平野幸雄②

 少し過去に遡る。

 中学二年の時だった。

 俺は転校生として、卒業した中学にやって来た。

 当時は父方の苗字だった。

 平野ではなく、『山路幸雄』という名前だった。

 転校初日は無難になんとかやってのけたが、クラスメイトから『山さん』というあだ名を付けられ、皆から早速からかわれる。

 某刑事ドラマの名前からきてるにしても、古すぎるだろうと思った。こんなノリだったせいなのかどうか分からないが、俺はクラスに馴染む事が出来なかった。

 最初は誰にも馴染まず、ただ休み時間に本を読んでいたが、それでも『山さん』とからかわれ、外野の音がうるさく感じてしまい、ここに自分の居場所なんてないと、直ぐに教室とクラスメイト達を切り捨てた。

 だからといって家に帰りたいのか? 登校拒否でもしたいのか? と言われるとそう事じゃない。

 冗談じゃない。

 登校拒否なんてした日には、父親からの無限の暴力が待っている。

 父親は自営業をしていたから尚更だった。俺は格好の的になる。

 それでも唯一の救いは、母親とは言いにくいが八歳差の義母、いちかさんの存在だ。彼女が俺を庇ってくれた。

 しかしいちかさんが俺を庇うと、その暴力はいちかさんに向けられる。俺が止めに入ろうとするものなら、また俺に暴力が向けられる。

 負のスパイラル。正にそれが生まれてしまう。

 そんな日々が夜な夜な起こるのが日常だったから、登校拒否なんて考えられなかった。

 だから適当に自分が好きな教科の授業には出て、そうでもない授業には学校を抜け出して、すぐ側にある図書館で時間を潰すのが日課になった。

 当時の担任は、またか、という感じで全く俺に干渉しなかった。面倒な事が起こるのを避けたかったのだろう。

 そういう担任だったから、余計に俺の大人に対する見方は偏見でしかなかったと思う。ロクな大人がいない、見て見ぬふりをする。

 そのうちいちかさんだってこの現状に嫌気がさし、出ていくに違いない。なんだかんだ言って父親といちかさん同士が喧嘩する事もあるのだから。

 そういう現実から逃げたくて、ひとりになりたくて選んだ場所が図書館だった。

 本を読んでいる時だけ、自由になれていた気がした。何にも縛られず、嫌な事も忘れ、物語の中に没頭していく。

 それだけで満足していた気がする。

 どうせ家に帰れば、『暴力』という名の虐待が待っている。

 そういう風にされている自分に麻痺しかかっている事が本当に嫌で仕方がなかった。

 だから時間の許す限り、図書館で時間を潰そうと心に決めた。



 ある日、いつもの様に本を物色し、気になった本を手に取って椅子に座ってテーブルに寄りかかりながら読んでいると、乱暴にテーブルの上に座り読書を始める男子生徒が目に入った。

 細面でひどく仏頂面で、近寄り難い雰囲気を醸し出している。

 かといって目の鋭さが印象的で女子でいうところの『イケメン』の部類に入るのではなかろうか。

 制服が同じだから違うクラスの生徒だろう。だけど何故こんな時間に? と思った。完全に授業中の時間帯だったからだ。

 自分と同じように図書館で時間を潰しているのか。

 それより読んでいる本に目が入った。聖書だった。まさかこの分厚い本を読破しようとしているのか? 

 俺は彼に興味が湧いた。聖書なんて読んだことがないが、目の前にいる彼は既に半分以上は読んでいる。こんな奴がいるなんて初めてだ。

「ねぇ、君。椅子に座って読みなよ。マナー悪いと思うよ」

 思わず俺は彼に声をかけてしまった。すると俺の方を見て「あっ?」と威圧的な態度を取ったが、それも一瞬の出来事だった。

「そういう君は、転校してきた……確か」

「山路幸雄。三年A組」

「何だ、同じクラスじゃないか」

 彼は仏頂面をそのままに答えた。同じクラス? そうか、俺は外野を一切シャットダウンしていたから全く周りを見ていなかった。気付くはずがない。

「オレは川瀬樹。よろしく」

 これが俺達二人の最初の出会いだった。この時の樹に対しての印象はヤンキーかと思っていたが、髪は別に染めていないしピアスもしていない。だが最初の威圧的な迫力でそうなんじゃないかと思った。

 しかし冷静に考えてみればヤンキーがまず図書館にいるだろうか? もしヤンキーだったとしても読んでいる本が聖書。可笑しな話だ。

「もしかしてそれ…読破するつもりなのかい?」

 すると樹は、少し聖書の表紙を見つめ、フッと鼻で笑った。

「まさか。ただ、この世に神様なんかいないって、皮肉りながら読んでいただけさ」

 その時の樹のを、今でも忘れない。その瞳は俺と同じ、絶望という言葉が当たっている様な瞳だった。きっと樹もそう思ったに違いない。

 感じ取る事が出来たのだ。

 おそらく『同類』だってことに。

 これがきっかけになり、お互いの事を知る様になった。

 思った通り樹は両親に虐待をされていた。聞けば色々と出てきた。

 俺達のいる片田舎では、児童相談所が何処にあるか分からない、というか今のようにネットが普及している訳でもなかったから、情報すら入ってくるはずがなかった。  

 まさに児童相談所に行くレベルの内容だった。

 それは樹もそうだし、俺に関してもそうだった。毎日繰り返される暴力という名のしつけ

 今だったら分かる、行き過ぎた暴力は躾なんてものじゃない。

 当時の俺達ではどうしようもなかった。

 それに付け加えるならば『大人を信用出来ない』という、救いようのない状態でもあった。

 樹と俺の共通点はそこであった。

 よく樹は言っていた。

「聖書は読破したけど、やっぱり神様なんていねえよ。いたらこういう状況になってないはずだし、助けを求めたところで奇跡なんてものがある訳ないって事も分かったしな。あるのは現実。それだけだよ」

 確かに樹の言う通りだった。

 その頃、本当に『神様』を信じていたかもしれない。世の中何でこんなに不公平なのか。

 子供は親を選べない不公平。

 本気でその頃、そう思っていた。

 俺の父親、樹の両親も学校にバレない様に、上手く虐待をしていた。

 逆に本当に上手い虐待というのが存在するなら、見てみたいものだが。

 だから時々、樹からも俺からもよくこんな事を口にしていた。

「俺って、やっぱり変なのかな?」

 ハッキリ言って普通じゃない。お互い虐待されている者同士が仲良くなるって、流石に珍しい光景だとも思う。

 虐待そのものが日常になっていた事に、いよいよその危うさに気付き始めた瞬間だったかもしれない。

 きっとそれは長い呪縛から、少しでもいいから解き放たれたいという思いから出た言葉だったんだと、今にして思う。

 お互いに共有している秘密。こんなことクラスメイトに言えやしない。逆に、何も知らない方が良い事もある。

 そう思う反面、普通の生活をしているクラスメイト達を羨ましく思っていたのは、俺も樹も同じじゃなかったかと思う。

 だが反面教師とはよく言ったもので、樹と一緒に羨ましさと同時に、普通という事に妬みも感じていた。

 十四歳。

 その歳で世の中の不公平さを目の当たりに瞬間でもあった。

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