第20話

 纏愛が俺の好物を聞いてから、ある程度日が経った、昼休み。彼女は珍しく、お弁当箱を二つ持っていた。


 今日は朝からよほど腹が減っていたのだろうか。

 しかし、それにしては彼女の様子が変だ。


 なんというか、モジモジしている。


「……えっと、なんだ?」

「な! なんだっていうのは、なんでしょうかね!」

「いや、動揺しすぎだろ……」


 声を裏返し、纏愛は顔を真っ赤にしていた。

 そんなに恥ずかしいことがあるのか? その弁当に。


 だとしたら、何があるだろうか。


 よくあるパターンとすれば……カンタの弁当と同じものを使っていて、二つともご飯が入った方を持ってきてしまって、おかずが無い。


 そんなところだろうか。


 残念なことに、俺は通常運転。栄養食品しか持ち合わせがないため、お世辞にもご飯に合うとは言えない。

 この仮説が正しいとするなら――困ったもんだ。


「……とりあえず、なんだ。話してみろ」

「……」


 話しかけてみるが、纏愛は返事をしてくれない。

 ふむ、これではこちらからのアプローチが難しくなってくる。


 他に、他になにか、纏愛が話してくれることは――。

 そんなことを考えていると。


「……これ、ミッチーに」


 と、静かにお弁当箱を一つ、俺に差し出してくれた。


「……」


 言葉を失い、頭が真っ白になる。

 コレヲ、オレニ?


「お、お礼! お礼だから!」

「……なんのだ?」


 最近はお礼をされることをしていないので、全く見当がつかない。

 面倒を見ているお礼なのであれば、纏愛からではなく、カンタ夫婦から来るのが道理だとは思うのだが。


「ほら、最初の頃――おじさんに無理矢理別の場所に連れていかれそうになった時、助けてくれたじゃん!」

「あぁ……」


 そういえば、そんなこともあったな。

と、俺は纏愛と二人で、中年男性から逃げ切ったあの日の夜を思い返す。あの日、夢葉さんと再会し、カンタとも再会し、こうやって纏愛の面倒を見ている。


 たしかに、彼女からしてみれば、俺にお礼というお礼をしていない、ということになるのだろうか。


 教師としてきちんとしたことをやっただけ、という認識が強く、あまりピンと来ない。しかし、纏愛がお礼をしないといけない、と思ってくれたのは、素直に嬉しい。


 人としてもそうだが、纏愛が成長しているという証にも思えて。


「……あ、開けてみてもいいか?」

「あ、開けないと食べられないでしょー!」


 言われてみれば、それもそうだ。

 それじゃ、と一言置いてから、俺は弁当の蓋を開ける。


 中には、以前、俺が好物と言っていたカレイのから揚げが入っていた。しかも、きちんと骨まで別で揚げてある。このまるまる揚げた骨、せんべいのようなパリパリとした食感を楽しむのも、この料理の醍醐味だ。


 これをわかっているのは、カンタくらいだろう。きっと、纏愛が俺の好物を言って、彼に作ってもらったのだろう。


 そういえば、カンタの料理を口にするのは、これが初めてだ。教え子が仕事に就き、そこで磨いた腕を、こういった形で見ることが、食すことができるとは。


 感慨深い、とても感慨深い。

 だけど、だけど。


 隣には、丸焦げの肉塊がぽつんと。

 あ、お邪魔します、みたいな存在感で。

 なんかいる。


「こ、これはカンちゃんが、作ってくれたやつだから!」

「えっと……隣のは?」

「…………ハンバーグ」


 纏愛は小さく答えた。

 焦げた肉塊の正体は、ハンバーグらしい。これも、俺の好物。この間話したもの二つを、お弁当にして作ってきてくれたのか。


 でも、すっごく黒い。

 こんなにも焦がしちゃったの?


「そうか……カンタはカレイのから揚げはこんなに美味しそうに作るのに、ハンバーグを作ったらこんなに真っ黒なものを、お客さんに出してる料理人だったんだな……」


 残念そうな表情をわざと浮かべ、俺は呟いた。

 すると、纏愛は焦った様子で。


「ちがっ! から揚げはカンちゃんが手伝ってくれて! ハンバーグはその、私が調子に乗って……」

「ほほう」

「だから、カンちゃんはちゃんとしたシェフだよ……!」

「わかってる。かまかけて悪かったな」


 そう言って、俺は纏愛の頭を撫でた。


 無意識に。


 あれ?


 そう思ったときには、俺は彼女から手を離し、弁当の中身に視線を向けていた。

 なんで俺は今、纏愛の頭を撫でたのだろう。


 これはいけないことだ。


 生徒と教師。俺が纏愛に手を出すことは、決して許されない。それを一番、解っているはずだ。理解し、納得し、注意していたはずだ。


 なのに、無意識に俺は纏愛に触れた。


 何故だ、どうしてだ。


 これでは、セクハラと言われても何も言い訳ができない。


 おそるおそる、目線を纏愛に向けてみる。


 しかし、纏愛は唇を尖らせて、拗ねている様子だった。ハンバーグを丸焦げにしたことがバレて、へこんでいるのだろうか。


 本人が気にしていないのであれば、セーフ……なのか?

 だとしても、だとしてもだ。


 今後、纏愛との距離感も、きちんとしたものにしておかないといけない。

 教師としてしっかりしなければ。

 猛省をしていると、纏愛が。


「ねー、早く食べたら?」


 カレイのから揚げ、と付け加えて。

 どれだけハンバーグのことで拗ねているんだ。


 と言っても、俺も彼女と同じだ。切り替えることができてない。猛省はした。これからは気を付けるし、きちんとした距離感で纏愛と接する。


 今は、こうしてお礼を――美味しそうなものを食べる時間を、楽しもう。


「はい、ミッチーのお箸」

「おう。ありがと」


 纏愛から箸を手渡しされる。


「それ、ママの箸だと思う?」

「な、なんでそこで夢葉さんが出てくる!?」

「じょーだんだって! それ私が使ってるやつだから、安心して」

「お、おう……」


 なんだよ、ちょっとびっくりしたじゃないか。

 人妻が普段使っている箸をお借りするなんぞ、社会人としてあるまじき行為だ。


「じゃ、いただきますか」

「はい、召し上がれ」


 お互いに一言ずつ。


 その後、俺はカレイのから揚げを一つ、箸で掴む。何年ぶりにこれを食べるだろう。少なくとも、教師をやっている間は食べていなかったから……十年以上前になるだろうか。


 ポン酢で食べるのも良いが、俺はまずそのままで頂くことにした。


「……うん、美味い」

「ミッチー、もうちょっとこう、美味しそうなコメントとかないの?」

「食レポを求めるな。俺は教師だ」


 ちぇー、と言いながら、纏愛は自分の弁当箱を突き始めた。ちらっと見てみると、纏愛にも、カレイのから揚げが入っていた。それを一口、運んでみると。


「んー! 美味しい!」

「おいおい纏愛さん。もっと美味しそうなコメントは?」

「ミッチーができないなら私にもできませんー」


 そう言って、二人で笑い合う。


 箸が進むに連れ、どんどん中身は胃の中へと消えていく。途中、纏愛がこっそり持ってきてくれたポン酢をかけ、味変をする。うん、美味い。


 ぱりぱり、と丸ごと頂ける骨も、噛むたびに味が出てくる。


 一通りカレイを食べ終えた俺は、黒い塊に目をやる。その様子を見た、纏愛は、大きめな声で。


「こ、焦げてるから、食べなくていいよ!」


 と言う。

 ふむ。

 俺はすかさず、黒いハンバーグに箸を伸ばし、頬張る。


「……うん」

「うん、って、え!? なんで食べるの!?」

「言ってなかったか? 俺はハンバーグの中でも、焦げたハンバーグが特に好きなんだ。うん、久しぶり食べると美味いな。さすがカンタの娘だな。そこまで見切ってるとは――ぐほっ」


 食べている途中で喋ってしまったため、思い切り咽てしまった。

 ごほ、ごほ、ごほ。

 纏愛がペットボトルを差し出してくれる。手に取り、必死に飲み干す。


「今のセリフ長かったけど……絶対見栄張ってるでしょ!」

「そんなことない。俺が食べたいから、食べているだけだ」

「ウソだー! 生徒が作ってきたものだからって、気遣って、無理してるだけでしょ!」


 ミッチーそういうの気にするもんね! と付け加えながら。

 纏愛は俺に指差した。


 俺は咽てしまった喉と息を整理してから、答える。


「そうじゃない、これはきっと、纏愛が俺においしいものを食べさせようとしてくれて、その気持ちが籠ったハンバーグなんだろ? ただ、俺はそれを食べたかっただけだ。ハンバーグが好きっていうのは……見栄張った」


 言うと、纏愛は返事をしてくれなかった。

 困った表情で、目が泳いでいる。


「だからいいだろ、食べても」


 訊いてみると、今度は答えてくれた。


「うん……いいけど?」


 苦いハンバーグに何度も咽ながら、俺は纏愛の気持ちを受け取った。

 久しぶりに食べる誰かとの食事は、楽しくて、美味しかった。

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