第31話

「ミッチーバカなの」

「いや真面目に言ってる。頼む、思う存分やれ」

「一発じゃないの……ボコボコにしてほしーってこと……?」


 珍しく纏愛がツッコミを入れた。


 俺は動じず、瞬きも我慢し、纏愛の目をじっと見つめた。

 こういう伝え方も、きっとある。


「うーん……じゃー、一発だけ」


 そう言って、両者立ち上がる。

 椅子に座っているとボコボコにできない。


 お互い距離を取る。


 一人は準備運動。

 一人は不動。大股で仁王立ちをしている。


「それじゃ……ミッチー、行くよ」

「かかってこい」


 そして、纏愛が動き出す。


 一歩目は左足。


 腰を捻り、振り上げられたそれは、大きな弧を描くように。


 俺の股間へと、纏愛の右足がクリーンヒットする。


「ぐっ!」


 両手で抑えつつ、俺は膝から崩れ落ちた。


「いやー、一回やってみたかったんだよねー」

「おま……殴れっ、て、言っただ、ろ……」

「えーやだよ、ミッチーをボコボコとか。これなら一発KOでしょ? 一応手加減はしたつもりなんだけど……だいじょーぶ?」


 そんなわけあるか!

 と言いたかったが、それどころじゃなかった。


 なんたってこんな解釈を……。


 普通殴れって言われて、蹴りを選ぶやつがいるか。


 ん? 解釈?


 そうか、これだ。


 俺が欲していたもの。


「わかった、わかったぞ纏愛……」

「え、なに。変な扉開いちゃった?」


 息子よ、少しだけ我慢してくれ。

 痛みとも言い難い苦しみに耐えつつ、そして倒れながら、俺は纏愛に伝える。


「いいか纏愛。『言葉』だ」


 強く、強く言う。


「俺の好きな言葉があってな……聞いてくれるか」

「う、うん」


 戸惑いながらも、彼女は返事をしてくれた。


 そりゃ、股間を攻撃されて悶絶している人から教えをもらうなんてこと、戸惑うに決まっているよな。


 だが、今伝えるしかない。

 ここまで身体を張って言う教師の一言は、頭に深く記憶されるはずだ。


「『人を育てるのは言葉だ』。例えば、今日の国語の点数。何点だった?」

「えっと、六十点……」

「俺はこの点数を見て、なんて言った?」

「えっと……すごいじゃないか、だっけ?」

「そうだ、正解だ。じゃあ仮に、もし違う誰かがお前の点数を見て、『え、得意にするって言っててそれしか取れないの?』って言われたら、お前はどう思う?」


 訊くと、纏愛はしばらく答えを返さなかった。

 これは、人によって違うものになる。

 だが、彼女はきっと――。


「……ムカついて、殴るかも」

「そうだろな、きっと」


 しかし、今日はそんなことをしていない。あぁ、俺に殴れって言われて股間を蹴ったのはノーカンで。


「もしお前が殴ってたら、纏愛はどうなっていると思う?」

「……今度こそ、停学?」

「いや、最悪退学だな。場合によってはお前がやりすぎたりしたら、警察沙汰。逮捕される可能性、夢葉さんの会社にも迷惑がかかるかもしれないし、カンタも職を失う可能性だって、いろいろ考えられる」


 言うと、纏愛の表情が変わった。

 もし、自分がカッとなって、そういう行動を起こしてしまった場合。


 自分が今まで持っていた幸せだったり家族だったり。

 そういうのをすべて、失う可能性がある。

 それを、想像しているのだろう。


「いいか纏愛。『言葉』を学ぶんだ。暗記するだけじゃない。その『言葉』を選んで、使えるようにするんだ」

「『言葉』を学んで、選んで、使う……?」

「そうだ。俺も言葉を選ばなかったら、もしかしたら、お前が殴るような言葉を使っていたかもしれない。だけど、俺はそれを使わなかった。言葉っていうのは人に大きな影響を与える、恐ろしい力を持っているんだよ。だから、選んで使うことが大事だし、そのレパートリーを増やすこともまた、大切なんだ」


 俺は苦しみに耐えながら、立ち上がる。

 複雑な表情を浮かべている彼女の元へ歩み寄り、頭にポンと手を乗せて。


「『言葉』を知れば、その人が言いたいこと、伝えたいことがわかる。前に一度、言葉は一回じゃ伝わらない時があるって言ったろ? 『言葉』を知ることで、相手のことを知ることで、それが一回で伝わることもある。だからな、『言葉』を知れば、きっと纏愛も、国語を好きになれると思うし、得意になれる」


 そう言って、俺は彼女の髪をくしゃくしゃになるまで撫でてやる。それに嫌がる纏愛は、俺の手を払いのけて。


「……セリフ、長い」

「悪いな、本音で言った」

「……わかってる」


 そんなこんなで、俺たちは残りのテストの反省点の洗い出しをすることにした。

 時間は経ち、下校時間。


 いつものように、「じゃーね、ミッチー!」と元気よく帰る彼女を見送って、俺は理科室へと戻る。


 準備室を片付け、カギに施錠をし、理科室を出る。


 すると、雨が降り始めた。

 そろそろ、梅雨だ。


 今日、傘持ってたっけな。

 というか、纏愛は傘持ってなかったな。


 一応、連絡してみるか。

 そう思って、俺はスマホを開く。


 すると、メッセージが何件か。

 アプリを開くと、写真が一枚。


 纏愛の部屋で、彼女が辞書を持って自撮りしている写真だ。


『これで勉強する!』


 と、元気そうな文章が下にくっついていた。


「……ちゃんと帰れてるなら、大丈夫か」


 安堵のため息を吐き、俺は『がんばれ』と短く返事をした。


 俺、今日どうやって帰ろうかな。

 そんなことを考えながら、職員室へと向かった。

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