時代の彼に重なって見えた。

「お前にも流石に分からないよ。もう学生じゃねえんだ。馬鹿みたいに何でも話せるって訳でもねえよ。それに、幸雄にはオレの苦しみは一生分からねえんじゃねえのかな?」

「どういう意味だ?」

「幸雄、オレから見たら、お前は何不自由のない成功者にしか見えない。大学時代に立ち上げた会社も今じゃ市場に上場しようっていうぐらいにでかくなっている。結婚も、子供も…何不自由のない……」

 樹は言葉に詰まった。

 そしてそのまま黙り込んでしまった。

 普段ならこんな事は言わない。

 樹の心の闇も何も見えてこない。

 まだ、何かが明らかになった訳でもない。

 だから、始まった訳でもない。

 黙り続ける樹はまるで『あの時の自分』に見えてきた。当時の自分に。

 俺は樹に中学三年の『あの出来事』を話し始めていた。

 黙り続ける樹に淡々と。樹に嫌われようが何だろうが構わない。俺にとっては大事な、感謝しきってもしきれない出来事だから。

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