第37話
理科室で、纏愛に無機化学の実験を行ったときだ。
彼女が転びそうになり、それを庇った故に汚れてしまったネクタイが、纏愛の部屋にあるのだ。
「なんで、これが……?」
呟き、記憶を遡る。
たしかにあの時、自分の手で捨てたはず。
なのに、何故こんなところにあるのか。
「それ、纏愛が持って帰ってきたんだよ」
困惑している俺に、カンタが声をかける。
目を見開いて、振り向く。
カンタは怒っているようで、悲しそうな。
複雑な表情を浮かべていた。
そして、思い出す。
あの実験の片付けの時。
やたらとごみ箱を自分で片すと駄々をこねていた、纏愛の姿を。そして、準備室の中にもごみがあるのではないかと、俺の秘密基地を見られ、写真を撮られた。それを脅しに使い、毎日のように昼食の時間を共に過ごす日々が始まったのだ。
纏愛は、話を逸らすのが上手い。
それは以前にも、俺が夢葉さんにラブレターを渡した際、友達ができたのかと尋ねた時も、いつの間にか俺のデリカシーの無さについて、話題がすり替わっていた。
このネクタイは、もっともっと前のことだ。
あの子は、そういうことに長けていた。俺が気づいたのは、本当につい最近のこと。だからこそ、あのネクタイのことに気付けていなかった。
いわば、会話の魔術師と呼ぶべきなのだろうか。
纏愛のその実力に、俺は今、圧倒されている。
「俺や夢葉に、このネクタイをどうやって洗えばいーかって、必死に聞いてきたんだよ。ミッチーが気に入ってたネクタイだから、元に戻れば喜んでくれるかもしれない。そーやっていろいろ頑張ったけど、結局シミが残ったままでさ」
カンタの言葉が、異様に、異常に重かった。
「あいつ、そんで泣いてさ。部屋に閉じこもって、泣いてたんだよずっと」
「纏愛が、泣いてた……?」
彼の言葉に、嘘偽りは無いのだろう。しかし、信じられなかった。いや、想像ができなかった。何故なら、彼女に涙は似合わない。纏愛に似合うのは、満面の、楽しそうな、いつもの悪戯なあの笑顔だ。
いや、待て。
カラオケ屋で、俺は彼女を泣かせたじゃないか。
それすらも今、ど忘れしていた。
なんでだ。
なんでだ。
四文字がずっと、頭の中で行き来する。
だからこそ、と思う。
あのとき、俺の前で見せた涙の意味を。
「ミッチー気づかなかっただろーけどさ。あいつはミッチーのことになるとすっごく必死で、ずっと努力してたんだよ。俺に料理を教えてくれって言った時も、ハンバーグ作るの失敗しちゃって、すっごい落ち込んでた。もーいっかいやりたいって。綺麗なのを食べてほしーって。でも俺は違うと思ったから、そのまま持たせた」
カンタの言葉で、何か腑に落ちたものがあった。
昼休みに、纏愛がモジモジしていた理由。
弁当箱を開けた際、カンタが作ったことを強く主張していた理由。
そして自分が失敗して落ち込んでいることを悟られないよう、食べることを急かしたり、渡してきた箸が夢葉さんのものだと思うか訊いて悪戯してみたりと、彼女なりに自分のことを見破られないように、頑張っていたんだ。
だから、あの時に俺に見せた涙は――いや、見せてしまった涙は、彼女が耐えきれなかった証拠だ。
纏愛は、俺のために何度も何度も頑張った。
泣いて挫けても、話題を逸らして、必死に自分の弱い部分を隠して、俺に見てもらえるようにと。
涙は見せない。きっとそう決めていたのだろう。
けれど、溢れてしまったんだ。
それは纏愛がずっとやってこなかったこと。
でも、限界が来てしまったんだ。
俺の言葉で。
「他にもさ。ミッチーに言葉を学べって言われたから辞書買ってきたって、すっごい嬉しそーに報告してきたときもあった。でも、人の心を掴むような文章が書けないって言って、夢葉に相談して、いっぱい手紙、書いてたんだよ」
その時、はっとなって。
俺は鞄に目をやる。
そういえば、彼女の手紙をまだ読んですらいなかった。
なんて最低な野郎なんだ、満道光秀は。
書いてきてくれた手紙も読まずに、教師と生徒としての関係性だけで、纏愛を突っぱねるようなことをした。
「……悪い、カンタ」
「なにが?」
「少しだけ、ここで一人にしてくれないか」
「……いーよ。でも、身体はちゃんと拭いてよね」
「あぁ、わかった」
そんなやりとりをして、カンタは纏愛の部屋を出て行ってくれた。
はぁ、と深いため息を吐いて、俺はしゃがみ込む。髪の先から、ぽたぽたと雨水が垂れていく。それをタオルで拭き、もう一度自分の髪の毛を拭く。
バスタオルを下に敷いてから、俺は鞄を開ける。
中には、纏愛からもらった手紙が入っている。濡れずに、もらったときと同じ状態で、俺に顔を出した。
それに少しホッとして。
俺は手紙を開いた。
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