ぼくらの ヘドニズム

有理

ぼくらの ヘドニズム


※性的描写を含みます。苦手な方はご注意下さい


小野田 莉子(おのだ りこ)

尾野 大和(おの やまと)

葛木 凪(かつらぎ なぎ)

※途中出てくる“茅ヶ崎 誠(ちがさき まこと)”は大和役が兼役してください





必要なのは 是だけ



莉子N「カランと、音がした。」

大和N「真っ赤に染まる夕暮れに」

凪N「絡みつくヘビ座が笑う夜に」

莉子N「カラン、と音がした。」


凪(たいとるこーる)「ぼくらの ヘドニズム」


_______________


莉子N「ざらつく舌の感触。生温いそれは私の首筋を這い回る。殺さんばかりに噛み付く彼の唇は、床で溶けていくあのアイスクリームの味がした。」


莉子N「欲を求めるのが罪だというのだろうか。罪を償うにはどれほどの罰を受ければいいのだろう。」


莉子N「愚かで疾しい人間の私は」


莉子N「罪も、罰も、受け入れよう。」


………


凪「せんせ。来週の土曜空いてる?」

大和「来週の土曜は空いてますか?だろ?敬語はきちんと使いなさい。土曜は何もないよ。勉強か?」

凪「美術室使いたいって奴がいるんだ。あ、俺には勉強教えて?」

大和「美術室?」

凪「うち、美術部ないだろ?幼馴染なんだけど、C組の小野田。毎年夏のコンクールに出してんだ。」

大和「ああ、小野田さん。去年も一昨年も銀賞とってたね。」

凪「そう。美術室の窓からの景色を描きたいんだって。あの裏庭の、でっかい木。」

大和「ああ、欅だね。」

凪「今年最後だからさー。ずっと描きたかったらしいんだけどなかなか言えなかったって。尾野先生なら付き合ってくれるんじゃないかーって思って。」

大和「どうせ美術準備室の片付けもあるし、日中なら大丈夫だよ。小野田さんにそう伝えて?」

凪「ありがと、せんせ。」

大和「ありがとうございます、な。」

凪「勝手な偏見だけどさ、美術の先生って野暮ったくて話しかけづらいイメージだから尾野先生が美術教員って意外すぎる。」

大和「失礼だな。」

凪「でも実際、前いた先生もそんな感じだったよ。なのにセクハラして飛ばされちゃったけど。」

大和「こら。」

凪「先生はそんな感じしないから、いい。」

大和「はは。じゃあ土曜日な。」

凪「おう、よろしく」


大和N「散らかったままの美術準備室は、どれほど急に前任の先生が退職したのかを物語っていた。」


大和N「小野田 莉子という生徒は職員室でもよく名前が上がる。“彼女に変わりはなかったか”“怯えたような表情ではなかったか”これ程までに目をかけるのも、前任の美術教師が彼女に手をあげたからだ。僕自身何度か美術室で授業をしたが特に怖がる様子もみられなかった。」


大和N「一度しかない高校生活で、信頼すべきはずの教師に嫌な思い出を植え付けられて、可哀想に。そう思っていた」


________________


凪「莉子ー。おはよ。」

莉子「凪。おはよう。」

凪「持つよ、荷物。」

莉子「ありがとう。」


凪N「莉子とは幼馴染だった。親同士が仲がよくて、子供の頃から当たり前にそばにいる、そんな当たり前の存在だった。」


凪N「消極的で他人と連むことなくいつも1人で絵ばかり描いていた。」


莉子「凪、また美術室のこと掛け合ってくれたんでしょ。」

凪「うん。描きたいんだろ?今年も。」

莉子「うん。ありがとう。」

凪「…莉子。」

莉子「今年で、最後だから。」


凪N「何にも興味がなさそうな、ビー玉のような瞳は絵を描いている時だけ、キラキラ反射して見えた。莉子が笑っていられるなら、莉子が生き生きしていられるなら、俺は何でもしてあげようと、いつしか当たり前のように思うようになった。」


凪N「たとえそれが、よくないことだったとしても。」


凪N「たとえそれが、俺の望みでなくても。」


莉子「…凪?」

凪「ああ、ごめん。それで?今年は何描くの?」

莉子「向日葵。」

凪「あー。でも裏庭には咲いてないだろ?」

莉子「通り道に花屋があるじゃない。あそこで一輪買うわ。」

凪「夏っぽくていいね。」

莉子「そうね。」

凪「…、莉子」

莉子「茅ヶ崎先生、元気かな。」

凪「…」

莉子「今年のコンクールも、見てくれたらいいのに。」

凪「…もういないんだ。見れないよ。」

莉子「…去年の紫陽花、気に入ってくれたのにな。」

凪「莉子っ、」


凪「もう、いないんだから。早く忘れろよ。」


莉子「…うん。ごめん。」

凪「…俺も大きな声出して、ごめん。」

莉子「ううん。心配してくれてありがとう。」


凪N「大輪の向日葵を選ぶ莉子に、俺はどうしようもなく嫉妬した。」



_____________


大和「おはよう、葛木。小野田さん。」

凪「おはよう、先生。」

莉子「おはようございます。今日は無理言ってすみません。」

凪「無理矢理頼んだんじゃないって。」

大和「はは、そうだよ。僕も片づけがあって学校きてるしさ。気にしないで。」

莉子「ありがとうございます。」

大和「最後のコンクールだろ?悔いのないよう、描き上げて。」

莉子「…はい。」

大和「何描くつもりなの?」

凪「向日葵だってさ。」

大和「おお、そんなに大きい向日葵どこに咲いてたんだ?」

莉子「通り道の花屋さんで買ってきました。」

大和「え?わざわざ?」

凪「何?先生、どっかから摘んできたと思ったの?」

大和「え?!あ、そうだな、いや、」

凪「人の庭から摘んじゃ泥棒だろ。」

大和「いやいや、違うよ、こんなの咲いてるのかなーと思ってさ!」

莉子「ここまで大きいのは、この島にはあまり咲いていませんね。」

凪「花屋で1番でかいやつ選んでたもんな。」

莉子「うん。花が大きいと少し俯いて見えるから。」

大和「…」

凪「…ほら、急いで描かないと今日1日で終わんないぞ。」

莉子「うん。」

大和「え、僕も片づけ今日1日じゃ終わらないから、また描きにきてくれて大丈夫だよ。」

莉子「いいんですか?」

凪「いや、先生だって忙しいだろうし、」

大和「だから、どうせ学校にはいるんだ。気にしなくていい。」

凪「俺、他の日は部活だし、」

莉子「凪は部活行ってていいよ。私ここで描いてるだけだし、一緒にいたってつまんないでしょ。」

凪「つまんなく、」

大和「何かあったら、僕を呼んでくれたらいいし。」

凪「いや、でも。」

莉子「凪。」


莉子「何にもしないから。」


凪「…分かった。」

大和「?」

莉子「描き終わるまで枯れないといいな。」

大和「僕が水替えとくよ。枯らさない自信はないけどさ。」

莉子「お願いします。」

大和「さ、ここ、自由に使ってね。」

莉子「ありがとうございます。」


大和N「意外にも、明るい子だという印象を受けた。教育委員会のことで頭がいっぱいな先生方は大袈裟に申し送りをしているのだと思った。」


大和N「ただ少しだけ、真っ直ぐ見つめるビー玉のような瞳と、柔らかく上がる口角にどきりと心臓が跳ねた。決して開けるなと言われたパンドラの箱を目の前にしたような、知りたい、でも開けてはならないという葛藤のような、そんな気分だった。」


_________


莉子「アイス?」

凪「ん。」

大和「僕も、いいの?」

凪「うん。昼にマネージャーが差し入れくれたんだよ。でも部室冷蔵庫ないしさ。」

大和「こんなに、流石に食べきれないな。」

凪「ないの?冷蔵庫」

大和「あるよ。入れとく?」

莉子「いいんですか?」

大和「まだ描き終わらないだろうし、葛木も寄ればいいよ。」

凪「さすが先生。ありがとう。」

莉子「ありがとうございます。」

大和「どれ食べようか。」

凪「俺、これ。」

莉子「あ、それ私が食べようと思ったのに。」

大和「2人ともバニラが好きなんだ。」

凪「じゃあ、ん。」

莉子「いいの?」

凪「うん。」

大和「優しいんだな。葛木。」

凪「…幼馴染だから。」

莉子「ありがとう、凪。」

凪「うん。先生は?何にする?」

大和「じゃあ、これ。残りは準備室に仕舞っとくからまた3人で食べよう。」

莉子「はい。また3人で。」


_____________


大和N「彼女がここに通うようになって数日が経った。他愛もない世間話と、緩やかな時間だけが流れて行った。9時に葛木と共にここに来て、空がオレンジに染まる頃片付けて下校する。」


大和N「ただそれだけが少しずつ、変化していく。淡い色が重なる度濃くなるように、少しずつ、少しずつ。彼女は生徒から女になっていく。教師であることを言い聞かせ、正気を保つ。この行為自体が異常だと薄々感じていた。そして、」


莉子「先生。先生も私を可哀想だと思いますか?」


大和N「彼女はこの日、潜めていた牙を僕に突きつけた。」


大和「…そりゃあ、大変な思いをしただろうから、」

莉子「…私が油絵を描かないのは、全て塗りつぶしてしまうからなんです。」

大和「塗り潰す?」

莉子「前に描いたものを簡単に隠してしまうでしょう」

大和「…」

莉子「だから、嫌なんです。」


莉子「先生。今の私は、どう見えますか?」

大和「どう、と言われても」

莉子「まだ、可哀想に見えますか?」


大和N「カラン、と音が教室中に響き渡った。細筆が床で跳ね、赤い飛沫が飛んだ。」


大和N「途端、冷たい指が頬に絡み彼女で視界は覆われた。」


莉子「可哀想に、しないで。」


大和N「揺らぐ彼女の目は、いつも見るガラス玉では決してなかった。線香花火のように、静かに、ただ静かに。息を潜めて燃えている。」


大和N「潤んだ瞳、指をかけた引鉄は今にも引いてくれと言わんばかり。白い肌、長いまつ毛、耳の奥で警鐘を鳴らす鼓動。柔らかい感触に気付いたのはもう何度目だったのだろうか。」


莉子「…、ん、」

大和「っ、」

莉子「ぁ、せんせ、」

大和「…ごめん。」


大和N「我に返って肩を離しても、もう遅かった」


莉子「もう一回、して。」


大和N「生きた目をした彼女を、どうしてもう一度殺せようか。」


大和N「柔らかく、仄かに香るサボンは戒めの匂いがした。」


_________


凪N「両親が寄越したメールには、2人で夜ご飯食べて、と書いてあった。毎年大人だけで島を出て旅行に出かける日があった。用意された夕食を食べ、冷蔵庫でこれ見よがしに冷やしてあったラムネを差し出した。」


莉子「ラムネ?」

凪「2人で飲めってことだと思う。あと、莉子の好きなアイスもあるよ。」

莉子「毎年凪のお母さんは用意周到だね。」

凪「莉子のこと好きだもんな。うちの親」

莉子「うちもだよ。」

凪「今年は北海道だっけ?」

莉子「うん、毎年の楽しみだもんね。」

凪「そうだな」

莉子「ラムネ美味しそう。」

凪「あけようか。」

莉子「うん。」


凪N「押し込んだビー玉と引き換えに弾ける音がする。カランと落ちる音が好きで子供の頃よくラムネを強請った。」


莉子「ありがとう。」

凪「うん。」


凪N「ソファーにもたれて、どうでもいいテレビを観る。テーブルの上の瓶に水滴が伝う。暖色の間接照明が反射してオレンジの光がちらちら喧しい。思い出してしまう。黒い暗幕の向こう側で、夕日が溢れる美術室。莉子と先生を繋ぐ銀の糸。艶かしい舌が絡み合い、生気の宿った莉子の瞳。思い出す度、憎い。羨ましい。」


凪「莉子、昨日の夕方、尾野先生と何してた?」

莉子「見てたの?」

凪「昇降口で待ってたのに、来ないから。」


凪「…何もしないって、約束したろ。」

莉子「嘘だって分かってたくせに。」

凪「また繰り返すのか。受け入れてもらえるわけないだろ。」

莉子「ねえ凪。たった一度しかないの。私が高校生を着ていられるのはこれっきりなのよ。」

凪「…」

莉子「凪は見たことがないからそう言うんだよ。手をかけちゃいけないものに手をかける、あの葛藤の顔。愛おしくて仕方がないの。」

凪「莉子」

莉子「好きなものに好きだと言ってはいけないの?」

凪「莉子っ…!」


凪N「ギシ、とソファーが鳴いた。押し倒した彼女の体は柔く、いとも簡単に壊してしまいそうだった。」


莉子「…凪?」

凪「ずっと、ずっと、好きだって。俺は言ってきたのに。お前は見向きもしないじゃないか。」

莉子「それは」

凪「いつまで俺の前で、俺以外のやつに惹かれ続ければ気が済むんだ。俺でいいだろ。俺なら、誰かに反対されたりしない。咎められたりしない。俺なら、」

莉子「…でも私は」

凪「俺にしとけよ。」

莉子「ぁ、」


凪N「もっと早く、こうしておけばよかった。細い首を舐め回れば彼女の爪が背中に食い込む。カラン、とテーブルに置かれたラムネのビー玉が叫んだ。」


凪N「もっと早く、閉じ込めてやればよかったんだ。このガラス玉はどうせこの瓶を割れやしないんだから。」


凪N「もっと早く、そうして俺は星空の下、彼女をここに閉じ込めた。」


__________________


大和N「描きかけの向日葵は今日も完成することはなかった。あの日以来、彼女はここには来なかった。徐々に首を落としていく黄色。毎日陽に当て水を替えるが寿命には逆らえないようだった。」


凪「先生。」

大和「あ、葛木!お前最近、部活にも顔出してないそうじゃないか。顧問の先生から僕にも、」

凪「先生、そんなことはいいんだ。」

大和「…そんなこと、」

凪「それ、莉子の絵?」

大和「ああ、そういえば小野田さんも最近顔を見せないけど、何か知ってるか?」

凪「莉子なら家にいるよ。」

大和「そうか。もうそろそろ夏休みも終わるだろう?コンクールまで締切も」

凪「その絵、あとは俺が描くよ。」

大和「…葛木が?」

凪「莉子に頼まれたんだ。先生、そこに座って付き合ってよ。」

大和「…ああ、」

凪「あ、それと。」


大和N「窓際に佇む向日葵を、葛木はそっとへし折った。」


大和「な、なにを」

凪「莉子のために大事にしてたの?」

大和「これはその絵の為に。」

凪「先週の夕方。莉子と何してた?」

大和「っ、」

凪「だめだよ先生。カーテンはしっかり閉めないと。」

大和「ち、違うんだ!あれは、ほんの」

凪「違くないだろ。」

大和「葛木、」

凪「先生も、莉子のこと好きなの?」

大和「…」

凪「俺も。莉子が好きだ。」

大和「、」

凪「でも、莉子は違うよ。俺のことも先生のことも好きじゃない。」

大和「な、」

凪「莉子は関係性に興奮するだけだ。先生と生徒だから、禁忌だから。だから、興奮するだけ。」

大和「何言ってるんだ」

凪「諦めなよ。先生。」

大和「…たしかにいけないことだ。生徒に手を出すなんて本当にいけないことをしたと思っている。葛木、でもな。小野田さんの目を見たか。あんなに生き生きした目あの子もできるんだよ。」

凪「先生…」

大和「教師として失格だ、分かっている。だけど、あんな目を見せられたら…葛藤はしたさ。でも僕だって男だ。彼女がそれを望むなら僕は支えてあげたいとも思った。」

凪「先生。前任の先生が今どうなってるか知ってる?」

大和「退職されて、遠くの町に、」

凪「違うよ。失踪したんだ。」

大和「失踪…?」

凪「誰にも見つからない。」


大和N「葛木が手にした筆にはあの日の赤い絵の具がついたままだった。」


凪「俺が沈めてやったんだ。足を括って海の底へ。」

大和「葛木、何を言っているんだ。」

凪「先生。先生は、莉子のために我慢できるか?」


凪「莉子のために、死ねるか?」


大和N「夕焼けに滲む向日葵を、淡い黄色を、赤く赤く、掠れた色で塗り潰していく。」


凪「俺はできると思ってた。」


大和N「彼女が描いた淡い世界を、原色のまま潰していく。」


凪「でも、できなかったんだ。我慢できなかった。」


凪「だから、閉じ込めてやった。親に都合のいい嘘をついて、莉子を俺の部屋に閉じ込めた。この場所にも行かせないようにドアを塞いだ。ようやく2人きりになったんだ」


凪「なのに、俺は、」

大和「…葛木…?」

凪「ずっと、莉子だけが狂ってるんだと思ってたんだ。そんな莉子でも俺は受け入れられるって、俺が正しく変えてやるんだって。」

大和「…」

凪「あいつを閉じ込めて、2人きりでいれば幸せになれると思ってたんだ。死んだ魚のような目でも、生きることに諦めてしまった目のままでも、好きになったから。でも、違ったんだ。」


凪「俺、誰かに抱かれてる、生きてる莉子がもっと好きなんだ。」


大和「何、」

凪「とち狂いそうになる嫉妬心に、どうしようもなく興奮する。あいつだけじゃない、俺も、どっかおかしいんだ。」

大和「葛木、」

凪「先生。助けてくれよ。喉が乾くんだ。ずっと。先生が先生でいる間、あいつを、莉子を、」


大和N「思春期の男子生徒が、僕の前で縋るように号泣した。その光景は酷く刹那的で劣情に溺れる思いだった。」


凪「抱いて、くれよ。」


大和「っ、」


大和N「僕もまた、どこか、おかしくなってしまったのかもしれない。」


________________


莉子N「前任の茅ヶ崎 誠先生は、おどおどしていて吃りがちであまり生徒といい関係を持てない教師だった。」


莉子N「一昨年の夏。裏庭でコンクール用の絵を描いていると話しかけられた。“暑いでしょ。よかったら美術室使って”って。授業中とは少し違う、優しくて屈託のない笑顔だった。」


莉子N「少しずつ仲は深まっていき、夏休み明け、授業中に交わすアイコンタクト。次の年の梅雨には放課後美術室で2時間ほど絵を描いて、部活終わりの凪と下校する、この生活がルーティン化した頃、先生が少し変わっていった。」


茅ヶ崎「っあ!ご、ごめん、」


莉子N「落ちた消しゴムを拾おうとした時、不意に触れ合った指先。赤面した先生の目は右往左往に泳ぎ回りすぐ俯いた。ああ、先生は私が好きなのだ。そう確信した。」


莉子「いいえ。ありがとうございます。」


莉子N「頬を緩め笑いかけると、さらに顔を赤らめ窓の方を向いてしまった。その、ひたすらに抑えようとする表情に酷く欲情した。だから、ほんの出来心でキスをしてやった。ほんの出来心で腰に手を回してやった。ほんの出来心で情事に手を伸ばしてやった。」


茅ヶ崎「小野田さん、僕、教師をやめるよ。」


莉子N「今年の春、彼はそう言った。教師を辞めて、私との交際を真剣に考えていると、そう言った。吃る事なく、言い放った。その瞬間、ほんの出来心は桜のように霧散した。」


莉子「…先生を辞めるだなんて、言わないで。今のままでいいじゃないですか。」

茅ヶ崎「いけないよ。教師と生徒はこんな関係じゃ駄目だ。僕は教師失格だよ。でも、君と一緒に生きていきたいんだ。真剣に考えてる。」


莉子N「全くもって興奮しなかった。先程まで感じていた胸の奥の熱も、脈打つ感覚も、なんにもなくなっていた。私は、この関係性に欲情していたのだと冷めた後に気がついた。」


莉子「私は、先生が好きなんです。」

茅ヶ崎「僕も、小野田さんが」

莉子「先生でないあなたには興味ありません。」

茅ヶ崎「へ?」

莉子「だから、辞めないでください。後一年このまま」

茅ヶ崎「…な、ぼ、僕はっ、君と真剣に、」


莉子N「混乱した先生は私の肩を掴むと大きく揺さぶった。天井がぐらんぐらん回り、大きな音がした。私を突き飛ばした音だった。そして、」


凪「何してんだ!」


莉子N「凪の叫ぶ声がした。ぼんやりと見えるのは先生の胸ぐらを掴み怒号を浴びせる凪。そして、紫陽花の挿さったガラスの花瓶を掴み、頭へ振り下ろそうとした。」


凪「…り、こ…?」


莉子N「額を伝う生温いものは鉄臭くて。ただ、どうしてか、痛くはなかった。」


茅ヶ崎「あ、ああ、あ…」


莉子N「赤い絵の具のついた花瓶。泳ぎ回る目。途端、床が花瓶を粉砕し、先生は美術室から逃げていった。」


凪「…莉子、血が、」

莉子「大丈夫。少し切れただけよ。」

凪「っ、あいつ、ぶっ殺してやる。」

莉子「いいの。…ねえ、凪。こんなところで何してたの?部活は?」

凪「…」

莉子「?」

凪「…たまたま、通りかかったら見えて。2人が抱き合ってるのかと、思って…」

莉子「…そう。」


莉子N「凪の手は、ドクドクと強く脈打っていた。顔を覗くと目は血走り、瞳孔が開いて揺らめいていた。欲情溢れる顔、あの日の私と同じ。だから、私は」


莉子「可哀想に」


莉子N「床に横たわる紫陽花を愛おしく手に取り、彼に手渡した。」


凪「…え、」

莉子「落とされて可哀想にね。」

凪「…」

莉子「凪にあげる。絵は描き終わっちゃったから、先生にあげようと思ってたの。代わりにあげる。」

凪「…うん。」

莉子「私、箒と塵取りとってくるね。」

凪「…」


凪「俺が、あいつの代わり…、っ」


凪「クソっ、絶対、絶対ぶっ殺してやるっ、」


莉子N「出て行った後、紫陽花を何度も踏みつける凪が、可哀想で可哀想で、初めて愛しく見えた。」


_________


大和「おはよう。葛木。小野田さん。」

莉子「おはようございます。」

凪「…おはよう。先生。」


莉子「先生。私達は可哀想に見えますか。」


大和「…いいや。」


凪「先生。」

大和「葛木、部活は?」

凪「うん。行くよ。ちゃんと行く。」

莉子「折れてしまったんですね。ひまわり。」

大和「…僕が倒してしまったんだ。」

莉子「残念ね、凪。」

凪「…うん。」

莉子「でも、まだ咲いてるから綺麗に描いてあげなきゃ。」

大和「あ、でも、」

莉子「赤に潰したのは先生ですか?」

大和「…、」

凪「俺だよ。最後のコンクールくらい一緒に出たくて。」

莉子「見てて。」

大和「…綺麗にぼかすね。夕焼けだ。」

莉子「夕日って情緒的ですよね。」

凪「そう。」

莉子「だから、先生は夕日のせいにしたらいいです。」

大和「…夕日のせい、」

莉子「ね。凪。」

凪「…俺、部活行く。」

大和「葛木、」

凪「先生。莉子のこと、よろしく。」


莉子「…先生。ヘドニズムって知ってますか?」

大和「ヘドニズム?」

莉子「快楽主義、欲に抗えない私達みたいですね」

大和「…小野田さん。」

莉子「愚かで疚しくて。」

大和「…僕は」

莉子「気持ちいいことをする事の、何がいけないんですかね。」

大和「正しいよ、間違ってない。」

莉子「ね、先生。」


莉子「可哀想に、しないで。」



凪N「暗幕を握りしめて下唇を喰む。鉄の味はじわじわと口内へ広がっていく。この感情のせいだ。狂った感情のせいだ。ゆらめく影。へし折ってやった向日葵が憎らしくこちらを睨んでいた。」


大和N「柔らかな感触に少しずつ蝕まれていく。罪悪感と偽善。折れた向日葵が僕を笑う。渦巻く感情が気持ちいい、今だけ、あの落ちていく太陽のせいにしてしまえ。許されるはずだ。腕の彼女は、ほらこんなに生きているのだから。」


莉子N「私を貪るこの人も、あの隙間から殺気を放つあの人も、みんなみんな今を生きている。快楽のままに生きている。明日のことなんか知らない。今、今だけを生きている。可哀想だと言わないで。羨ましいでしょう。あなたも本当はこうしたいくせに。」


莉子N「これがぼくらの ヘドニズム」



……………………


#風鈴と炭酸会

テーマ:ひまわり、ビー玉、アイスクリーム


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ぼくらの ヘドニズム 有理 @lily000

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