第13話
纏愛にゴーグル、そして手袋を装着させ、実験の準備が整った。念のため、俺も同じように装備する。違う点があるとすれば、俺は教師だ。白衣を着ている。
「それじゃあ、実験を始めるぞ」
「それはいいんだけどさ、ミッチー」
「ん? なんだ?」
「これ、なんの実験なの?」
「良い質問だ。これは『金属イオンの沈殿反応』という実験だ」
そう言って、俺は立てかけられている八本のうち、一つを手に取って纏愛に見せる。
「これ、さっきお前が媚薬って言ったやつな。この中に入っているのは、実は全部金属なんだ」
「え! 金属……?」
不思議そうに試験管を眺める纏愛。
食いついた食いついた。
「そう。正確には金属イオンっていうものなんだけどな」
「ほんとに? 水にしか見えないけど……」
よし、と俺は内心でガッツポーズをしてから。
「それだよそれ。見た目で判断しちゃダメなんだ。相手を知ることは、内面を知ること、考え方を知ることが重要だ。今日はその、内面をこの実験でお前に教えようと思う」
「えー……そんなんでわかるもんなの……?」
「ものは試しだ。なにせ、実験っていうのは、そういうものだろう?」
ふむぅ、と少し納得のいっていないようなご様子の纏愛。
だが、金属が液体になっているということには食いついてくれた。その事実は、今回の実験を楽しめる大きな要因に成り得る。
「さて、それじゃあ始めるぞ」
「はぁい」
右手で欠伸を抑えながら、纏愛が答えた。
「まずは、試験管に何が入っているかを説明しよう」
そう言って、俺は八本の試験管を立てかけるスタンドを二つ、纏愛に見せる。
アルミニウム、鉄、銅、銀の四種類の試験管を用意してある。今回は変化を見せたかったので、それぞれ二本ずつ準備した。四本を二本ずつで八本。
これらの試験管の上部にはきちんと「アルミ」「銅」「鉄」「銀」とわかりやすくラベルを貼っておいた。本当ならば元素記号を使いたかったところだが、纏愛が文系か理系か、まだ俺にはわからない。どっちでもわかりやすいように、日本語で書いておいた。
「この四種類の試験管に、あるものを入れていく。それで試験管の中身がどう変わるか。これが実験の大まかな流れだ」
まずは、と先に話した水酸化ナトリウム水溶液のボトルを手に取る。
これを入れて、四種類の金属はどう反応するのか。
「こいつを一、二滴、アルミの試験管に入れてみてくれ」
「う、うん。わかった」
「そっとだぞ。そっと」
「わかったって!」
纏愛の手が、少しだけ震えていた。
緊張でもしているのだろうか。
漫画ばかり読んでいるとなると、これで爆発しないかな、とか思っているのだろうか。少なからず、この実験では、そんなことは起きない。
「い、いくよ」
そう言って、纏愛はアルミの試験管に水ナトを入れる。ボトルに少し力を籠めれば、一滴ずつ出るような仕組みのそれは、うまい具合に二滴、試験管の中へと入っていった。
「よし、そしたらそれを少し振ってみろ。縦にじゃないぞ? 円を描くように、ゆっくりと横にな」
「こ、こう?」
「そうそう、上手いじゃないか」
褒めてやると、そう? と纏愛は少しだけ嬉しそうな笑顔を浮かべた。
ふと、記憶が蘇る。
服を選んでくれと頼まれた時、こっちのほうが似合いますよ、と言った、あのデパートでのこと。
『そう?』
夢葉さんは今の纏愛と、同じような表情をしていた。
親子なんだな。
そう思った。
「ミッチー、なんか白くなったー」
「お、どれどれ」
試験管を振り終えた纏愛が、俺を呼んだ。
うん、ちゃんと化学反応が起きている。
「上手いじゃないか。これが沈殿反応だ。白くなっただろう?」
「うん。でもなんか、パッとしないね」
「ふっふっふ、それはこれからだ。纏愛、次は鉄だ。その黄色い液体の入った試験管に、水ナトを少量入れてみろ」
わかったー、と簡単に返事をして、纏愛は先にアルミの試験管をスタンドに戻し、それから鉄の試験管を手に取った。
「さっきと同じ感じ?」
「そう、さっきと同じ感じ。二滴くらい入れて、振ってみろ」
言われた通りに、纏愛は水酸化ナトリウム水溶液を入れようとする。
しかし、一度褒められて気が緩んでしまったのか。
五滴くらい入れてしまった。
「おま、入れ過ぎだ!」
「え、あ、ごめん!」
纏愛は腰を引き、試験管を持つ手をピンと伸ばしておどおどし始めた。
さては、まだ爆発すると思っているな?
「まあ大丈夫だ。ただ色の変化を見てもらいたかっただけだから。そのまま振ってみ
ろ」
「え、大丈夫なの? 爆発しない?」
やっぱりそう思ってたか。
「しないしない。安心しろ。ほら、振ってみろ」
「う、うん……」
恐る恐る、試験管を振る纏愛。
すると、黄色だった液体の色が変化した。
「え、なにこれ」
「これが鉄の沈殿反応だ。すごいだろ」
「すごいっていうか……なんかコーラみたいな色」
「コーラか、それは良い表現だ。けど、飲んだりするなよ?」
「しないよ!」
強めに言いつつ、纏愛は再び試験管をスタンドに戻した。
「見ればわかると思うが、アルミは透明から白、鉄は黄色からコーラ色になった。入れたのは二つとも同じ。水酸化ナトリウム水溶液だ。同じものを入れたのに、色が違うっていうのは、不思議だろう?」
「うん、アルミが白だから、鉄は真っ黄色になるのかなって思ってた」
「そうだろうそうだろう。これが化学だ。では、これが相手を知る上でどう繋がるかを説明するぞ」
そう言って、俺は自分の着けているネクタイを外した。
グッと持ち、纏愛に見せる。
「纏愛、これを汚したら俺はどうなる」
「めっちゃ怒る」
「大正解。じゃあ、カンタのネクタイが汚れたら、カンタはどうなる?」
「えー、カンちゃんのスーツ姿あんま見たことないよー」
「想像で良い。どうなると思う?」
うーん、と悩む纏愛。
カンタがスーツを着るとすると、専門学校の入学式および卒業式くらいだろうか。その時、纏愛はまだ五、六歳といったところか。覚えていなくて当然だ。
「多分、家ではしっかり洗濯しているから、『まあ洗濯すればいいかなー』とか言って、怒らない!」
「不正解。カンタは俺の教育を受けている。ネクタイを汚されると、カンタも怒るぞ」
「え、マジで?」
「マジで」
俺も最初、カンタがネクタイについて感化されるとは思ってもいなかった。しかし、俺のネクタイ愛を語った時、カンタに響くものがあったのか、その日以降、制服を汚される度にクラスメートと喧嘩になっていた。
「この実験、不思議だろ? 水ナトをかけてみるまで、試験管がどんな反応をするのか、どんな色になるかわからない。これは人も同じだ。たとえ誰かに良いことをしてあげたとしても、その人にとっては嫌なことかもしれない」
俺とカンタ以外で例えるなら、電車がわかりやすい。
自分は電車の席に座っていて、ご老人が立っている場面。
そこで自分がご老人に席を譲ろうとする。
ありがとう、と言って座る人もいれば、大丈夫だよ、と断る人もいる。しかしなかには、老人扱いをするな、と怒る人もいる。
相手のご老人がどんな人かわかっていれば、どれが適切なものか、すぐにわかるかもしれない。
そのための分析であり、纏愛に教えたい『人を知ること』なのだ。
「相手を知らないと、自分の言動でその人を傷つけてしまうかもしれない。それは纏愛も同じだ。相手がどんな人か見極めないと、自分が傷ついてしまうかもしれないからな」
「……でも、優しいおじさんもいたよ?」
「全員が悪い人だなんて否定しているわけじゃない。もちろん、優しいおじさんもいたかもしれない。それは纏愛がその人を見て、そう思ったんだろう? なら、この前の件は?」
「それは……そう……かも……」
思い出したかのように、落ち込む纏愛。
きっと、今まで会っていたその『優しいおじさん』たちは、たまたま纏愛に良くしてくれたのだろう。幸運、もしくは不幸が来る前。
このまま続けていたら、もしかしたら以前よりも酷いことになっていたかもしれない。ルールを守ってくれる大人もいるが、ルールを守らない大人なんて、もっといる。
その見極めなど、今の纏愛にはできない。優しくしてくれた人は、ルールを守れていた。ただそれだけ。目の前にいるおじさんが、ルールを守ってくれる人かどうか。その判別は今までしていなかったことだろう。
俺はポン、と纏愛の頭に手を乗せるようにして。
「ほら、実験の続きするぞ。試験管はあと二本ある」
「同じことして、どう変わるか、だよね」
「そう。それを知るために、実験をするんだ」
纏愛の雰囲気が、少しだけ変わったような気がした。
俺も気を引き締めよう。
ネクタイを締めなおし、次の実験へと進めた。
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